70's/80's Monochrome Age and Years of Ektachrome film

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砂越 (羽越本線) 1971

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羽越本線は、北余目と砂越の間で大河となった最上川を渡る。延長609Mの第二最上川橋梁である。
同線の最上川渡河は一度だけなのに「第二」を名乗るのは、この区間が1914年12月24日に新庄を起点とする酒田線、後の陸羽西線の延伸区間として開業した歴史的経緯による。秋田から延伸を繰り返していた羽越北線が、この区間を含んで鼠ケ関まで繋がった1924年4月20日を以て羽越線に編入され、この日陸羽西線は余目を終点とする現在の線路名称に改められた。「第一」最上川橋梁は、その津谷-古口間に在る。

海岸線に沿う区間ばかりでなく、小波渡を過ぎての第二笠取トンネルで海から離れて、吹浦の先の吹浦トンネルで再び海岸線を辿り始めるまでの内陸区間も訪れるべく、この最上川の橋梁を選んでいる。その前後の取付けに10パーミルの勾配が在り、蒸機は力行するのがその理由であった。
ここは、北余目からが近いのだけれど、砂越への下車はそこへ荷物を預けるためであった。北余目は無人駅なのである。この当時には、駅は何処も要員の居るのが当たり前で、それを前提に旅の荷物は撮影機材とは別にして、それは駅の手荷物一時預かりを利用していたのである。
砂越からの線路は、R500で右に回って盛土区間に取り付いていたが、そこには木組みに筵を張った防雪柵が造られていて思ったような画角が取れず、堤防から振り返れば、そこは黄金色に染まるススキの海だった。

D51に牽かれるのは、838列車新津行き。まだ旅半ばで終着は22時近くになる。

[Data] NikonF+P-AutoNikkor135mm/F2.8  1/500sec@f8 Non filter  NeopanSSS  Edit by PhptpshopCS3 on Mac.
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湯野上 (会津線) 1972

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いつか、道内編でも書いたけれど、曲線線形上に位置する停車場は、それだけで独特の情景を見せてくれる。→豊浦 (室蘭本線) 1995
山々を背景に緩い曲線の構内を持つこの駅も、また滋味の在るものだった。蒸機の居た景観として永く記憶に残る。秋も深まった頃に、ここで下り貨物を待った冷んやりとして澄んだ空気感を、ついこの間のように覚えている。
西若松で二手に分かれて奥会津を目指す路線で、どちらかと云えば会津線へと向かうことの多かったのは、ひとつにこの駅の存在があったと思う。
その情感は万人に共通のものと見え、会津鉄道に移管後の1987年に、その駅舎は観光向けに茅葺き屋根を持つ農家を模したものに建替えられ、人気を集めていると云う。けれども、これも旧駅舎をレストアすれば、よりそれに資したのではなかろうか。
それは、古いけれど赤いトタンの切妻屋根に木製の桟も開放的な窓の在る端正なものであった。

写真は、凛とした静けさの中に到着した1393列車。
ここで、重連牽引の1390列車と対向のため暫し停車する。旅客のいないゆえ、構内通路を越えて停車するのが常であった。
やがて、それのゆっくりと通過して、駅長は受取った通票を持ち構内を渡る。静かな午後に繰り返されていた情景である。

画角にもその一部が見えるのだが、この駅を囲む山々の緩斜面には棚田が開かれていた。特に西側斜面に広がる、等高線に忠実なそれは見事なものだった。山里らしいロケーションにも恵まれた駅だったのである。

[Data] NikonF+P-AutoNikkor50mm/F2  1/250sec@f8 Y48filter  NeopanSSS  Edit by PhptpshopCS3 on Mac.

林崎 (五能線) 1971

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林檎の果樹林のただ中にある乗降場のみの駅である。
ここも奥羽本線の撫牛子などと同じく、1935年4月15日に鉄道省仙台鉄道局が弘前近郊でのガソリンカーによる頻発運転を開始した際に設けられた、所謂ガソリンカー駅の一つであった。→撫牛子 (奥羽本線) 1980
この時、対象区間の川部-五所川原間には、他に津軽湊/陸奥亀田/掛落林の同駅が設けられたが、燃料事情の逼迫による1940年11月1日の運転停止により廃止となる中で、ここのみがそれを免れている。事由は調べ得ていないけれど、藤崎町林崎と板柳町飯田の集落を結ぶ農道と五能線との交差位置に設置され、その両集落からの利用が可能で、乗降客の多かったのであろうか。アジア太平洋戦争末期の不要不急駅としての休止を経て、戦後には復活を果たしてもいる。

藤崎町役場に伺うと、ここは設置当時より周囲には林檎農園が広がっていたようである。
もう40年近く前の話なので白状してしまえば、この時撓わな林檎を数個失敬したのである。食費も切り詰めた貧乏旅行の腹の足しにと、重さも厭わずだったのだが、それはまだまだ青くて酸味の強過ぎ、とても食べられなかったのだった。

写真は、林崎を発車した混合1725列車、弘前行き。
貨物車が客車前位で、しかもそれの組成両数の毎日に異なる中で、ガソリンカー駅出自の短い乗降場に停車位置を合わせるのは至難の業であったと思う。
曇天で岩木山も望めずに、この方向で撮っている。もっとも、それは画角外左手になるのだが、果樹林に囲まれて高い足場の無いここでの組合せは難しい。

[Data] NikonF+P-AutoNikkor50mm/F2  1/125sec@f8  Y48 filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

撫牛子 (奥羽本線) 1980

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ないじょうし。難読駅名である。
ここは、1935年4月15日に弘前近郊のガソリンカー駅として開業している。

この頃、鉄道省は、一定の性能を得て標準化に成功したガソリン気動車を用いて、地方都市近郊区間にて頻発運転による旅客誘発施策を進めていた。弘前近郊がどのような経緯でその対象とされたものか調べてはいないが、ここは第八師団が置かれた軍都として発展し、当時県都青森を凌ぐ都市であった。

この日、大鰐-川部間に撫牛子ほか6駅を開業してキハ41000形による近郊区間運転が開始されている。既存駅の長い駅間を埋めたこれらが「カソリンカー駅」と通称された停車場である。駅と云っても、単線の本線上に有効長25ないし35メートルの乗降台を設備したのみで、当然に閉塞の扱いの無い要員無配置駅であった。
この画期的とも云える運転も、アジア太平洋戦争の進展にともなう燃料の使用規制により、1940年10月末日を以て取り止められ、ガソリンカー駅も廃止されてしまう。
この際に撫牛子だけは廃止を免れ生き延びる。そればかりか、列車交換設備が置かれ駅本屋も建てられて要員も配置されたのであった。これは、戦時の輸送力増強により弘前-川部間6.3キロにその設備が求められたゆえで在り、同時期に各地に設置されて行った信号場と事由を一にしている。
戦後の同区間の複線化により、それを廃して再び棒線駅となり現在に至る。

写真は、第一平川橋梁上の4002列車<日本海2号>。
撫牛子の下り方に在るこの橋梁は、243Mの延長を持ち津軽平野の鉄道橋としては最長である。氾濫原が大きく流路は川部側に寄る。その堤防に立てば、農業用水路の末端と思われる水門が置かれていた。需要期にはこれを締切って水位を上げ、水田への導水を容易にするものであろうか。
水門と云い、トラス橋と云い、直線構成の人工物となら何処か馴染みがいい。河原にはありふれた光景だ。

[Data] NikonF3HP+AiNikkor28mm/F2.8S 1/500sec@f8 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

大町西公園前 (仙台市交通局・循環線) 1973

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上野からも青森からも仙台で夜明けを迎える夜行急行が設定されていたから、そこには道内との行き来で度々降りていた。仙山線を奥新川や山寺へ向かうことの多かったけれど、もうひとつ、ここには路面電車-仙台市交通局軌道線が走っていたのだ。
仙山線に接していた北仙台線は既に無いものの、旧市街地外縁を回る循環線に、そこから分岐する長町線/原町線/八幡町線の枝線が健在であった。
長町線の愛宕橋から舟丁/河原町と河岸段丘の崖線を広瀬川へと斜降する坂道も良かったけれど、やはり循環線西側の霊屋下や竜の口渓谷の森を背景に出来た片平丁あたりに、西公園脇を往く大町付近、市街地北部の丘陵地へ向かっていた八幡町線の起伏のある沿線が気に入っていた。

北海道編のほうに書いたこともあるが、→函館ドック前 (函館市交通局・本線) 1980 重い機材からカメラ一台に標準と中望遠あたりを抜き出しての市街地歩きは、いつもの撮影と違った気分を味わえるものであった。市内電車は頻発運転が基本であるから、撮影チャンスはいくらでもあって、待ちさえすれば最適な光線まで太陽が自分で回ってくれたし、その間を喫茶店にて一休みしながら、そのウィンドウ越しに撮ったりもしていた。なにより、列車ダイヤに規定されない撮影の開放感があったのである。

写真は、立町小学校の前あたりから公会堂方向を望んでいる。モハ100型は、1948年の新製時の正面三枚窓をワンマン運転対応工事に際して、このようなHゴム固定の非対称二枚窓として車端扉の片方を閉鎖の上で中央扉を設けていた。この頃には、103/105の2両が未改造で休車状態にあり、北二番丁の車庫でその姿を見ることが出来た。
この123は番号の語呂のせいか、1975年度末の全線廃止後に保存車に選定され、今「仙台市電保存館」に在る。

まだ春の浅い午後で、公園の樹木の影が道路に長く落ちるのを待っていた。
時の仙台市長が市議会に対して市電全廃の方針を表明、との報に接したのは、この後渡道して三日目のことであった。

[Data] NikonF+P-Auto Nikkor135mm/F2.8 1/250sec@f8 Y48filter Tri-X(ISO400) Edit by CaptureOne5 on Mac.

佳景山 (石巻線) 1972

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佳景山は、小牛田-石巻間が仙北軽便鉄道として開業した際に設けられた停留場である。

ここでの停留場とは、停車場の内、場内/出発信号機を有しないものの区分で所謂棒線駅を差すのだが、この鉄道の建設根拠となった軽便鉄道法(1910年法律57号)にも同法施行規則(同年内閣令12号)にも定義されておらず(同法に準用規定のある私設鉄道法にも無い)、その根拠は曖昧である。
何れにせよ、ここは開業時からの正駅で、1919年4月1日付での国による買収/国有鉄道編入時に停留場を脱しているのは、実態の変わった訳でなく、そこの建設規程にこの名称が存在しないゆえであった。

この駅の周辺に「佳景山」の地名も存在しない。それは、その北端がこの駅で尽きる小高い丘陵である「欠山」に由来している。それを中国雲南省あたりに在りそうな地名に読み替えた人物を知り得ないが、洒落であろうか、云い得て妙ではある。
欠山は、この平野に島のように浮かぶ標高は91.7メートルの南北に3キロ程の丘陵で、狭義にはこのピークを「欠山」と呼ぶのであろう。
ここの北端の30メートル程の丘に登ると、眼下に佳景山を見て前谷地方/鹿又方とも眺望が利いた。加えて、その麓を横切る線路には、些細な距離だけれど最急10パーミルの勾配が在って上下列車ともに力行してくれたのだった。

写真は、鹿又からの直線区間に白煙をなびかせる860列車。なにやら雄大な風景に見えてしまう。
この線の貨物運行は、女川港への2往復に加えて、仙石線石巻港に所在の製紙工場の製品輸送列車が多数設定されて、効率の良い撮影が楽しめた。これは、今のDE10牽引のコンテナ列車にも引き継がれる。

[Data] NikonF+P-AutoNikkor50mm/F2  1/250sec@f5.6 Y48filter  NeopanSSS  Edit by PhptpshopCS3 on Mac.

米沢機関区 (米坂線) 1971

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米坂線に入ると少なくても二日間は撮っていたので、米沢の「駅寝」を常宿にしていた。奥羽本線の夜行列車群は、福島-山形間にて上下離合のダイヤであったから、ここには23時過ぎの上り<出羽>から翌5時前の下り<出羽>まで6本の夜行急行が発着して、待合室に人影の絶えることは無かった。
線区上の主要駅らしく広いスペースのそこには、冬ならば二台の石炭ストーブが置かれたものの、広い分だけ深夜ともなると外壁から冷気の凍み入るのが感じられたのだった。勿論、持参の寝袋に包まって眠るのだけれど、或る夜、猛烈な寒気に目を覚ましたことがあった。震えが止まらず、身体に触れてみると何処も冷たく、自由が利かない。あのまま目覚めねば危うかったかも知れないと、今でも時々思い出す。

駅寝の夜には、大抵機関区を訪ねて居た。そこは、駅前広場から左に折れ南へ大きく迂回して踏切を渡った先で、駅本屋から構内を通行したとしても、かなり離れた位置に在った。手前の事務室に当直を訪ね許可を請えば腕章を手渡され、後は自由に庫内を歩けた。
庫内3線を持つ矩形庫は、1906年建造と云う煉瓦造りで石材も組み合わせた美しい意匠の建築であったのだが、保存の話も出ていた矢先の2001年2月に、惜しくも積雪により自然倒壊してしまった。ご記憶の方も多いと思う。
この頃には、本線機であったC57やD51の姿は既に無く、米坂線の9600と長井線に運用のC11が入庫するのみで、しかも夜間ともなれば各線とも満線に近く蒸機が休んでいた。石炭の匂いに満ちて、深とした庫内に時折缶の鳴き声や蒸気の吐出音の響くのは、神秘的とでも形容したくなる光景であった。

写真は、庫の西側に張り出していた加工職場から庫内を覗き込んでいる。積み重ねられたドラム缶は何に使われていたのだろうか。

北海道への周遊券で福島から奥羽線に入ってしまうと、青森まで同線を経路とせねばならない。ところが、青函の前にもう一箇所を回るでも無い限り、それは不便なルートだったのである。なので、米坂線の後には、小国が17時、羽前椿で17時半過ぎだった急行<あさひ2号>で仙台に向かい、そこで深夜の<八甲田>を待つことにしていた。これなら、福島-仙台間を米沢・山寺経由で別払いすれば済むのだった。

[Data] NikonF+P-AutoNikkor50mm/F2  Bulb@f11  Non filter NeopanSSS Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

西金 (水郡線) 1980

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随分と昔に、水戸-福島間に設定されていた準急<スカイライン>で水郡線を通ったことがあった。旅好きだった父が、祖父母宅から札幌への帰路に選んだルートで、福島から仙台を普通列車で繋ぎ、そこからは急行<みちのく>を利用したと記憶している。
<スカイライン>の車窓に見た朝もやの久慈川の印象が鮮やかに残っていて、この夏の渡道の折、深名線の白樺近くで朱鞠内湖の湖面を流れる朝霧を見つめている内に、唐突にそれを思い出したのだった。
青森からの<十和田4号>のナハ21を早朝の水戸に降りたは良いけれど、思いつきの訪問ゆえ地形図もダイヤも手元にはない。ロケハンしながら常陸大子まで乗り、戻って下車したのがこの西金であった。

予備知識無しに降り立ったそこは、乗降場一面のみの上下本線の区別されない小駅なのだが、久慈川に張り出すように2線の側線が設けられ数両のホッパ貨車が待機していた。対岸の山腹を開いた採石場からの軌道散布用砕石の積出駅だったのである。これは現在でも変わらず、そのため線内の大半が無人化されて以降も永らく要員の配置されていた。(2007年3月18日改正に至って要員無配置となっている)

久慈川流域のこのあたりには孟宗竹の植生が多々見られ、昨日までファインダで見ていた景観とのあまりの違いに、そのもっさりとした重量感の処理に戸惑った覚えが在る。
列車は9341D、常陸大子行き。上菅谷までを夏期輸送で延長運転したものであった。
この頃、水戸機関区でも配置の減っていたキハ26が揃った2両編成が好ましい。
後方には河岸に積み上げられた砕石の山も見える。

ここへは、この後も幾度か通い、キハ110系列もこの線区には似合いと思えていた。けれど、今のキハE130系列には、どうにも食指が動かない。あの塗色はなんとかならぬものか。

[Data] NikonF3+AiNikkor28mm/F2.8 1/250sec@f8 Nikon O56filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

五十川 (羽越本線) 1971

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日本海の沿岸を北上する羽越本線は、冬期に季節風の影響を強く受ける。これは、過去も現在も変わりがない。
それによる列車運転への阻害を多々生じて来たのも、この線区である。

強風下における運転規制は、1986年の山陰線餘部橋梁からの列車転落などの重大事故を受けて、その都度見直しや運用の厳格化が諮られてきた。しかしながら、それは旅客の安全確保と引き換えに運転抑止や休止などの増大をもたらしているのも事実である。
この線区が東日本旅客鉃道に承継後の2005年12月に発生した、砂越-北余目間における特急列車の脱線転覆事故以降に、その傾向はより強まっている。けれど、ウィンドシアの発生が原因とされた、この事故は風速による規制の範囲外にある。乱暴な言い方になるが、不可抗力の末と云って良いだろう。声高かには語らぬものの、それを同社もよく承知していて、その後の対策は防風壁の設置が中心である。
にもかかわらず、同社は沿線へ増設した風速計のデータを厳格に適用して、過剰とも思える運転規制を行った。当初には、旅客の死亡をともなった事故の遺族感情への配慮を事由に挙げていたのだが、後にはこれを定位とした模様で、計画(予防)運休も大幅に取り入れられた。
リスクの回避は民間会社とすれば当然の行動であり、そこには、かつての国鉄の有していた基幹輸送の当事者としての意識は微塵も無い。予測された民営化の弊害である。
これによる物流への阻害も大きく、社会的生産の損失をも招いている。旅客のいない貨物列車には、より緩い規制を適用しても良さそうなものなのだが、これは貨物輸送の分離された旅客鉄道会社の保身と見るべきだろう。

強風にて遅延の2001D<白鳥>を待つ861列車牽引機。雪混じりの風に、ダイナモを回した蒸気がキャブの屋根を滑る。風上に向けたレンズには瞬時に水滴が張付いてしまう。

ここに勤務する古い鉄道員が、強風の話題に教えてくれた。「ダルマは良く転んでいたものだ」と。
戦中/戦後まもなくには、貨物列車の最後部に在って荷を積まない車掌車が風に煽られる事故は多発していたらしい。

[Data] NikonF+P-AutoNikkor135mm/F2.8  1/60sec@f4 Y48filter  NeopanSS Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

陣場 (奥羽本線) 1979

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矢立峠を道内への旅の途上に組み込むと、上野を19時台の<津軽1号>で発っても大館乗換えで陣場到着は8時半過ぎとなり、後を追って来る<あけぼの1号>を撮るには少しばかり時間が足りなかった。それもあって、ここは帰路に立ち寄ることの多かった。青函を2便で渡れば、弘前までを<白鳥>に乗り、6時過ぎには陣場に降り立てたからである。

この頃の奥羽北線は、寝台特急から急行/普通列車に、まだまだ設定の多かった貨物列車と機関車牽引列車が主体で、それに長大編成の電車特急に気動車急行が加わっていた。機関車屋としては無視出来ぬ線区だったのである。もっとも、当時の東北地域北部の幹線は何処でも、そんな列車構成ではあった。その機関車は、秋田機関区に集中配置されたED75 700番台のみで、EF81の進出するのは、この10年後である。

「盛り」の良いことで有名な「矢立ドライブイン」、この当時は今の店舗の隣に放棄されている旧店での営業だったけれど、その裏手から細道を下ると奥羽線の上り線の盛土をくぐり抜け、下り線の第二下内川橋梁を真横に見る農道に出られた。
振り返れば、20パーミルで下って往く上り線の築堤が彼方に続き、背景の陵線の優しい光景に惹かれて幾度かここに立っていた。
24系の<日本海>も、12系に軽量客車の寝台車を連ねた<津軽>もここで撮ったけれど、晩秋の一日ならやはり各駅停車の旧型客車が似合いそうだ。

列車は、444列車。弘前から院内までを実に7時間半をかけて走っていた列車である。
ここは日中時間帯の運転にもかかわらず、堂々12両の長大編成。昨今の701系電車の2両組成とは驚く程の落差がある。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.8  1/500sec@f5.6 Y52 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

吹越 (大湊線) 1973

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その半島の恐山山系を陸繋島に例えれば、基部は巨大な砂州に見える。
実際に、そこは陸奥湾から太平洋岸へ起伏の少ない緩やかな地形が続き、かつて運河開削の計画が論じられたこともある(*)。

大湊線は、ここを陸奥湾岸に沿って、ほぼ直線の線形にて北上している。その設計は、迂回すべき地形も立ち寄るべき集落も無かったことを物語る。1921年の大湊までの全通時の中間駅は僅か4駅であった。
その後に、その駅間を埋める新駅の設置は在るものの、それでも有戸-吹越間の13K380Mは内地線区と見れば格段に長い。
陸奥湾岸とは言え、海岸線に接近する区間は、同駅間の野辺地町/横浜町の町境を越えた起点17K付近からの約4キロメートルに限られ、これは吹越から歩いた方が近い。国道279号線も並行していたけれど、やや間隔の空いていて、線路歩きしか到達手段は無いのだった。

写真は、起点20K付近からの783列車。
この当時の観光ガイドブックにも「ハマナスの咲く海岸」の記述があって、それを期待していたのだけれど、そこに浸食の激しい荒涼とした光景が広がるのみであった。背後に低いハイマツの続く海岸線は北海道ならば知床であろう。
C11は、大湊線管理所に3両の配置が在り、1両使用/2両予備で運用されていた。

(*) - 青森県の地方紙「東奥日報」の主筆であった成田鉄四郎が、1894年に刊行の『陸奥湾之将来』で提唱したと云う。
出典 : 河西英通『東北-つくられた異境』 2001年 中央公論社

[Data] NikonF photomicFTN+AutoNikkor50mm/F2  1/500sec@f5.6 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.

会津若松 (磐越西線) 1971

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この頃、夜行の<ばんだい5号>か6号で会津若松に着いて、誰もが目撃した光景だと思う。
1番ホーム到着のそれから跨線橋を急げば、2番ホームに5時30分の新潟行き221D、3番に5時22分の小出行き423D、そして4番には5時17分に出る喜多方から熱塩直通の621が接続客を待っていた。会津滝原行きの321Dは423D発車後に入線する。(当時5番ホームは整備されていなかった)

会津地域の鉄道へは、東京から近いこともあって北海道への旅に絡めるよりも単独でスケジュールを組むことが多かった。2・3日の休みでもあれば、往復を夜行として十分に撮れたからである。
加えて、1970年の10月に発売されていた特殊用均一周遊券(所謂ミニ周遊券)の存在も大きかった。これの「福島・会津磐梯」の自由周遊区間は、只見線が除外され、会津線も湯野上までだったけれど、郡山駅の常宿への往復に欠かせず、白石までが含まれたそれにて東北本線国見峠との組合せも可能であった。

郡山駅の常宿とは、そこの第二乗降場(3・4番ホーム)に在った待合所である。
深夜でも東北本線列車の発着のあって開放されていた、ここのお世話になった鉄道屋は多いと思うが、木造の古い造りのそこには木製ベンチが置かれ、冬ならば石炭ストーブが焚かれていて、上級の駅寝の楽しめた。煩雑に通過する貨物列車の轟音には閉口したものではあったけれど、朝4時に上野からやって来る<ばんだい>に乗れば、また一日会津での撮影と云う訳で、それはいつも、この光景から始まるのだった。

423D後部車はキハユニ26である。郵便室に入りきらぬ郵袋が貫通路にまで積まれていた。鉄道が郵便輸送の中核を担っていた証であろうか。
621列車を牽くC11 64は、この後まもなく会津若松運転区を去り、梅小路蒸気機関車館の発足に参集した。

[Data] NikonF+P-AutoNikkor50mm/F2  Bulb@f8  Non filter NeopanSSS Edit by PhotoshopCS3 on Mac.
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鯵ヶ沢 (五能線) 1983

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中世における時の権力機構-鎌倉幕府の直接支配が及ばぬ化外の地にあって、環日本海交易の貿易港として東日本で最大規模の都市であったのが十三湊(とさみなと)である。近年の発掘調査にてそれを裏付ける出土品が得られている。ここを築き、本拠地としたのが安東氏一族と云われているが、その時期や経緯には諸説の在って、良く分かっていない。なにより、安東氏自体が未だに解明されぬ謎の多い集団であるらしい。
その財政的な権益を支えたのは、彼らの率いた船団「安東水軍」であり、その勢力範囲は、八戸付近を除いた現在の青森県全域から秋田県北部の沿岸は云うに及ばず、津軽海峡を越えた北海道南岸に及び、海上戦力に違いないが、実態はそれを背景にした交易船団と推定される。

鯵ヶ沢も、その勢力下の拠点港のひとつであったらしい。
ここには、その「安東水軍」を銘とした酒がある。
福井県の小浜や山形県の酒田もそうなのだが、日本海交易に栄えた港町には由緒在る寺院が残る。鯵ヶ沢の漁港近く、背後に寺院の並ぶ大字漁師町に蔵元の尾崎酒造はある。漁師町に相応しく、その醸す酒は前海からの漁獲を肴に呑んで美味い、淡麗にしてキレの鋭くドライな酒質である。けれど、やんちゃ酒でなくノーブルにブランデーを思わせもする。個人的には、能登珠洲の「宗玄」とならんで好きな酒なのである。
実際に酒呑みには人気と見え、Web上にはその記事をいくつも検索出来る。

実は、五能線撮影の折、この蔵を訪ねたことが在る。蔵元自らが案内してくれたそこは、想い描いた通りの海辺の蔵であった。
今でこそ、ネット上でそれはいくらでも手に入れられるけれど、かつては都内での扱いは日本橋の三越ぐらいしか無くて、呉服橋近くにニコンのプロサーヴィスの在った頃、そこに往くたびに三越まで足を延ばしていたのを思い出す。

津軽西海岸の白い夏、手作りの風鈴の駅。
停車中の列車は、1730列車東能代行きである。

[Data] NikonF3P+AiNikkor28mm/F2.8S 1/60sec@f11 Fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

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