70's/80's Monochrome Age and Years of Ektachrome film

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会津田島 (会津線) 1971

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福島県の会津地域には31軒の造り酒屋を数える。(福島県酒造協同組合加盟蔵/休醸場を含む)
酒蔵の淘汰の進む現代としては珍しい密集域なのである。この内の4軒の蔵元は南会津と呼ばれる人口希薄な山間地に所在している。「金紋会津」の会津酒造、「國権」の国権酒造、そして「開當男山」の開當男山酒造の3軒が、大川(阿賀川)の谷間に僅かばかり開けた田島盆地に、そして、そこから国道269号線を辿り駒止峠を越えて只見側水系の谷に抜けた旧南郷村に「瑞祥花泉」の花泉酒造がある。
この花泉酒造は、1920年と云う比較的近年に「雪深い季節に思うように酒が届かない」ことを事由に設立されたものである。その時点では地元素封家の起業であったかもしれぬのだが、戦前の不況下で一度倒産し、その際に「自分たちの酒は自分達で造ろう」と資金の零細ながら篤農家により再興された蔵でもある。戦後には、杜氏を招聘することなく、地元の手で、地元の米と水での醸造は酒蔵の本来の姿でもあり理想でもある。その酒は、濃醇で辛口、後味の良く呑み飽きしない。所謂捌けの良い酒である。

この南会津のどの蔵も年間一千石程の石高(生産量)と思われ、かつてはほんの少量が都内に流通するのみで、蔵元に特約店や問屋ルートを尋ねて出向いても入手出来るとは限らなかったのだが、地元での消費が頭打ちとなる中で、各蔵とも地酒の認知が進む大消費地である首都圏流通の整備を進めて、今では丹念にデパート関係を回れば巡り合える確率は高くなった。(「酒は出会い」と思っているので、ネット上での通販などは一度訪問した蔵を除けば、敢えて使っていないのである)

会津線の終点、会津滝ノ原を日光線の今市に結ぶ野岩線は、鉄道建設公団によるAB線(地方交通線)として1965年には山王トンネルの掘削に着手していたのだが、この71年当時に山峡の奥まったそこに降り立って線路の終端や、使われなくなった手動の転車台を眺めれば、まだまだ現実感のないものであった。紆余曲折の末、それは電気運転を採用した野岩鉄道会津・鬼怒川線として86年10月に開通し、4年後に電化は会津田島に及んでここは東武鉄道を介して首都圏に直結する駅となっている。一度このルートで会津若松へと抜けたことはあるけれど、電車に揺られる旅はそれがかつてC11が走った同じ線路とは俄には信じられないのだった。

この1971年当時、上り1392列車に対して会津田島-上三寄間に設定されていた補機運用は、ほとんど施行されなかったのだが、この日は、午後の1393列車がそれの送込回送である単363のスジにて運転された関係にて、会津田島の機関車駐泊所では2両のC11が煙を上げていた。
今、会津鉄道の車両基地検修庫のある位置である。

[Data] NikonF+P-AutoNikkor50mm/F2 1/125sec@f5.6 Y48 filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR3 on Mac.
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藤田 (東北本線) 1980

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70年代から東北新幹線の開業する1982年6月23日のダイヤ改正までは、東北線特急群の全盛期であったのだが、それを熱心に撮った記憶は無い。
会津行きに使っていた福島・会津磐梯の特殊用均一周遊乗車券の自由周遊区間が白石までを含んでいたから日程の一日を充てるとか、道内でのスケジュールの都合で帰路が<八甲田>になれば白石や福島で、それを降りていたくらいである。それでも行き先は、勝手を知り豊富にコンテを持っていた国見峠区間に決めていた。

今、国見峠と書いたけれど、地図上にこの名称は記されていない。それは福島盆地と白石盆地を遮る山塊に大きく切れ込んだ鞍部を越えるもので、ここでの東北本線の施工基面高196M96は藤田との差ならば100メートル程である。それでも東京起点291K付近から5キロに及ぶR400曲線の介在する25パーミル勾配が続き、蒸機運転時代には北海道連絡ルートを常磐線に譲る要因となっていた。
電化/複線化の成った後には電車列車は軽快に駆け上っていたけれど、数本設定の在った気動車列車は重い機関音と共に這うようにして登り詰め、藤田-越河間の運転時分で電機牽引客車列車の13分に対して15分を要する程であった。貨物列車なら引続き重連の領域である。

この頃に藤田に降り立てば北側に新幹線の高架橋が完成しつつあり、それが蔵王トンネルに吸い込まれる方向に歩くと、道は斜面を登り東北自動車道を越える架道橋上に至る。周囲の斜面には果樹園が広がり、眼下の福島盆地から厚樫山に取り付いてそれを迂回して往く線路が遠く一望出来た。

列車は、1008M<ひばり8号>。仙台運転所の12両組成による[A72]仕業である。
当初76年度に予定していた東北新幹線の開業が78年度にも不可能となり、東北線特急はその年の10月改正にて宇都宮以南区間を平行ダイヤ化して増発が行われ、それは過去最大の運転本数に達していた。この区間に立てば1時間に4本のそれを撮れた頃である。
桃の果樹が強い南風にざわめく。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.8 1/500sec@f5.6 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

富山 (高山本線) 1987

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翌朝には呉羽山のつもりでいたから、その日は宿を取らずに富山駅での駅寝を決め込んでいた。そこでの駅寝は初めてだったけれど、<きたぐに>の上下列車が深夜に発着していたから、それは可能と踏んでの行動である。
確かに待合室は、魚津や高岡方面への最終列車の後も開放されてはいたのだが、閑散とするだろうとの予測に反して何やら風体のよろしく無い男達が屯し、挙げ句に酒盛りを始める始末なのだった。まもなく警察官のやって来てひとりひとりに乗車券の所持を確認しながら排除を始めた。中のひとりの警官が大きな撮影機材に眼を留めたものか、ここに滞泊する事情の説明を求められたのである。彼には翌朝の撮影のためにここで夜を過ごすことが理解出来ぬらしく、夜行列車にも乗らぬならば旅館へ退去せよと云う。夜明け前に呉羽山に到達するに午前4時前には行動を始めること(タクシーで向かうつもりでいた)、そこから戻って乗車券の経路の列車に乗ることを再々度説明してもなお、半信半疑な様子ではあった。

この騒ぎもようやく収まりベンチに横になれば、今度は清掃員に起こされるのだった。24時間開放と思われたそこは、それには違いないのだが、2時を過ぎると一斉の清掃が入るらしかった。その間、一旦コンコースにでも避難せねばならない。
結局のところ一睡も出来ずに3時半を回った頃、件の警官が再び現れこう云った。「警らに出るので、ついでだから送ってやる」。居丈高なのでは無い。彼らなりのフレンドリーの発露である。誰も待合室には居なかったから良いものの、警察官に同行されてそこを出るのは「連行」に見えなくも無い。こうして夜明け前の呉羽山にパトカーで送込まれたのが、長い夜の結末である。

写真は、神通川橋梁(424M)を渡りそれを遡る進路を取る824D越中八尾行き。<のりくら>編成の間合い運用である。
この呉羽山公園の茶屋(貸席)のあるあたりは、立山連峰を背景に北陸本線を俯瞰する位置として定番であり、この日も早暁にやって来る寝台特急が目的だったのだが、もちろん高山本線も望める。
高山線が使用している橋梁は1899年の北陸本線開通時の架橋位置にあり、1927年9月1日の飛越線(現高山本線)開通に際しては橋梁米原方に、これの分岐/合流する田刈屋信号場が置かれて、以降には永く両線の列車がこれを共用していた。分離は1956年11月19日のことで下流側に隣接して新橋梁が架けられ、これを北陸線用とした。橋梁手前に見られる両線の不自然な曲線はこの切替にて生じており、かつての線形は現北陸線下り線の延長上に現高山線橋梁の在るところに見て取れる。なお、現高山線橋梁は同位置で架け替えられたものである。

[Data] NikonF3P+AiNikkorED300mm/F2.8 1/125sec@f2.8+1/2 FujiSC42filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

下北 (大湊線) 1973

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大湊線は、この年の10月改正で内燃機の導入が決まっていたから、その直前の道内行きでも途上に組み込んでいた。東北線の終着間近の野辺地なら、上野を19時過ぎの<八甲田>で翌朝5時半には到着し、すぐに大湊線の始発に乗り継げた。

むつ市は、藩政時代から南部藩の代官所が置かれ下北地域の中心であった田名部町と、戦前には帝国海軍の軍港を擁する軍事都市として発展し、戦後も海上自衛隊大湊地方隊の主要部隊の配備された大湊町が1959年に合併して成立している。1939年の大畑線開通以降は、この市域に三つの拠点駅が存在して役割を分担していたのが面白い。市街地中心部に位置して玄関口として機能していた田名部(開業時には本田名部)、大湊線終端で運転区や車掌区支区の置かれた大湊、そして両駅の貨物扱いを集約した形になっていた下北である。
大畑線の下北交通転換後には線路が分断され、旧大畑線本線を転用した専用乗降場に発着していた同線であるが、国鉄当時には全列車が大湊に直通しており、8往復の設定は大湊線と同等で内3往復は野辺地発着であった。これは偏に田名部駅の存在ゆえと思われる。

この当時の下北は、田名部川河口の関根浜埋立地に隣接して、島式乗降場を挟む大湊/大畑両本線の他、駅本屋野辺地方に2線の貨物積卸場を、海側にも2本の貨物側線を持ち、そこからは埋立地先端に向かって専用線も伸びていた。その先には、放射能の漏出事故で動くことのままならなかった原子力船「むつ」の船影を認めたものである。
線内貨物列車は下北発着にて設定され、機関車のみが配置区の大湊まで出入りしていた。

写真は、田名部川を廃しての放水路、新田名部川を渡る臨時貨物8782列車。
発車直後なので力行してくれるが、釜臥山はその煙に隠されてしまう。

大湊線は、この数日後に襲った集中豪雨の被害により長期運休を余儀なくされ、大湊運転区の3両のC11はそのまま火を落としたのだった。

[Data] NikonF photomicFTN+AutoNikkor50mm/F2 1/500sec@f5.6 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.

手ノ子 (米坂線) 1971

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この蒸機最期の冬、宇津峠区間には連日多くの鉄道屋が集っていた。
積雪の多い地域であるし、まだ自動車利用の撮影は一般的でなく、それでやって来るのは雪道に慣れた地元からばかりで大半の鉄道屋は米坂線で手ノ子に降り立っていたから、さして広くも無いここの待合室はごった返していたのである。蒸機列車の一本が走り去れば、それの撮影を終えた彼らが駅に戻りストーブを取り囲むのだけれど、当然ベンチが足りずに立っている者も居る始末だった。床も機材置場と化して、本来の米坂線利用者には迷惑な話だったろうが、それが気動車列車でない限り、地元の人々が駅にやって来る頃にはそこは空っぽだったから、さほどでも無かったのかも知れない。
この頃の鉄道屋同士は会話も弾んで、拙い撮影者には技法やお作法を学び、情報を得るに格好の場でもあった。今では信じられないことだが、この頃の手ノ子駅には弘済会の売店があり、その売り子のおばさんも加わっての賑わいであった。あれだけ人が居れば売店の売上に相当貢献していたはずで、それはおばさんも上機嫌に違いない。

信じられないついでに触れると、ここの普通列車では車内販売が回って来たのである。業者名は失念したけれど、羽越線の優等列車と同じ制服姿であった。ただし、そこでの販売員よりも明らかに年長と思われる米坂線担当には、妙に納得した覚えが有る。

写真は、それの気動車化まで存在していた混合列車、混125列車坂町行き。
ご覧の通り、ここでの組成は旅客車前位が定位であった。見ればオハユニ61も組成されており、客郵荷貨と全て揃った「豪華」編成である。
宇津トンネルの手前、米沢起点38キロ付近の盛土区間。列車前方アウトカーブ側の小高い丘からは多数のカメラが狙っている。斜面下のここは、それから死角になる位置である。
手ノ子は米沢盆地の西に尽きるところで、山間を縫う羽前沼沢側とは対照的に蛇行する宇津川沿いにトンネルに向けて詰める開けた景観が広がっていた。宇津峠は頂点の施工基面高が363メートルの米坂線の最高所であり分水嶺なのだが、ここに県境の通らないのは不思議な気のしたものだった。

[Data] NikonF+P-AutoNikkor35mm/F2.8 1/250sec@f5.6 Y48filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

上芥見 (名古屋鉄道・美濃町線) 1986

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その昔、水戸の市内電車を兼ねた茨城交通水浜線と云う軌道線があった。水戸市のメインストリートの路面を走る姿には記憶があったのだが、或る夏の日、帰省した母方の実家で従兄弟達と彼らの通う学校の校庭でのこと、甲高いタイフォンに気がつけば、その脇をあの市内電車が通り過ぎて往くのだった。驚いて近づいてみると、そこには路面ではなく鉄道と同じ線路が敷かれていた。上水戸と公園口間に存在していた軌道法で云うところの新設軌道である。札幌には無かった普通の鉄道線路の路面電車には強烈な印象を受け、以後永く記憶することになる。ここは1965年6月に廃止されてしまい撮影はしていない。

そして、福島交通の福島郊外への軌道線群である。『鉄道ファン』誌だったと思うが、福島駅前の路面から郊外に出れば田舎道の片側に敷かれた軌道を砂埃を捲き上げて走る姿に強く惹かれたのだった。道内行きの途上での立寄を計画していながら、1971年4月の全線廃止は寝耳に水で間に合わなかった。

さらには、東北本線列車の車窓に認めた花巻電鉄があった。山側の一段高いところに在った社線花巻駅の低いホームに停まる、同じく鉄道線路の路面電車然とした車両が印象的であった。メインの鉛線は1969年に廃されて、眺めたのはその頃には岩手中央バスの傘下入りしていた花巻温泉線なのだが、まもなくそれに代替されて、これも撮らず仕舞いだった。

この美濃町線は、動機は異なるにせよ多くの人々がそうであるように、それらの雪辱戦なのである。岐阜市内の路面中央部から野一色で道路端の軌道敷へ、岩田付近から美濃町への新設軌道区間とこの時期に揃って撮れたのは、この線区くらいだった。
国道を外れた上芥見付近は、新設軌道区間に挟まれて長良川沿いの田舎道の片側に軌道敷を設けた併用軌道で、川側には住宅の建ち始めていたものの線路敷の在る山側には滋味のある風景が続いていた。

写真は、新関止まりのモ600型。
田神線を経由しての各務原線新岐阜乗入れのため、同線規格の鉄道線ホームに対応した高床車だけれど、形態は十分に路面電車のそれである。
背景を良く見れば、かつては何処にでも在った消防の半鐘の下げられた火の見櫓が泣かせてくれる。この頃でも無用の長物だったから老朽化とともに解体されて、今ではすっかり見かけない。
この線区は岐阜からも美濃太田からもアプローチが利いたから、高山線行きのスケジュールに組み入れば良かった。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/250sec@f8 Fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

飯浦 (山陰本線) 1974

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そこの蒸機運転末期にあたる1974年の春先から秋口にかけて、何度か山陰本線に通った。一般用山陰均一周遊乗車券の自由周遊区間は綾部から長門市までの山陰本線を含んでいたけれど、末期とあっては、訪問はもっぱら米子以西区間に限られた。都区内発着のこれは、乗車船経路に東海道/山陽本線からの横断線の全てが指定されていて魅力だったのだが、やはり所要時間と効率の関係で新幹線接続の伯備線<やくも>か寝台特急<出雲>の利用とならざるを得なかった。それでも、芸備線に木次線、山口線、美祢線には、この機会に乗っている。どれも気動車急行で通り抜けたから隔世の感がある。
この74年に道内行きの少ないのは、これによる。

蒸機運転の末期ながら浜田以西区間にDD51の入線はなく、一部に米子機関区のDF50の牽引列車のあったものの多くが浜田や長門のD51に牽かれており、撮影効率は良かったのである。これは秋の無煙化まで変わらなかった。
とは云え、その山陰線区間は長大で事前のロケハンも困難とあっては、勢い事前の5万分の一地形図での調査に頼らざるを得ず、見逃したポイントも多い。

写真は、飯浦の集落を見下ろして人形トンネルへの25パーミルを上る828列車。下関から米子まで、10時間余りをかけて走っていた。
ここも、内陸へと旋回して停車場に至る線形から見逃していて、人形トンネルを出た下り列車からの眺望に思わず降り立ったのだった。飯浦漁港の防波堤からは、それを前景に、この地方らしい石州瓦の家並みに列車を画角に取り込める数少ないポイントであった。
今この区間がキハ120の単行列車もしくは2両組成で間に合う輸送量と聞けば、後部の郵便荷物車を含む6両編成の列車には感慨を覚える。もちろんキハ80系列の特急<まつかぜ>も食堂車を含む7両で駆け抜けていた。

右端のクラシックな建物は、ここの漁協で、寄せ棟のジャンルである方形(ほうぎょう)屋根に瓦が印象的だった。
強い西日だけれど、穏やかな夕刻である。

[Data] NikonF2A+AutoNikkor105mm/F2.5 1/500sec@f8 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

撫牛子-川部 (奥羽本線) 1981

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弘前を出た奥羽本線はR400曲線で右に回って市街地を離れると、浪岡までほぼ直線の線形を維持し、そこは平坦な津軽平野の中央部である。243メートルの第一平川橋梁を挟むこの区間も、それを除けば周囲は淡々とした農村地帯が続いている。
何の変哲も無い田園の景観に、ここへは何度か降りて歩いたものだった。国道からは離れていたからロードサイドの商業施設の派手な看板も見当たらず、線路と距離をおいて県道や農道を、時には畦道を辿りながら「風景」を探すのは楽しいトレッキングになっていた。そして、何も無いはずなのに毎回何かしらは見つけるのではあった。

この日、田舎館村豊蒔地区の収穫の済んだ畑作地には、なにやら夏祭りの仮設舞台然とした構築物の後ろ姿が見て取れた。傾斜して張られた屋根のシートが、それを思わせたのである。近づいて前に回り込んでも、やはり仮設舞台に見えてしまうそれは収穫物の乾燥施設と思われ,そこに干されていたのは見事な「にんにく」なのだった。
青森県がそれの生産県として周知され、ブランド化の進行したのは1990年代以降であり、その主要な栽培地は南部地方の十和田市や田子町とされるけれど、古くからこの津軽平野でも栽培実績があり、その中心地はここよりやや北の常盤村であった。ここ田舎館村域で生産されていても不思議はない訳である。
常盤村は2005年に藤崎町に合併し消滅したけれど、これも合併にて誕生した津軽みらい農協では、現在これを「常盤にんにく」としてブランド化を進めている。

にんにく畑の向こうを往くのは635列車。弘前-青森間の区間列車である。
弘前客貨車区へのオハ/オハフ50の配置は1978年度第一次債務計画により新製の35両に始まり、1979年5月10日より営業運転への投入の開始され、秋田-青森間の区間列車を含む上下33本中15本に運用されて、それは遠く羽越線の新津まで及んだ。この後、1979年度第三次債務計画車-28両の秋田運転区への配備、1981年度第二次債務車の弘前へ18両、秋田へ20両の増備を以て、1982年12月までにこの区間の在来型客車が一掃されたのだった。

[Data] NikonF3+AiNikkor28mm/F2.8 1/500sec@f8 Nikon Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

徳沢 (磐越西線) 1977

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磐越西線は、郡山から新津まで175.6キロの長い線区であり、山線の中山峠や更科に立ち寄るでも無い限り道内行きの途上に組み込むより、会津/只見線とともに数日を充てることが多かった。
福島・会津磐梯のミニ周遊券は、喜多方までしか自由周遊区間に含まれず、そこへの乗車船経路も新津経由は認められていなかったから、これを使うのはもっぱら郡山へ「駅ネ」に通うためであり、磐越西線川線の核心区間へ向かうなら都区内発着で郡山/新津を回る連続乗車券に掛け捨ての周遊指定地接続線を加えた一般周遊券を組んでいた。
出発は、いつもの上野23時55分だった<ばんだい6号>で、会津若松から川線の始発に乗り継げば7時前に徳沢まで到達出来た。このほうが、上越線の夜行<佐渡>で新津を回るより早かったのである。

この当時の徳沢と豊実の県境を跨ぐ区間は、阿賀野川(福島県側では阿賀川)への徳石大橋が架橋されて、ようやく国道459号線が繋がったばかりだった。それまでは鉄道による以外には、阿賀野川の水面交通に頼る他に無く、幸いなことに1929年に竣工した豊実ダムにより水流は穏やかで、徳石大橋に近い位置に「渡し」が設けられていた。古くからの奥川橋を渡り元島集落から険しい山道で楢木峠を越える陸路も存在したけれど、人的交流や物資輸送に磐越西線は、ここでの生命線と云って過言でなかったのである。いまでこそ、ここに県境が走るが、新潟側の東蒲原郡域は近世以来の会津藩領であり、幕藩体制の崩壊以降も1886年までは福島県に属して耶麻郡側との交流は深かったものと思われる。

けれど、駅の在る徳沢集落から対岸へ指呼の間である新渡集落へはこの当時も架橋が無く、徳根集落との間におそらくは新渡側で用意したであろう小舟の繋船されてはいたものの、徳沢への鉄道橋を集落の人々皆が徒歩で渡っていた。これには国鉄も黙認せざるを得なかったものだろう。
この日のここへの下車は、この1900年代初頭に架けられたピン結合によるアメリカンブリッジ製下路式曲弦プラットトラスの阿賀野川徳沢橋梁(194M)が目当てであったのだが、徳沢方では見上げる他にどうにも足場が取れずに、ここを渡って新渡集落へと向かった。
そこは緩やかな斜面一面に棚田が連なり、杉木立に10戸に満たない農家が肩寄せ合うように存在する山里で、山峡の阿賀野川の眺めは素晴らしく、鉄橋よりもそちらに眼を奪われたのだった。

写真は、低い雪崩覆を抜けて新渡沢橋梁へと差し掛かる226列車郡山行き。
斜面の下端に並ぶ稲架掛けの組み木が印象的であった。

実を云えば、これは写真技術習得の王道に従い『蒸気機関車』誌に在ったカットの「模倣」なのだが、それには蒸機の煙の不可欠であることをシャッタの瞬間に悟った。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.8 1/125sec@f8 Non filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

落合川 (中央本線) 1988

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いつもは大垣夜行で始めていた高山本線行きを、この日は久し振りで中央西線に乗って見たくなり八王子から夜行<アルプス>を利用した。松本で<しなの2号>に乗換えて沿線を眺め、多治見で太多線へ乗継げば昼前には美濃太田に着ける算段である。
けれど、好天の車窓を見る内に、そのまま通り過ぎるのが惜しくなってしまったのだった。

落合川は蒸気撮影の時代から幾度か撮っていて、勝手知ったる場所である。中津川から国道19号線を坂下方面への濃飛バスに乗れば、それは木曽川右岸の斜面の中腹を往くから、眼下に落合川の谷を見下ろせた。一日を、この国道からの俯瞰に決めて一番塩尻寄りの第一木曽川橋梁から撮り始めたのだった。
ここは、山峡を往く西線区間の西端で谷も緩やかとなり、関電の落合ダムにて堰止められた木曽川の水面も広がる開放的な地形である。対岸も含めて斜面には見事な棚田が連なって、そこに民家が点在し、加えての杉木立と竹林の共存が、ここでの景観を特徴付けでいた。それは俯瞰しても、駅から仰ぎ見ても好ましい風景で、斜面や河畔には料理旅館や割烹の店が数軒存在していて、隠れ里的な情緒も感じられるのである。

写真は、新第二落合山トンネルへと向かう7016M<しなの16号>。後追いになる。
夏至までひと月の遅い日差しが、山峡に長い影を引くまで待って撮っている。

[Data] NikonF4s+AiNikkor50mm/F1.4S 1/500sec@f5.6 Fuji SC56filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

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