70's/80's Monochrome Age and Years of Ektachrome film

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千畳敷臨時乗降場 (五能線) 1971

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青森県西津軽郡深浦町に所在の千畳敷海岸は、1793年2月8日(旧暦1972年12月28日)の深浦・鯵ヶ沢を中心とした地震による隆起地形(段丘面)である。後に津軽藩主の保養地となり、その平坦地形に畳を敷いて宴を張ったとの故事から「千畳敷」と名付けられ、五能線の全通する1930年代の観光ガイドブック、例えば三省堂発行の「鉄道旅行図」などにも「奇勝 千畳敷」として特記されていたから、全国的なプロモウションはなされていたものと思われる。
けれど、如何に奇勝と云えども、戦前期の鉄道による観光旅行者など限られた時代に、ましてこのような北辺の地を訪れる遊山客なぞ稀であったのだろう。そこに隣接して通過する五能線に旅客乗降設備の設けられたのは、戦後の1954年7月7日と記録される。これとて、観光客誘致と云うより海水浴客の便宜を図ってのことであった。

この仮乗降場は、1969年10月1日付にて晴れて鉄道公報に公示され臨時乗降場となるも、粗末な木製の乗降場の置かれた実態に変わりは無かった。東日本旅客鉃道への承継後に臨時駅を経て正駅となった現在では、全列車が通年停車しているが、この71年当時も海水浴臨時駅の性格が強く、その短いシーズンに日中の数本が停車するのみであった。
9月も末とあれば一夏の賑わいも去って停車列車は無く、ここまで鯵ヶ沢と深浦間に運行のバスを利用した覚えがある。国道沿いに並ぶ飲食店も大半が既に店仕舞しており、僅かに奥の1店だけがドライブ客相手に営業していたものである。

写真は、千畳敷臨時乗降場を「通過」する混合1737列車弘前行き。夏の間ならば停車し客扱いの在るのだけれど、日によって実車両数の異なる貨車編成が客車の前位となる組成で、如何にして客車編成を短い乗降場に合わせていたものか。速度を十分に低下させての「目視」の他に考えられない。

[Data] NikomatFTN+AutoNikkor105mm/F2.5 1/250sec@f5.6 Y48 filter Tri-X(ISO400) Edit by PhotoshopLR3 on Mac.
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風合瀬 (五能線) 1979

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もう盛夏を過ぎて、上野からの<八甲田>を降りた早朝の青森では、海峡を渡る風も冷んやりとする頃だったけれど、日中の津軽西海岸には、それでも磯遊びの人々の姿があった。
この風合瀬の浜が、海水浴場であったのか、海水浴適地だったのかは知らぬが、真夏であっても海水は冷たいのであろうか、その海水浴スタイルは北海道のそれなのである。すなわち、テントやバーナーを持ち込んでバーベキューを楽しむ「お作法」である。この日も浜には色とりどりのテントが並んでいた。

蒸機撮影の時代に、ここに降り立ったのは多くの人が書いているように、その駅名に惹かれてのことである。国道も未舗装の当時ならば轟木方の段丘上に立ちさえすれば、岩礁を背景に海岸線をトレースして来る列車を存分に楽しめたものだけれど、それの整備後には叶わなくなっていた。それでも、ここに降りてしまうのは駅名の響きとロケーションの魅力に違いない。国道側から緩い坂道を下りて、180度引き返すような道を辿ると数軒の民家を過ぎ、そのまま乗降場につながって行き止まりなのだった。そして、低い松林の向こうに海鳴りを聴くのである。

大戸瀬方に歩くと浜番屋が建ち並んでいて、この頃には魅力だったのだが→黄金 (室蘭本線) 1979 、背後の盛土上を往く線路とはやや距離のあって、どうにもまとめ難かった覚えが在る。今なら、きっと脚立を持って行くだろう。

風合瀬の、夏と秋との迫間の空。
キハ22は、唯一内地にも配備された北海道向けの形式であった。特に青森県内のルーラル線区ではキハ40の入るまで主力と云って過言でない。その南限は郡山客貨車区で磐越東線に使われた。
それとキハ40 500番台が併結されると、ユニット窓との組合せに奇異な感覚を覚えたものだった。
列車は、1741D弘前行き。

[Data] NikonF2A+AiNikkor28mm/F2.8 1/250sec@f8 O52 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

鹿又 (石巻線) 1972

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今は、コンバインによる刈取りと強制乾燥が一般化して、失われつつあるのが、圃場における稲の自然乾燥である。
稲作の北限地帯を除けば、田圃を往く鉄道の風景は平野部はもとより極端な山間地にまで存在するから、鉄道屋には当たり前の景観になる。冬の雪原、田植えから青く成長して往く夏へと平面的に広がる圃場に、立体感の生まれるのが刈入れの季節であった。稲の天日乾燥の景観である。

大別して、稲架(はさ)掛け/稲杭掛け/穂仁王(ほにょ)掛けとある、乾燥方法やそれの地域分布についてはWeb上に多くの記事あるので、ここでは繰返さないけれど、ここ宮城県の河南町/涌谷町を含む河北平野では稲杭掛けが一般的であった。
農家によって、杭掛けとか棒掛けと呼ばれたこの方式は、稲束の積み上げられることで乾燥効率は落ちるものの、強風に強い利点の在って、なるほど、ここはその時期ともなれば吹き始める栗駒おろしの末端なのであった。それも風への対抗策なのか、稲束は2メートル程ある杭の半分程度までしか掛けられず、高さ一杯まで積み上げて、これを穂仁王と称する地域もある中では特徴的に思えた。

写真は、その杭掛けの林立する中を抜けて往く893列車。石巻港へのワム80000の空車回送である。
この仙石線への直通貨物は、石巻/石巻港ともに転車台の設備がなく、下りは正方向運転だけれど、上りは逆向運転が所定であった。
この区間では、これの日中8本に加えて女川発着の3本もあり、撮影効率は極めて良かった。

ここで一日を過ごし、小牛田にも停車した11M<みちのく>を捕まえれば青函深夜便で海峡を渡れた。

[Data] NikonF+P-AutoNikkor50mm/F2  1/500sec@f5.6 Y48filter  NeopanSSS  Edit by PhptpshopLR3 on Mac.

焼石-少ヶ野信号場 (高山本線) 1987

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国鉄民営化の年である1987年には、一度も渡道しなかった。理由は、道内編の御影 (根室本線) 1974に書いた通りである。その代わりに、この頃一時的に暮らしていた福岡に居れば久大本線に通い、東京からなら高山本線とその周辺線区を撮っていた。

高山本線は1981年から通っていたけれど、まだまだ手が回らなくて、坂祝や白川口周辺に飛騨金山から下呂の区間、そして飛騨小坂-渚間に宮峠区間と云ったところをひとつひとつツブしていた頃である。高山以北はロケハンに終始していた。
この区間を含む均一周遊券は、一般用/特殊用とも設定されておらず、都区内発着で東海道/高山/北陸/信越/高崎/東北線を経由する片道券に、静岡-久能山下間の静鉄バスと下呂-湯ノ島間の濃飛バスを指定地接続線に付して普通周遊乗車券を組み、旅客鉄道会社線の2割引を得ていた。勿論、接続線は掛け捨てである。これにて、大垣夜行で出発して富山から<能登>で戻るのを行路にしていて、かつての会津通いのように、2・3日のオフが作れれば十分に楽しめたのだった。

写真は、第五益田川橋梁(158M)上での705D<のりくら5号>。下呂からは普通列車739D高山行きとなる。
名古屋南運転区の急行気動車-4両基本運用は、岐阜方1号車をキハ58の所定としていたけれど、実際にはキハ65の組成が多く、翌88年の3月改正からはそれが所定となった。

釣鐘トンネルから続く、この第五益田川橋梁は、桜の時期の国道41号線上からの画角で知られるが、この季節に益田川流路の巨岩から見上げると、傾き始めた太陽はその谷筋に一致して、15パーミル勾配を登る気動車の排気が逆光に浮かぶ。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/500sec@f8 Fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

及位-院内 (奥羽本線) 1975

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キハ181系特急形気動車を続けたいと思う。
<つばさ>運転線区の奥羽本線羽前千歳-秋田間は、東北地域幹線電化の最後の区間として1975年11月25日に電化開業を迎えた。黒磯以北に電化の及んでから16年目のことであった。
この日を以て<つばさ>2往復は485系電車へと置替られたのだが、それは耐寒耐雪装備を強化した1000番台車の出場が間に合わず、翌年に予定の長崎・佐世保線電化用の先行落成車を一時的に転用したものとなっていた。東北内陸のルーラル地域でのことで、上野口には<つばさ>の運用車以外に変化なく、その到達時分も20分の短縮に過ぎないとあっては、さほど話題に上ることも無いものではあった。
国鉄の緊縮財政、モラル低下の時代背景からか、特に秋田での行事も予定されないと聞き、11月24日に撮影に出向いたのだった。ポイントは、この区間最大の難所である雄勝峠に決めていた。

写真は、短い岩瀬トンネルに向けて第二雄勝川橋梁(315M)を渡る4D<つばさ2号>。上りの最終列車である。
この区間、峠頂上付近は、1356Mの院内トンネルの掘削により、この雄大な橋梁を含む新線に切替えられて曲線改良のなされたものの、輸送量の大きくは無い区間とあって標準勾配は20パーミルに緩和されたのみで、ここも19.7パーミル勾配上にある。4Dは、高出力機関のフルノッチの高速で駆け上がって往った。
この日は、1Dの折返しとなる12D<あおば>まで本系列にて運転され、仙台到着21時25分がこの地域における気動車特急の最後であり、それに横手から乗車している。
なお、この編成は秋田へ戻ること無く、翌日に仙台運転所から尾久へ向けて無動力回送された。

さて、この時点で59両の配置であった尾久客車区の本系列のその後である。
この内33両は山口線<おき>置替用として小郡機関区へ転ずるものの、これに再起するまで1年間失業し、予備車増強用として米子区と高松区へ送られた16両も、彼の地の配置は既に余剰気味だったのである。そして、尾久にも10両が残され、実車は東大宮の片隅に永く放置されていたのをご記憶の方も多いだろう。
この全ては、73年7月の中央西線電化に際して381系電車に置替られた名古屋機関区の<しなの>運用車の同区<ひだ>への転用計画が、現場の強硬な反対により頓挫していたことに起因する。本社では<つばさ>からの転用車で<ひだ>の増発を計画していたのである。
本系列の試作車にあたるキハ90/91系列から保守に苦労した名古屋区としては、未成熟な高出力機関をこれ以上受け入れられぬと云うことだったのだろう。73年10月にそこを去っていた本系列の再配置は無理な話だったのである。小郡機関区の<おき>運用も組合との折衝・説得に一年を要した結果と聞いている。
東大宮派出での留置は、余剰ながら法定耐用年数に達しないがゆえの措置であった。つくづく不運な車両群と思う。

[Data] NikonF2A+AiNikkor105mm/F1.8S 1/500sec@f8 Y48 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

陸中川尻 (北上線) 1974

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奥羽本線の上野-秋田間特急<つばさ>にキハ181系の投入されたのは、1970年2月のことであった。
尾久客車区に50両を新製配置してのそれは、68年10月改正での中央西線<しなの>に続くもので、キハ80系気動車からの置替では最初の事例となった。機関の出力不足から板谷峠区間をEF71の牽引とされ7両に制限を受けていた編成組成が、高出力機関による自力走行化にて増結可能なこと、最高速度120km/hにて運転する東北本線区間の長く到達時分の短縮が望めることなどが、その事由として挙げられていた。
置替後の<つばさ>は10両組成に輸送力が増強され、最大で40分もの到達時分短縮を実現したのだけれど、所定編成を12両化した71年の7月頃から、福米間運転時の機関への高負荷に起因する故障の多発するようになり、翌年春には予備車の確保から編成の減車を余儀なくされるまでに至った。このため、遂には72年12月29日を以て、今度はEF71を補機とした協調運転が施行され、再び同機との連結編成が見られるようになったのだった。
それでも問題の根絶されたで無く、走行機関関連の不調は共通運用の<あおば>運用時に生ずることも勿論あった。

この日、11D<あおば>は、仙台を出て間もない塩釜-松島間にて逆転器の不調から走行不能となり、前途の運行を打切って、編成は所定経路の北上線にて秋田へと戻された。気動車設備の無い仙台運転所での処置が困難なためであろう。
実は、秋の道内撮影の途上、上野から<十和田2号>で北上線へと入り、第二和賀川橋梁にて<あおば>を待ったのだけれど定刻を過ぎても一向に現れず、2時間後の急行<きたかみ>にて代用してから、情報を取りに陸中川尻まで戻ったのだった。情報端末など無い時代ゆえ、駅間に居たのではそれは得られぬのである。
聞けば、まもなくその秋田運転区への回送が通ると云う。あわてて駅至近の第一和賀川橋梁へ引き返しての撮影が、このカットである。

やって来たそれは、DD51の重連に牽かれた無動力回送運転であった。サーヴィス電源も非稼働で車内照明が落とされた中、食堂車乗務員だけが手持ち無沙汰に見えた。
<あおば>の定刻からだと5時間余りの遅れである。

[Data] NikonF2A+AutoNikkor105mm/F2.5 1/500sec@f8 Y48filter Tri-X(ISO400) Edit by CaptureOne5 on Mac.

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