70's/80's Monochrome Age and Years of Ektachrome film

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津軽湯の沢-碇ヶ関 (奥羽本線) 1979

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波動輸送用として計画され、1970年に大阪千里丘陵にて開催された日本万国博覧会への観客輸送、所謂万博輸送に間に合わせるべく新製投入された、オハ12系急行形客車は、1969年6月に出場の先行量産車-18両に始まり1971年6月までに計468両、6両を単位にしていた編成にて78本が北海道・四国を除く全国に配置されながら、本当に新製名目どおりの波動輸送にしか使用されなかったのである。

この当時、輸送の繁忙期には多数の多客臨時列車が設定されており、定期列車の予備編成による電車・気動車列車も運転されるものの、大半は機関車牽引の客車列車であった。それは一部を除けば各区の予備車からの捻出によっていて、急行列車と云えどもオハ61やスハ32の組成も見られる遜色振りが、この系列の登場にて一変し、定期列車と臨時列車で旅客サーヴィスの逆転を生じたのである。特に夏期における冷房サーヴィスの有無は大きく、電車急行ですら普通座席車が完全冷房でない時代に、時刻表には「冷房のある臨時列車」として記載される程で、定期列車から溢れて仕方なく乗っていた臨時列車に旅客の集中する事態が出現したのであった。

けれど、これは確かに尋常とは云えず、定期列車の改善要求が利用者ばかりで無く部内からも挙がり、大阪-妙高高原間季節列車の7801-8801・8802-7802<ちくま1・1号>が1972年12月21日大阪発の運転より2編成併結の12両組成に置替られ、登場から4年余りを経た1973年10月1日改正にて、大阪-青森間501・502<きたぐに>、京都-広島間呉線経由の303・304<音戸2・1号>で定期列車への運用が実現することになる。
両列車とも在来型の寝台車や特別車との混結組成で、投入列車の選定に際しては、12系客車が6両組成を単位としており、普通座席車組成順位にその単位にて組み込めることが条件とされた。ちなみに、上記3列車とも宮原客車区の運用である。
この後、75年3月10日改正までに、尾久客車区・青森運転所の運用も加えて定期・季節で5往復列車が追加されている。(但し303・304は同改正にて列車廃止)

国道7号線の旧道脇で見かけた農耕小屋の向こうを往くのは、405列車<津軽3号>。
隣の電柱が歪んで見えるのは、何も広角レンズのせいばかりではない。この電柱、実際に反っていたのである。ファインダであまりに「曲がって」見えてしまい、何度も肉眼で確認し直した覚えがある。

<津軽>への投入は78年10月2日改正にて行われ、この後、79年4月の103・102<八甲田>、79年10月改正での205・202<十和田>と続き、<ニセコ>を除く定期列車の新系列化が完了している。
76年度から78年度までに125両を新製してのことであり、この久し振りの増備は急行列車の体質改善用と見て良いのだが、この時点で既に一部でオハ14系特急形座席客車の急行転用がなされており、今にして思えば些か疑問の残る施策ではあった。もっとも、この頃の夜行急行の座席にはまだまだ需要が在ったから、14系での増備は定員確保上から見送られたのかも知れない。

[Data] NikonF2A+AiNikkor28mm/F2.8 1/500sec@f5.6 O56 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR3 on Mac.
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岩出山 (陸羽東線) 1972

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小牛田からの陸羽東線の始発は、とても朝早くて5時前だったと記憶している。中山平や堺田には6時台に到着出来るけれど、着いても撮るべき列車は無い。6時過ぎの2番列車で十分で、これなら上野を23時30分の<いわて3号>から5分で接続していた。
重連の牽く1790列車から一日を始めるならば、この723Dで堺田へ向かわねばならないけれど、朝方には岩出山で上下の貨物が対向していて、こちらも捨て難いのだった。
7時前の岩出山に降り立てば、既に上り1番線には5760列車が到着していて、まもなく下り本線へは1791列車が入線して来る。1791列車はここで貨車解結の構内入換があって、その様子を眺めてから下り方へ歩いて同列車の出発を撮り、次には上り方へと転進して5790列車の発車をねらう。これが、朝の岩出山でのセオリーであった。

この駅は街外れに位置するので当初には気がつかなかったのだが、市街地を散策してみれば、そこには情緒在る落ち着いた街並が連なっていた。造り酒屋に味噌に醤油の醸造元の微生物使い御三家はもとより、その微生物が生業のもやし(麹菌)屋までもが商い、割烹/料亭のひっそりとした黒塀に、和菓子屋のこじんまりした軒も並ぶのである。
DISCOVER JAPAN キャンペーンの最中にあった当時、観光地化されても不思議はない街並だったけれど、ここで観光客らしき姿を見かけたことはなかった。
民家の軒先に吊り下げられた干し柿に高野豆腐のすだれも印象的で、この頃までは、各家庭が自家製造していたものだろう。ここでは、あんぽ柿に凍み豆腐である。
近年に至って、全国京都会議の認定を受けて「小京都」を名乗るようだが、その街並はやはり城下町、武家文化のそれである。

現行の駅舎は、1983年に要員の引上げられた開業以来の本屋を放棄し、それに隣接して置かれたカプセルタイプのものである。大型のダルマ駅と云ったそれは、2008年の観光キャンペーンの際に人を小馬鹿にしたような陳腐なデコレーションを施されている。感性の貧しいとしか言いようがない。観光地の玄関とするなら、せっかく残された歴史を刻む旧駅舎を活用すべきだった。

写真は、岩出山周縁を抜ける1791列車。
干し柿の軒先との組み合わせに画角が切れなくて、柿の木とする。

[Data] NikonF+P-AutoNikkor50mm/F2  1/500sec@f4 Y48filter  NeopanSSS  Edit by CaptureOne5 on Mac.

長町 (東北本線) 1972

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道内への往還途上で度々仙台に降りていたことは前にも書いた。仙山線への立寄だったり、市内電車の撮影だったりだが、その隣駅長町駅も東側に広い敷地を持っていた長町機関区ともども、苗穂駅との比較で興味深く眺めたりもしていたのだった。

逼迫した輸送需要に対して設備の近代化と改善を図った「第三次長期計画」途上の成果として実施された1968年10月1日改正にて、国鉄は東北本線の全線電化と複線化の完成を喧伝した。電車化された<はつかり>は上野-青森間を8時間15分と云う、当時としては驚異的な到達時分で駆け抜けたのは、その改良された線路設備に依る。
それとは無関係なのだけれど、厳密に云えば、この時点にて東北本線を構成する区間では3箇所に単線区間が残されていた。青森操車場に分岐して桟橋へと向かう貨物運転線を含めれば、確かに複線なのだけれど、旅客線の上下線の合流してしまう青森入駅直前の区間、岩切からの旧線の一部区間である通称-利府線、そして、この長町-東仙台間を宮城野駅を置いて短絡していた通称-宮城野貨物線である。(利府線は非電化でもあったから、全線電化も正確ではなかったことになる)
この内、1960年10月1日の開業時から全線で用地を確保していた宮城野貨物線は、1972年12月18日に長町-宮城野間が、ひと月後の73年1月16日に東仙台まで複線化されるも、残りの2区間は現在もなお単線運転である。

写真は、単線当時の広瀬川橋梁に市内電車撮影の折に立ち寄った際のカットである。煩雑に走る貨物列車に終末期を迎えつつ在ったED71を記録するつもりだったが、やって来たそれはED75を従えた三重連で驚いた記憶がある。長町機関区から宮城野への回送であろうが、全てパンタの上がった有火であるから正真正銘の三重連ではある。

貨物の長町駅は、上下の貨物運転線で広大な操車場と機関区/貨車区を抱込む配線となっていて、下りの貨物列車は長町駅場内信号機で上り本線を横断して東側の貨物着発線に入り、それはこの橋梁に結ばれていたから、長町駅のホームを貨物列車の通過することはなかった。上り貨物線は橋梁東京方で下り線と分かれて操車場の東端を進み、遥か名取川橋梁手前で旅客運転線へ合流していた。運転上は、この間3キロ余りの構内長を持っていたことになる。
宮城野までの複線化に際しては、橋梁青森方に旅客・貨物運転線間の渡り線が新設され、長町構内を本線にて通過する下り貨物列車の例を見るようになった。これは、73年2月2日から78年10月1日まで続けられた、仙台駅での新幹線工事関連の深夜帯旅客列車の貨物線迂回に対応してのことで、それの終了後も永く維持されていたけれど、操車場も機関区も無くなり、旅客施設自体も高架駅となった現在、宮城野貨物線への分岐は旅客ホームを過ぎた高架橋上での配線に改められている。

[Data] NikonF+P-AutoNikkor50mm/F2  1/125sec@f8 Y48filter  NeopanSSS  Edit by PhptpshopCS3 on Mac.

北常盤 (奥羽本線) 1979

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10月の津軽平野は稲わら焼きの季節である。
秋色の平野に野焼きのたなびく煙は、旅する人にはここでの心象風景でもあった。

ところが、近年ではそれが煙害と認識されているらしい。確かに、この季節なら良く晴れた夜など放射冷却にて地表付近に煙の留まることもあり、かつて五所川原で市街地全てがそれに包まれる光景も目撃して、わからぬでもない。
県では条例まで制定して自粛を呼びかけた結果、そのデータによれば1972年度に全県の水稲作付け面積の31.5%で行われていたものが、2011年度には1.7%にまで減少したと云う。
住民への健康被害や高速道路の開通に伴うそこでの視界不良などを事由としていて、都市市街地が物理的に農村部に拡大しているのも確かだけれど、むしろ近代の都市意識がそこに浸透したものと思う。以前に、道内編の計根別 (標津線) 1975でも書いたように、ルーラルな地域とは、もはや存在しないものなのだ。

車窓には、いつも見ていた気がする稲稾焼きなのだが、実際に鉄道風景として撮ろうするのは難しかった。その年の農作業の進行状況に左右され、雨天では行われないタイミングは、線路沿いに農地を持つ農家に知り合いでも居ない限り事前情報は得られぬし、例え立ち会えても、その規模や当日の風向きやその強さで,思い描いた絵にはなかなかならないのだった。

写真は、川部から続く直線区間での405列車<津軽3号>。
78年10月改正で普通座席車が12系に置替られた後も組成されていたスロフ62は、この年の10月1日改正にて外されてしまった。

この稲稾焼き、郷愁を呼び起こす光景でも在り、中には秋吉台や阿蘇カルデラでの野焼きのように、期日/地域を限って観光資源化せよ、との意見もあるようだが、これは都市の論理である。

[Data] NikonF2A+AiNikkor105mm/F2.5 1/250sec@f5.6 O56 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

赤坂田-小屋の畑 (花輪線) 1971

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内地に転居して、そこから北海道へ通うようになった頃、青函を渡る前の地域の蒸機運転は終末期を迎えていた。
この花輪線も1971年の秋にはDE10の投入が予定されていて、それを前に幾度か実施されたファンスペシャルに<八甲田>の客となったのだった。
この特別運行は、この頃には定期仕業で無くなっていた下り列車での前々補機、すなわち三重連を再現するばかりでなく、岩手松尾に転車台設備の無く、新町向きを定位としていた関係から後補機に限定された上り列車でも、それを施行するものであった。このためには機関車/乗務員/構内作業員の運用に大幅な変更を要して、盛岡鉄道管理局の大盤振る舞いである。

梅雨の季節にもかかわらず、午前4時前に到着した盛岡では大勢の下車があり、その待合室には一見してそれとわかる駅寝の姿も見られて、大館行きの始発列車は岩手松尾や龍ケ森を目指しての撮影者で満員の有様であった。龍ケ森に降り立てば、定番の腰の森トンネル出口側のR302曲線区間と云い、龍ケ森トンネルを赤坂田側に抜けた区間と云い、沿線には人々の貼り付いて、とても画角の選べるものでは無かった。人出のある現場は、函館線の上目名で経験済みではあったけれど、ここはその比ではなく無秩序で罵声の飛び交う様には呆れたものだった。
この光景は、まもなく各地で再現されることとなり、それは大半が鉄道屋とは云えぬ俄参入者によるものと思う。

この大場谷地峠区間の喧噪に嫌気の差し、翌日には、そこから下った里の区間にロケハンして、安比川橋梁近くに稲架掛け(はさがけ)の木組みのある景色を見つけた。
列車は、966列車。前述したように通常なら見られない上りの三重連運転である。
まもなく差し掛かる22.7パーミル勾配に備えて力行してくれたのが有り難かった。

[Data] NikonF+P-AutoNikkor50mm/F2 1/250sec@f5.6 Y48 filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

八森 (五能線) 1971

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八森付近の五能線は、日本海へと続く斜面の縁にあたる台地上に敷設されていて、八森駅もそこに設けられている。用地の関係からか駅本屋はその台地下に建てられ、乗降場との間を木造の囲いと屋根の在る階段通路が結ぶ、情緒ある造りである。当然本屋からは列車の監視は出来ぬ故、閉塞装置の置かれた運転室が、2面2線の対向式乗降場の下り本線側に置かれていた。
この下り乗降場は実際には島式で、その下り本線と反対側も線路に接していたのだけれど、それは貨車の授受線で旅客に供用されていた訳では無い。その授受は大日本鉱業(76年に日本海金属となる)の発盛製錬所専用線との間にて行われ、それは海岸沿いの工場敷地までの653メートルの延長を持っていた。そこには電車線路が設備されていたのである。

五能線には、ここからの出荷貨物に対応して東能代との間に1往復の区間貨物列車が設定されていた。
下りの1293列車は、正方向の8620蒸機に牽かれた数両の貨車にて15時16分に、この授受線上に到着し、機関車は直ぐに解放されて外側の機回線を伝って上り方に出て待機する。まもなく、専用線からポール集電の小さな電気機関車が現れ、この貨車編成を工場へと牽いて往くのである。
この小型機関車は、当時の鉄道誌の記事に依れば、三菱電機が鉱山や工場向けにカタログ化していた事業用車両で、本来は762ミリや610ミリの狭軌用を、ここでは1067ミリ用とし、幌の掛けられる程度の運転席を寒冷/強風に対応して側と屋根を設置したものらしい。そこに書かれていた通り、その造作は運転席に設けられた窓とともに如何にも屋台然としていて、そこからオーダーすればラーメンの一杯やら出て来そうな雰囲気ではあった。
工場からは、積車となった貨車を推進運転にて運び出し、件の授受線に据えてしばらくすれば、給水を終えた8620が接近して連結、17時03分に1292列車として逆向き運転にて発車して行くのである。

写真は、構内で待機する8620。この一山は五能線管理所(弘前)の運用であった。
屋台機関車との並びを押さえたいところなのだが、その際には、カットにも見える給水塔で水を呑んでいて叶わなかった。
右が工場への専用線、機関車の後方が能代方の本線、給水塔の向こうに見える建物は構内手の詰所である。

[Data] NikonF+P-AutoNikkor50mm/F2 1/125sec@f8 Y48 filter NeopanSSS Edit by PhotoshopCS4 on Mac.

福来信号場-焼石 (高山本線) 1982

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北海道内の特急列車と云えば80系気動車であったから、内地に転居すれば、そこの同系列の列車が気になった。
奥羽線の<つばさ>は70年2月にキハ181系に置替られていて、上野に発着していたのは、それから転用のキハ81を組成した<いなほ>に共通運用の<ひたち>であり、これは羽越線への蒸機撮影の折には、<白鳥>共々必ず撮っていた。
高山本線の<ひだ>も気にはしていたものの、食堂車の組成の無い特急らしからぬ編成(道内にも<おおとり>の例があった)に躊躇してしまい、そこに向かうのはずいぶんと後のことになる。
けれど、そこは訪れてみれば実に魅惑的な線区であった。ついつい道内編の御影 (根室本線) 1974にも書いてしまったのだが、そのロケーションも然ることながら、客車列車の設定こそないけれど、80系気動車や名古屋鉄道8000系による特急とキハ58/28の気動車急行の優等列車群に加えて、DD51牽引の貨物列車の設定も在って、それを40kgレールに薄い道床の軌道で輸送を支える姿は、電化前の奥羽線や羽越線の持っていた亜幹線のイメージそのもので、それに魅せられてしまったのだった。ただし、運行管理は美濃太田に設けられたCTCセンタによる近代化線区でもあった。

東京からは遠く無く、2・3日の休みの取れれば大垣夜行で岐阜に向かい、<能登>で富山から戻るスケジュールで通っていたのだが、84年の4月に北海道均一周遊券(第三種)-販売名ニューワイド周遊券の発売されてからは、その自由に経路の選べたX券を東海道/高山線から日本海縦貫線を北上するルートにして、道内撮影の途上に組み入れたりもしていた。これだと、首都圏発着に縁のなかった<日本海>に乗れる楽しみもあったのである。

写真は、第一/第二境平橋梁上の1033D<ひだ3号>。この日は基本編成に2両の増結がある。
キハ82の優美さは変わらないが、特急としての風格は幹線のそれである道内特急に敵わない。
下原ダム湖岸に位置するこの橋梁は、1920年代の建設工事着手後にここへのダム設置が決まり、その満水位が高山本線の施工基面と同位となるため、急遽縦断面線形の設計変更により架橋されたものである。近年には、高山本線の定番撮影地としてつとに名高い。
国道41号線側のここには、喫茶店とトラックドライバ相手の食堂が在り食事に困ることは無かったが、食堂の方は99年に廃業してしまった。今も喫茶店は健在だけれど、10年程前に経営者が変わったはずである。

[Data] NikonF3P+AiNikkor50mm/F1.8S 1/250sec@f8 Fuji SC48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

今川信号場-越後寒川 (羽越本線) 1971 

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怖いもの無し、だったのだと思う。
本編−道内編の止別-浜小清水 (釧網本線) 1967 に書いたけれど、この頃には「駅寝」もひととおりやって、夜間に停車列車の無い小駅にも泊まらせてもらっていたから今川信号場でもそれを頼み込んで、そして見事に断られたのだった。上り本線側乗降場の小さな待合所を狙っていたのだが、晩秋の頃とあってはそれも当然かも知れない。
その代わり、と初老の駅員氏が案内してくれたのが信号場至近の民宿であった。
実は、この時まで知らなかったのだけれど、今川の前浜にはシーズンに海水浴場の開かれ、集落には海水浴客を目当ての民宿が数多く存在して、何軒かは信号場に隣接していたのである。
季節外れで同宿者などいないそこで通された部屋は、その窓を開けると下り本線のレールが目の高さに在った。しかも、停車列車ならその位置に機関車が停まるのだった。
布団に入ったところで興奮して眠れるものでは無い。蒸機と添い寝など滅多に出来ぬ体験であろう。
この民宿には、その後も何度かお世話になった。

翌年10月の開業を目指し電化工事の進められていた羽越本線だが、この頃の今川信号場の前後には、まだ架線柱の建植されぬ区間が辛うじて残されていた。この宝来山トンネル出口側から脇川集落付近までもそのひとつである。
時雨の往き過ぎた後のことで、しっとり濡れた線路がこの線区らしい風情を醸す。
列車は、2872列車。新潟操車場行きの線内貨物である。

線路に並行する泥道は砂浜の通路では無い。歴とした国道345号線である。この頃の日本海岸の海辺の道は、線路も、か細ければ道路もこんなものだった。

[Data]NikonF+P-AutoNikkor50mm/F2 1/250sec@f5.6 Y48 filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

杉河内 (久大本線) 1986

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1986年の夏前から1年と少しの間、福岡に暮らしたことがある。
当時契約していたクライアントの関係で、その春からそこでの仕事が増えたのである。週に4日の滞在は要したから、しばらくするとホテル暮らしも飽きて、経費面から検討しても住んでしまった方が得策と考えたのだった。なにより、そこでの賃貸料は驚く程に安かったのである。東京でのベースも維持しつつ、桜坂と六本松の間くらいのワンルームを借り、赤坂にあった提携先の事務所兼スタジオまでは徒歩である。
都内での仕事がなければ、その週をそこで過ごして鉄道を撮りに往っていた。九州島内の鉄道は、北海道通いに忙しく、その昔に一週間程で一周したのみで、それは今で云えば「乗り鉄」旅に近く本格的には撮っていないのだった。
非電化線区好みの機関車屋なので、自ずと足は博多からも遠く無い久大本線に向かうことになる。当時そこには、客車はとっくにオハ50系列に置替られていたけれど、10本程のそれが走っていたのである。
中でも玖珠川が峡谷を刻む天ケ瀬の前後区間が気に入って、幾度か通ったものだった。

杉河内は、ここで玖珠川に合流する山浦川の谷を遡った杉河内集落の便を図って戦後に開設された無人駅で、急峻な斜面に辛うじて乗降場の設けられていた。駅前には玖珠川に張り出すように大門観光ホテルが建てられていたけれど、民家はなかったと記憶する。
そのホテルのレストラン(兼ドライブイン)は早朝から営業しており、日田方面からの始発を降り立って、ここで朝食を摂ってから国道210号線を第九玖珠川橋梁へと移動するのを定番にしていた。

写真は、その第九玖珠川橋梁上の623列車大分行き。
この位置は、国道から結構な比高があって崖をよじ登った覚えがある。途中に長い隧道の在って線路歩きは避けたゆえである。
DE10は、やはり暖房の蒸気を纏う季節が良い。

[Data] NikonF3P+AiNikkor50mm/F1.4S 1/250sec@f5.6 Fuji SC48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

山寺 (仙山線) 1978

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1981年の正月を過ぎた頃のこと、山形での取材を終えて仙台へと向かうべく614D<あさひ4号>の客となったことがある。この冬は、後に「56豪雪」と呼ばれる大雪の年越しとなり、この時、山形市内の積雪も連日の降雪にて1メートルを越えていたと記憶する。雪害にて1時間近く遅れた614Dは降り止まぬ雪の中を山寺に到着、そこそこに発車するも急勾配と積雪の抵抗で速度の上がらないまま駅間にて停車してしまったのである。暗い車窓に微かに見える家々の灯りから、そこは千手院の集落と知れた。「一旦山寺まで戻り勾配を登り直す」との車内放送の在って、列車は山寺構内を通り過ぎた位置まで退行、フルスロットルで駅構内と続く立谷川橋梁の3パーミルを利用して加速し、33パーミルの雪道に挑むも、歩くような速度で千手院集落を通り過ぎ、やがては力尽きたのだった。
結局、これをもう一度繰り返した末に登坂を断念し、614Dは山形駅まで戻ってそこで前途打切りとなった。この夜、仙山線ばかりか新庄からの陸羽東線も福米の峠も雪に埋もれたことを駅の掲示が知らせていた。

千手院集落は、その名の通り天台宗寺院の千手院の大きな屋根を杉木立にいただく静かな山里で、最上川支流の立谷川沿いの僅かばかりの平地の尽きるところにある。面白山へと向かう紅葉川林道の入口でもあるから幾度も歩いていた。そこには、地図に無い小さな社や祠の点在して、こんもりとした森で遠目にもそれと分かるのだった。
千手院本堂への細い参道を線路が分断するのだけれど、そこに踏切の設備は無い。

通過するのは、ED78に牽かれた832列車仙台行き。
千手院の狭い耕地の収穫が終わり、田に穂仁王掛けの稲わらの並ぶ頃である。

[Data] NikonF2A+AiNikkor35mm/F2.8  1/125sec@f8  Non filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

弘南大鰐 (弘南鉄道・大鰐線) 1979

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このルーラル鉄道を撮ったことは無い。より正確には、大鰐を奥羽本線の列車で通る度に、その片隅に居た古い電車と石川駅手前でオーバークロスして往くコンクリートの陸橋が気になっていて、全線のロケハンまでしたのだけれど、撮らず仕舞いに終わっている。
その陸橋の他に、街の商店然とした弘前中央から市街地を川沿いに往く区間や、津軽千年付近の林檎園、鯖石-新石川間の平川橋梁などが印象に残っている。

この頃、音楽雑誌の仕事でフォークミュージシャンのツアーへの同行取材があった。青森に向かえば、弘前での小屋は、たいていの場合中央弘前近くの「萬燈籠」と云うライブハウスであり、ライブが終われば、西弘前駅前の系列の店だった「33・1/3」で当のミュージシャンやスタッフと朝近くまで呑むのが定番になっていた。居心地の良い店で、青森市内での仕事でも泊まりを弘前にして、ここに顔を出したりしたものである。その移動には大鰐線が便利で、これに乗るのも楽しみにしていた。
古い電車に、学生街の玄関駅として改装された駅が不釣り合いだった覚えがある。
ライブハウスの「萬燈籠」は現在も盛業中と聞いている。当時は、池田すみさんとおっしゃる女傑が仕切っておいでだったのだが、お元気だろうか。

写真は、ロケハンの際に撮影した弘南大鰐駅でのカットである。5番ホームからの弘前中央行きの発車を多重露光で撮っている。
F2の多重露出機構は、シャッタアドヴァンスの際に僅かながらフレームの動くことが在り注意を要した。

当時のメモには、モハ2233とクハ1267の編成とあるから、先頭のモハ2231形2233は西武鉄道の前身である武蔵野電気鉄道が1928年に新製したデハ5550形5554の後身と知れる。弘南鉄道へは1962年に車体のみが譲渡され、ここでの廃車発生品にて電装されている。
制御車クハ1266形1267についても、初代西武鉄道が1928年新製のモハ550形560が電装解除されたクハ1151形1159の譲渡を同時期に受けたもので、双方とも弘南線からの転籍車である。
この時点でも車齢は50年に達していたのだが、この後さらに20年をここで過ごし、1999年に用途廃止とされた。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.8  Bulb@f8-MultipleExposer Non filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

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