70's/80's Monochrome Age and Years of Ektachrome film

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堺田 (陸羽東線) 1971

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陸羽東線も、道内への旅の途上に立ち寄る線区として良く選んだ。そればかりでなく、2・3日の休みでも取れれば、古川あたりに宿を取って石巻線と組合せでも訪れてもいた。
上野を23時32分だった電車急行<いわて3号>が常宿で、本当ならその少し前に出る<十和田4号>のスハ43に乗りたいところなのだが、常磐線を回るうちに<いわて>に追い抜かれ、これだと小牛田からの接続に間に合わないのだった。

堺田は、その名のとおりに宮城/山形の県境近くにあって、その構内の施工基面高-337M10が陸羽東線の最高地点でもある。中山平/羽前赤倉と共に約90メートルの標高差で、双方に5キロを越える18.2パーミル勾配が連続している。
山形県最上郡最上町堺田の集落は、駅前から緩い斜面を500メートルばかりの国道47号線沿いに在り、駅周辺に鉄道官舎の他に人家は見られなかった。構内自体も県境から続く切通しの中に隔絶された信号場のような存在ではあったけれど、1917年11月1日のこの区間の開通時に設けられた「駅」である。堺田集落が北羽前街道上の重要な駅逓であったことに依ると思われる。
駅の前後に行き来して上り/下り列車とも力行を狙えそうなのだが、中山平方には見るべきポイントの無くて、撮影は専ら赤倉方に限られた。
高橋川橋梁(91M)は、ここでの定番ポイントで、国道から林道に逸れて小さな神社の下に至ると、それを程よい距離で眺められた。この後に、幾度も体験することになるのだけれど、朝のピインと締まった大気の額のあたりに渦巻きながら歩けば、やがて目指す景観の視界に広がる感覚は忘れられない。歩き撮影の特権と云える。

写真は、その高橋川橋梁上の1790列車。
新庄から小牛田までの全線を重連で通す運転であった。この翌年3月のダイヤ改正では定数の変更が在り、荷の重い時には、さらに後補機の付いた3台運転が実現したが、巡り合ったことは無い。

[Data] NikomatFTN+AutoNikkor105mm/F2.5 1/250sec@f8 Y48 filter NeopanSSS(ISO200) Edit by PhotoshopLR3 on Mac.
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大橋 (日立電鉄・日立電鉄線) 1976

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機関車屋で客車屋なものだから、電車は、専門分野ではない。まして、ルーラル鉄道の私鉄線となれば手が回らない。
撮るにしても、単行列車は苦手で、遠目にも存在の主張出来る編成列車が良い。これは、モノクロで撮っていたからなおさらなのである。
この日立電鉄線に幾度か通うのは、60年代末に近隣に住む祖父母のもとへ帰省した折、大甕駅で見かけた木造の「大昔の電車」の鮮烈な記憶による。ルーラルな私設鉄道の深淵を些か意識した訳である。
当時在住の札幌にも定山渓鉄道が健在だったのだが、そこには既に近代的デザインの全金属製電車が走っていたのである。

この70年代には、その「大昔の電車」はここを去っていたのだけれど、形式を一にしても一両毎に形態の異なる保有車両群や、全線を乗ってみての、古い住宅街の軒先をかすめる鮎川方、田園地帯を往く常北太田方とも低規格の軌道の続く淡々とした沿線には興味のそそられたものであった。ルーラル私鉄にのめり込む入口にも思えたが、そこは機関車屋の本分なのか、この線区だけの興味に終わっている。

写真は、交換駅大橋に進入する鮎川行き。
昼間閑散時の単行運転用にワンマン改造を施されたモハ11形式のモハ12である。1948年日立製作所で新製の自社発注車と云われているが、戦後の車両不足の頃であり、帝都高速度交通営団が銀座線用に発注した構体を無理に振り向けさせたのが実情のようである。
大橋は、住宅街を越える高架線を急勾配で下った位置に在って、停車のブレーキ操作には技術の要ったものと思う。

さて、先の「大昔の電車」とは、日立電鉄のデワ101。元をただせば鐵道院のナデ6110形の6141で、今は大宮の鉄道博物館に在る。電機品を復元して自走可能と聞く。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.4 1/250sec@f8 Non filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

面白山信号場-山寺 (仙山線) 1981

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東北本線のほぼ中間、仙台で接続する仙山線は、北海道との行き来の途上に組み入れ易いこともあって度々撮っていた。
上野を23時台の<いわて3号>か雁行する<まつしま6号>、あるいは常磐線を回る<十和田3号>を選べば、何れも6時前に仙台のホームに立て、前途は、そこが19時過ぎであった<みちのく>か<はつかり5号>にて青函を深夜に渡れるゆえであった。

注目のされない線区ではあったのだけれど、面白山トンネル(5361M)の前後区間には33パーミル勾配にR250の急曲線が介在し、奥羽本線の福米間に匹敵する山岳路線である。
山寺側の紅葉川渓谷沿いには、面白山仮乗降場まで線路と適度な間隔で林道が並行していて、ここを歩くだけで仰角から俯瞰まで多彩な画角を楽しめた。新緑の季節や秋の芋煮会シーズンでも山寺周辺の賑わいを他所に深閑としていて、あまり知られていなかったこともあるが、鉄道を眺めるには良いとしても、渓流を間近には望めず、またそこまで降りる道の無くて、それには不適であったからだろう。
何処からともなく流れ出す山清水の林道歩きは、それは心地よいものだった。

この頃の仙山線には、仙台と新潟/酒田を結ぶ長編成の気動車急行から、仙台-山形連絡の電車急行に電機牽引の客車列車など多様な運転があって、飽きることはなかった。ただし、それに応じたポイントと画角を選ばねばならず、撮影は些か忙しい。

写真は、33パーミルの勾配上の第二紅葉川橋梁を渡る829D列車。
この列車は、いつもこの橋梁で撮ることに決めていた。
山形から2ヤマが組まれていた山形機関区の2エンジン車限定の普通列車なのだが、ルーラル線区とは言え都市間連絡線であったこの線区の最短編成で、延長100メートルの橋梁上に収まるのは、この運用の他に無かったゆえである。
急行用のキハ58の入ることもあったが、大抵はキハ55が使われ、特に同区へ2両のみ配置だったキハ52は、ほぼこの運用に専用されていた。この日は両端にそれが共に入り、中間はキハ55で揃う整った編成であった。これも「編成美」と云って良いだろう。

[Data] NikonF3HP+AiNikkor105mm/F1.8S  1/250sec@f8  Non filter  Tri-X(ISO320)  Edit by CaptureOne5 on Mac.

貝田 (東北本線) 1979

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青函16便から乗継いだ<八甲田>を未明の仙台で目を覚ますと車窓に張付く氷雪が見えた。太平洋岸のここで、これだけの降雪に積雪は珍しい。まだ、道内の何処かに居る感覚も手伝って、<八甲田>を白石で捨て、普通列車から福島/宮城県境の貝田に降り立ったのだった。

東北本線の国見峠は、最高地点の施工基面高が196.96メートルと白坂峠や十三本木峠に遥かに及ばない。けれど、ここには隧道によらずに、最急R400の曲線と25パーミルの勾配で、厚樫山の斜面に取り付き、これを迂回する建設当時の線形が電気運転化/複線化後も残され(*)、改良の相次いだこの線としては特異な区間である。
蒸機運転時代には当然ながら輸送の隘路だったのだが、1988年に至って阿武隈急行線としてようやく開通を見た福島より阿武隈川沿いに丸森を経由する勾配緩和線の計画が古くから存在した故に、改良の見送られて来たものと云われている。それの実現せぬうちの電化計画で、電機/電車運転となれば勾配への制約も小さく、結局のところ1800年代末の規格の残存したのであった。特急電車は高速で通過していたけれど、貨物列車には引続き補機を要していた。これは現在でも変わらず、EH500形式電機の運転に受け継がれている。
この頃の貝田は、複線化により棒線駅となって運転扱いは無かったけれど、信号場当時からと思われる小さな木造の本屋に要員が詰める有人駅であった。ここの要員無配置化は1984年暮れのことである。

(*) - 正確には貝田付近の一部で線路の移設が行われていて、貝田集落内にその路盤跡が生活道路として残されている。この移設は戦前のことで、電化/複線化とは関連が無い。

白石から標高の上がる程に、積雪は厚みを増して降雪も激しく、予定していた東北自動車道の切取り法面上部からの俯瞰は視界が取れそうに無い。藤田方に線路沿いを歩いて、雪面に牛沢川の急流のぽっかりと開いたところで列車を待った。
ED75に牽かれるのは、荷1044列車。荷物列車なのだけれど仙台-福島間で旅客車を連結して客扱いをしていた。その外観は、荷物車/郵便車を交えた旅客列車と変わるところは無い。

積雪で東北自動車道は閉鎖され、激しく渋滞する国道4号線が降雪の合間に見えた。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.8 1/500sec@f5.6 Non filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

岩館-大間越 (五能線) 1972

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日本海沿岸も、この秋田/青森県境あたりまで北上すると、その景観は北海道とさほど変わらなくなる。それだけ天候/気象条件の厳しくなるのだ。
道内への途上に良く立ち寄った五能線は、もう海峡を渡ったか、と錯誤させるような線区ではあった。
上野を19時半の<津軽2号>に乗れば翌朝7時前に東能代に降り立てたし、川部側から入るのなら、いつもの<八甲田>から奥羽線の普通列車に乗継いで、これも7時過ぎには到達出来た。線内で二日程を撮って、青函は深夜便に乗るのが定番のスケジュールになっていた。

県境を跨ぐ岩館-大間越間の10K820Mを、五能線は隆起地形と思われる断崖の岩盤を削り隧道を穿って通過している。海岸線も海浜の無くて岩礁ばかりである。
1926年11月24日に岩館まで達したこの線(当時は能代線と称した)は、大間越までの延長に実に4年の歳月を要し、それは1930年12月26日と記録されている。その難工事の程が伺われる。
駅間距離の長いここでのポイント-筧の橋梁は、岩館から県境を越えた先に在って、炎天下を線路伝いに延々と歩いたものだった。それでも大間越から歩くよりかは遥かに近いのである。平行する国道とは名ばかりの砂利道を歩かぬのは、海岸沿いのそこから断崖上の線路まで登る手段の無いゆえであった。

この橋梁の施設名は当時のメモにもなくて分からない。けれど、それの所在する大間越字筧に相応しく、まさに掛樋のような橋梁である。県境をサミットとした20パーミルの勾配上に在って、下り列車は絶気で駆け下りて来る。
列車は、混合733列車。これは深浦止まりの区間列車であった。

並行する道路が、国道101号線である。当時の北辺の旧2級国道とはこんなものだった。改良工事の開始されている様子が見える。

[Data] NikonF+Auto-Nikkor50mm/F2  1/500sec@f5.6  Y48filter  NeopanSSS  Edit by PhptpshopCS3 on Mac.

今川信号場 (羽越本線) 1971 

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早朝の今川信号場を通過する、何処かで見覚えの在る機関車である。ナンバープレートはD51498と読める。

ここの開設は、1944年7月1日と在る。その日付から、アジア太平洋戦争末期の陸運転換に対応した設置と知れる。
羽越本線上では、京ヶ瀬/神山/中浦/小岩川/小波渡/南余目(西袋)/北余目/東酒田が事由を同じくしているのだが、北余目を除き、いずれもが戦後も廃止されることなく1950年代には正駅昇格を果たしたのに対して、ここは永く信号場に留め置かれ、それは東日本旅客鉃道への承継を待たねばならなかった。
おそらく戦後の早い時期から上下本線に土木工事を経た乗降場を有して、客扱いを行っていたに関わらずである。営業キロの設定されず、それは仮乗降場と同様の扱いであったのだけれど、北海道のそれと異なり、時刻表には臨時駅として記載されていた。

71年当時、ここは隣駅越後寒川の所管で、上り線乗降場の越後寒川方に存在した二階建ての信号場本屋では、越後寒川より派遣の当務駅長が詰め運転扱いを行っていた。二階は、おそらくその仮眠施設であったと思われる。
また、旅客関連設備は無いものの、駅務室には乗車券箱にダッチングマシンが設備され、越後寒川3番窓口として乗車券類の発売がなされていた。それには越後寒川駅とされた入場券も常備され、見たところ出札補充券の用意も在ったゆえ、越後寒川と変わらぬ範囲での発券の行われたものと推定する。ただし、それは全て上下外方駅を発着としたものである。
とは言え、地元の利用客は、それを知ってか知らずか乗車券を購入すること無く乗降していた。着駅清算の常態化していたのだろう。
運転/営業とも通常の旅客駅と変わらぬ存在であったこの信号場の、何が駅昇格を拒んだのかは分からない。

ここは、6.7パーミルの緩い勾配上にあって、上り列車は力行して通過していた。

[Data] NikonF+P-AutoNikkor135mm/F2.8  1/250sec@f5.6  Y48filter  NeopanSSS Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

伊佐領 (米坂線) 1971

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米坂線の定番ポイントだった弁当沢隧道と眼鏡隧道に挟まれたアーチ橋、眼鏡橋梁である。

勿論、それは平行する国道113号線の橋から俯瞰気味に見るのがセオリーなのだが、この日、伊佐領から歩くうちに風雪の強くなり、仕舞いには吹雪の中を現場に到達する有様だった。

実は、この時「イケナイこと」を体験した。
外の風雪があまりにも激しく、とても国道橋上になど立っておられずに、谷沿いの旧道跡である雪道を辿って隧道内部に避難したのだが、上り貨物の時間は迫っても、まともに撮れる天候でなく、イケナイことと知りつつも、どうせなら保線職員のごとくに「力行する蒸機列車と隧道内で遭遇」してみたくなったのだった。
内部の待避所で、見つからぬよう奥の壁に張り付いて待ったそれは、爆音に、轟音に、振動に、そして充満する煙、煙、煙、の想像を遥かに越える事態に恐怖感すら覚えて、この672メートルの弁当沢トンネルを、遥かに列車の抜けるのを待ち切れずに飛び出してしまった。
後年(だいぶ後である)、保線関係者に伺うと、蒸機時代に勾配区間隧道内での退避は、彼らですら基本的に回避していたと知った。もちろん、窒息の危険からである。

吹雪のやや収束した頃、絶気運転の9600が墨絵の風景を音もなくすべる。
列車は混合125列車、坂町行きである。

[Data] NikonF+P-AutoNikkor50mm/F2 1/500sec@f5.6 Y48filter NeopanSSS Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

黒沢 (北上線) 1972

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北上線の無煙化は68年には達成されていて、この当時のターゲットは、専ら71年3月から毎日運転の臨時特急として仙台-秋田間に運転を開始した、181系気動車による<あおば>であった。
この設定は、国鉄東北支社の強い要望にて実現したもので、尾久客車区による<つばさ>運用の秋田における長時間滞泊の間合いを利用していた。当時、北海道と四国島内を除けば首都圏なり関西圏を発着地としない特急の設定は珍しく、他には門司港-西鹿児島の<有明>に金沢-新潟間<北越>の例を見る程度なのだった。
運転開始当初は、<つばさ>編成の5号車に組成のキハ181を上野向きに方転し、10号車までの6両を付属編成としての運転であったが、71年の7月の<つばさ>編成の増強以降は、臨時列車のままながら特別車/食堂車を含む基本編成の7両とされ、翌年3月改正にて定期列車に昇格していた。

道内への旅の途上での立寄は、東北線からの支線ゆえ容易く、上野を21時前の夜行で発ち早暁の北上に降り立てば良かった。
前途は、72年3月改正までなら北上を20時の昼行<十和田>があって、そのまま青函の深夜便に接続したけれど、改正以降はこれが特急に格上げされてしまい、盛岡まで電車急行を使って、そこから特定特急券を別払いしてそれに乗らざるを得なかった。

初冬のこの日、早朝の北上での雨は標高が200メートルを越える錦秋湖岸から雪模様となり、岩手湯田から先は本格的な降雪となっていた。
写真は、黒沢から3キロ程戻った、この線のサミット付近での11D<あおば>である。
閑散期に10両へ減車された<つばさ>編成は、週末/休日等には付属編成を解放せずに<あおば>に運用されることが多々あった。

[Data] NikonF+P-AutoNikkor50mm/F2  1/500sec@f5.6 Y48filter  NeopanSSS  Edit by PhptpshopCS3 on Mac.

女川 (石巻線) 1973

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先般の災禍にて全てを失った女川構内である。

逆向き運転のC11に牽かれた1890列車が通称-女川臨港線から出発して往く。
この線は石巻線の貨物支線で、写真の丁度機関車位置の分岐器で一番線より分岐し、旅客乗降場横から駅前広場の脇を抜けて1.4km先の女川港まで伸びていた。これは貨物専用駅で水産物ばかりでなく女川の貨物扱いも集約され、貨物列車は全てここに発着していた。女川の構内扱いながら本線列車は入換運転では無かったから、運転当直が出向いて運転扱いをしていたものと推定している。
ここの運転がいつまで行われていたかの記憶は無い。廃止は、1980年10月1日と記録されているけれど、それのかなり以前より休止状態であったと思われ、女川港には74年10月から76年10月まで荷物扱いの記録もあるのだが(つまりこの間は一般駅であったことになる)、果たして実際に施行されたものかも怪しい。

女川は終端駅らしく頭端式の乗降場一面を有し、これと直角方向に配置の駅本屋と、二番線には三番線として機回線の付属する配線は被災前まで永く残されたゆえ、ご存知の向きも多かろうと思う。
この当時には、撮影地点の後方には機関車への給水/給炭施設の残滓に転車台が在り、さらにその先には駐泊庫跡と思われる空き地が広がっていた。写真右側画角外には、何線かの側線の外された痕跡と貨物ホームが残され、かなり広い構内を持つ駅だったと分かる。ここは、後に日帰り温泉施設の建設用地となった場所である。

さて、旅客乗降場にて出発を待つのは、多客期のみに、それも年間に10日ほどしか運転されなかった臨時急行<おしか>である。堂々の蒸機急行なのだが、これについては後の機会に譲る。

[Data] NikonF photomicFTN+AutoNikkor50mm/F2 1/250sec@f8 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.

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