70's/80's Monochrome Age and Years of Ektachrome film

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面白山信号場-山寺 (仙山線) 1980

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鉄道省秋田建設事務所が1939年3月に省内資料として作成した「仙山隧道工事並作並山寺間電化工事誌」は、残念ながら国会図書館に収蔵されておらず、関係自治体である宮城県図書館か山形県立図書館に出向かぬと閲覧が出来ない。おそらくは当時に鉄道省が両県に寄贈したものであろう。
仕方なく、土木学会誌の1937年8月号(第23巻第8号)に所載の当時の秋田建設事務所所長による論説報告「仙山線仙山隧道の直轄工事に就いて」や時報記事などからの推察に頼るのだが、山寺から延長となる仙山隧道山形方抗口までの区間は、1933年10月17日に仙山西線として開業した羽前千歳-山寺間と一体で建設されたものと思われる。路盤工事は勿論、橋梁なども架設され、既に軌道も敷設されていたことだろう。
仙山隧道の導抗掘削への着工は1935年4月1日と記録されるけれど、工事には抗口直近から山寺方500メートルの位置まで大規模な抗外施設の建設を要し、記録に在る掘削着手後の資材輸送ばかりでなく、これにも将来の営業線に運搬列車の運転されたはずである。

さらにはそれへの便乗扱いだろうが、スキー客輸送にも使われたと推定される。
2009年のシーズン以来に営業のなされず、施設の廃墟と化しているらしい南面白山の北斜面に所在のスキー場の開設は、仙山西線が山寺までを開業した1933年の鉄道省の手になる。1937年に仙山線の全通すればスキー場直下に面白山乗降場が置かれるのだけれど、それまでの4シーズンもスキー客の到達は鉄道に依っていたとしか思えぬのである。所部付近から南面白山の尾根に取り付けば、確かにスキー場斜面上部に達するが、山寺駅から直線距離としても6キロ、途中にピークをひとつ越える尾根筋は3キロ余り続く。
鉄道省にしてみれば全通後を見通した投資であるから、非営業線での便宜的旅客扱いも考えられぬではなかろう。今のところ確証は無いのだけれど、当時の山形市内に発行の新聞記事を丹念に拾えば、記事のひとつくらいは見つかりそうではある。

通称の紅葉川林道、山形市道所部面白山線の開削時期は調べ得ていない。その自動車通行前提の線形設計や山寺市街へと直結する経路選定からは、早くとも戦後、比較的近年のことではないか。林野庁管轄の林道ではなく、最初から自治体による開設だったと思われる。対して、千手院から奥へと伸びる山道は長い尾根筋を面白山山頂へ至る登山道として旧い時代から存在したのではなかろうか。
写真は、その途上から望める第一紅葉川橋梁。813M<仙山3号>が33パーミルを駆け降りて往く。後追いである。
この千手院からの林道は、徒歩の鉄道屋には楽しいルートだった。尾根への小道を分ければ、まもなくに第二紅葉川橋梁の下をくぐって渓谷を渡り、急坂を上って紅葉川林道に合流していた。

[Data] NikonF2A+AiNikkor28mm/F2.8 1/250sec@f8 Nikon Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

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陣場 (奥羽本線) 1980

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その昔、<つばめ><はと>や<はつかり>の編成端に組成されていたスハニ35は、乗車中の旅客の託送手荷物(チッキ)を積んでいた。現在の航空機輸送と同じく、荷物の多い長距離移動の特急旅客には欠くべからざるサーヴィスだったのである。対して20系固定編成客車以降の特急寝台列車の電源装置搭載の荷物車が運んでいたのは、主には日本国有鉄道旅客及び荷物営業規則(1958年10月1日施行)の第353条に定める「特別扱小荷物」の新聞紙であった。明朝までの速達を要する新聞の朝刊は、従来より「特別扱新聞紙」として列車輸送が行われては居たのだが、輸送距離・範囲の限られたものを1958年10月1日改正における<あさかぜ>でのマニ20の運用開始に際して、特別扱新聞紙運賃(同重量同運送距離と仮定した普通扱小荷物運賃の凡そ9割引であった)の他に、その運賃の2倍相当額を「運送列車指定料金」としての徴収を制度化したのであった。勿論、これは固定編成客車の設計段階から構想され、編成に不可欠の電源装置搭載車への荷物室設置はこのためであった。
運用開始後の旺盛な需要に1959年の<さくら>向け増備車が3tから5t積みへと荷物室容積を増大したカニ21とされたのは周知のとおりである。
この輸送は特急寝台列車の増発とともに拡大を続け、1964年10月1日改正からは、それの設定の無い方面に対して急行列車に専用荷物車を連結しての輸送も始められた。

ただし、当時の国鉄は主要駅における旅客と荷物扱いの輻輳回避や、輸送効率上に拠点駅間での小荷物と小口扱貨物の共通化から客荷分離を進めており、朝刊輸送も将来的には夜行運転の荷物専用列車を設定する方針であった。1971年度に20系客車の後継として新製の14系特急形客車が分散電源方式で電源荷物車を持たず、1972年11月6日に生じた北陸トンネル列車火災事故から、集中電源方式に急遽設計を変更して1973年度に増備の24系のマヤ24が荷物室を装備しなかったのも、それによる。
しかしながら、市場の要求は国鉄の思惑を裏切り、続く1974年度の24系25形としての増備に際しては3t積の荷物室を持ったカニ24、さらに1977年度からは5t積載の同100番台を製作せねばならなかったのである。もっとも、これら増備は各方面の急行列車の格上げ用途だったから、旅客車と一体組成の電源荷物車はそれに連結の(新聞輸送の)荷物車の代替を果たすことにはなっていた。

1970年代に隆盛を極めた朝刊輸送ではあったが、各方面への高速道路整備の進展した1980年代ともなれば、その性格からの締切時間にも有利なトラック輸送への切替が進み、また中央発行紙の地方への印刷工場建設の動きなどから輸送量は減少し、区間も限定されて往った。そして、国鉄の小荷物輸送から大幅に撤退した1986年11月1日改正にて、ごく一部を除いて廃止され、上野や大阪駅での発車間際の積込みの喧噪は過去のものとなった。

さて、日本海縦貫線を走った<日本海>の荷物車にも、それ独自の運用番が振られていたけれど何を積んでいたのだろうか。
実は、1968年10月と云う早い時期の設定ながら、大阪から北陸方面への時間帯の適合しないこの列車に新聞輸送の実績は無いのである。運んでいたのは、同じく1958年10月1日より制度化の「運送列車指定料金」を課した普通扱小荷物、所謂急送品と呼ばれた高級貨物(荷物)であった。けれど、めぼしい経済拠点の見当たらない運転区間にあっては需要も小さく、1975年3月10日改正での14系置替を機会に廃止されてしまった。1978年10月2日改正にて24系の運用となり、1976年2月以来の季節列車も定期列車に格上げられた際には、2往復共に荷物車運用が設定されたものの、それはそれぞれの共通運用列車に関わってのことであり、<日本海>では引続き荷物輸送は行われなかった。
復活は、国鉄がトラック輸送の宅急便に対抗して「鉄道宅配便」を開始した1982年2月であり、市中集配網の整備を受けて「列車指定荷物輸送」の営業列車に追加されたものである。

写真は、白沢への新線を駆け抜けて往く4002列車<日本海2号>。カニ24の荷物室は空気を運んだ頃である。
複線化による陣場駅構内嵩上げにて旧線より勾配の吃くなった区間だけれど、上り線ゆえ影響がない。植生に覆われた築堤中段に旧線路盤が残る。

[Data] NikonF2A+AiNikkor28mm/F2.8 1/250sec@f5.6 Nikon Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

風合瀬 (五能線) 1980

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青森県域は本州島の北端に在って、陸奥湾を介した津軽海峡と続く日本海にも太平洋にも海岸線を持つ。それゆえ、日本海岸を西海岸、太平洋側を東海岸と呼ぶと、青森市出身の友人に聞いたことが在る。Eaglesに代表された西海岸音楽全盛の頃だから、彼が「アメリカみたいだろ」と続けたので良く覚えているのだが、西海岸はまだしも東海岸はかなり怪しい。肝心の太平洋に面する三八上北(さんぱちかみきた)地方の住民に東海岸の呼称はあまり聞かれなかった。
対しての津軽での西海岸は一般的で、当時の同世代がウェストコーストを気取ったと思いきや、年配者もそう呼んでいた。聞いてみれば何のことも無い、津軽人にとっては津軽半島の両岸を区別するに必要な呼称だったのである。ここでの東海岸とは半島の陸奥湾岸を指す。となれば、下北半島部の住民にも同様の呼称が有りそうだ。青森県域の両岸を東西とするのは県域中央の青森市周辺独自のことなのだろう。ややこしい。どおりで行政はこの呼称を使わぬはずである。

津軽西海岸、深浦町の大字風合瀬は鳥居崎の後背に広がる緩やかな傾斜地一帯を指し、野中や館村、宮津に字の別れた中心集落もここに成立して、五能線の風合瀬を名乗る駅とは距離がある。この停車場の戦後の追設は住民の請願によると思われるのだが、傾斜地下に設置では大戸瀬との距離が無く、鳥居崎付近には20パーミルの拝み勾配が存在したから、その先が選ばれたものだろう。五能線には建設時の用地取得や線形など様々な事由で、このように集落から離れた立地の駅が多い。かつてなら、それでも住民は駅を目指して歩いただろうが、道路交通の発達すれば見捨てられるのも早かったことになる。
ここも、僅かばかりの民家の中に忘れ去られたように存在する駅だった。

ただ鉄道屋だけは、これと云ったポイントの見当たらないにもかかわらず、ここには必ず下車していたようだ。その駅名の響きに惹かれ、意味するところの景観を想ってのことだろう。そして、駅への道路と一体化した土のホームと小さな待合所に納得すると海に向かい、浜にはそれしかない漁師小屋に画角を決めるのである。
ここでは誰もが持ち帰った光景と思う。

列車は1728D、東能代行き。
1977年度末のキハ40 500番台の最初の投入線区が五能線であった。弘前運転区への79年度の新製分を含めた21両にて同数のキハ10/17を淘汰した。

[Data] NikonF3P+AiNikkor28mm/F2.8 1/500sec@f8 Nikon Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

撫牛子 (奥羽本線) 1980

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1930年代の日本は、早期に世界恐慌の影響を脱しつつあったものの、これも世界的天候不順から冷害に凶作が続き、加えての昭和三陸津波にて東北や北海道地域の農家は疲弊し、一方では軍部が発言力を高め2.26事件を経て、遂には大陸での開戦に至る不穏な時代にあった。
けれど、それは戦前における鉄道の黄金期でもあり、鉄道省は、その営業線をほぼ唯一の基幹交通機関として長距離輸送は勿論、都市圏に地域内輸送にも、技術革新を背景に様々なサーヴィスによる増収策を展開していたのである。超特急<燕>の運転、省営自動車の運行、長距離電車の実用化、丹那・清水隧道の開通、3等寝台車、連帯運輸制度に貨物の宅扱い制度など、後年にエポックとなったこの時代の事象には事欠かない。現代にも繋がる地方都市圏近郊区間での旅客のフリークエントな輸送施策もそのひとつであり、これに導入されたのがガソリン機関による気動車であった。

単車構造の鉄道省最初のガソリン動車キハニ5000形の12両は、1929年に日本車輌を出場し、翌1930年2月1日より東海道線支線の大垣-美濃赤坂間にて試用の後、初期故障などの曲折を経乍らも同区間の他、室蘭、仙台、姫路、徳島などの近郊区間に実用された。この車両は試作的要素を持ち、48PSのガソリンエンジンに従来の客車同様の構造が単位重量あたりの出力不足を招くなどの課題を残したものの、フリークエント運転による旅客の誘発効果が確かめられ、1933年からはボギー構造の標準型キハ41000形(登場時はキハ36900形)、それの支線区用であるキハ40000形、そして1934年には流線型車体を採用したキハ42000形が量産され、全国各地に導入がなされたのである。
仙台鉄道局においては、弘前機関区へのキハ42000の配置(両数不明)により弘前近郊区間の頻発運転にこれを運用した。弘前市は1898年10月1日に歩兵第4旅団および歩兵第16旅団からなる陸軍第8師団が、ここに創設されて以来、平時1万人規模の師団に加えて軍関連施設や関連事業所などが立地、人口増に経済規模も拡大して、県都青森を凌ぐ都市に発展していたのである。
ガソリン動車の運行は、1935年4月15日より奥羽本線の大鰐から川部を経て五能線五所川原の区間にて開始され、それは第8師団の兵営地帯を貫通するものであった。この際には既設停車場間に10箇所の停車場を新設、簡易な乗降場設備に旅客フロントを持たないこれらは、ガソリンカー駅と通称された。
ここに限らず、全国のガソリン動車運行区間に営業施策として展開されたもので、戦後に旭川鉄道管理局管内他に大量に設置された局独自の仮乗降場設備の源流を成すが、ここでは全てが旅客駅であった。
順風であった運転も、1937年7月からの日中戦争戦時下に至ると同年12月には早くもガソリン消費統制が施行され、以降数次に渡る統制発令に中止せざるを得なかった。ここでの運行停止日は分からないが、ガソリンカー駅としての開業駅は1940年11月1日を以て廃止されている。
撫牛子は、その中で生き残った幸運な例である。(他には五能線林崎が戦時の休止を経乍ら戦後に復活している) 弘前に隣接して利用の多かったものだろう。

今や、市街地外縁の住宅地に呑み込まれんとしている撫牛子も、この当時までなら周辺には長閑な田園が広がっていた。農道を歩いて岩木山の方角を望むけれど、強い西日に溶込んで判然としない。
ガソリンカーの末裔達の4両編成は、キハ40+22+11+28と全て形式が異なる。この頃には当たり前に見られた組成。五能線直通の1740D、鯵ヶ沢行きである。

[Data] NikonF3P+AiNikkor28mm/F2.8 1/500sec@f8 Nikon Y52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

面白山信号場-山寺 (仙山線) 1980

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仙台からの仙山線始発は7時近くで遅く、紅葉川の渓谷区間で朝から撮ろうとすれば早朝の山形に降り立つ必要があった。北海道への周遊券でその経路とするには、福島から仙台までの羽前千歳経由乗車券の別途購入を要したけれど、行きがけの駄賃には釣り銭の出る気がしていたものだ。
この線区は仙台と山形の都市間連絡線ばかりでなく、その先の新潟や酒田とも結ぶ地域幹線としても機能していたから、長編成の気動車急行に455系の電車急行、ED78の牽く旅客に貨物、さらには気動車の普通列車も通過してルーラル線区らしからぬ存在だったのである。

山寺から面白山乗降場へは、今、山形市道所部紅葉川線となっている紅葉川林道を歩いていた。千手院観音の大屋根を戴く集落の佇まいを遠目に眺められたからだが、所部集落を過ぎて棚田を登った先で所部沢を上流へ迂回して、鉄道撮影の目的には余計に歩かされた。
山道へ急いで、その千手院前を通過する紅葉川右岸を選べば、通り過ぎるには惜しい集落風景を歩いて、これも棚田脇を登ると山峡に入り、天童高原への林道を分けて第二紅葉川橋梁下を通り紅葉川林道に合流していた。この先で、林道は再び分岐するのだけれど、一方は渓谷の水流へと降りる道で鉄道屋には無縁だった。
この紅葉川林道は、その随所から仙山線の線路を眺められ、朝に山寺を降りて午前中を里の区間で午後から山峡に入って夕方に面白山に至るか、あるいはその逆経路で一日を過ごすのを定番にしていた。新緑と深緑に、紅葉黄葉の頃、何処からとも無く沁み出す清水に濡れた林道を踏み締めながら歩く凛とした空気感は忘れられない。

第一紅葉川橋梁を見下ろす尾根のあたりから上流側を眺めると、深山の趣の線路が見通せた。
実際に渓谷の深山に違いなく、盛夏に砂防ダムの水流を見るこの画角は、水の風景である。
列車は827列車、山形行き。軽軸重に交流回生制動のED78は、この線区の運転用に新製された機関車である。

[Data] NikonF3HP+AiNikkorED180mm/F2.84S 1/250sec@f8 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.
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