70's/80's Monochrome Age and Years of Ektachrome film

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常陸岡田 (日立電鉄・日立電鉄線) 1975

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常陸台地の北に尽きるところ、八溝山系南端の低い丘陵の裾を沿うように走っていた日立電鉄線の廃止から、まる10年を経過した。それはつい最近のことだから、善くぞそこまで生き延びたとすべきなのだろうか。
1961年度の771万人の利用がひとつのピークだったと知れば、国鉄の事例にて線区収支改善の道具と認識されたCTC制御を1969年と云う極めて早い時期に設備・施行し、車掌省略運転も1971年度には導入するなど経営改善の推進に熱心であり、それが功を奏しての延命だったかも知れないが、1986年度の379万人を以て赤字経営に陥って以来に利用者数の回復すること無く、極限までに合理化された経営も21世紀を迎えて力尽きたと云うことである。
ルーラル鉄道とは云え、沿線は決して過疎地では無い。日立市の人口は1970年に19万人に達して以来に横這いを続け、常陸太田市も2005年度の3万8千人余りは1975年度の3万5千人を上回っており、寧ろ両市街地の拡大は沿線域に及んでいたに関わらず、廃線を公表した2003年度の利用人員は162万人まで減少していたという。
ここも、経営合理化が運転本数の削減に踏み込んで以来に、それが利用者数の減少を呼び込む悪循環に沿線から見放された典型なのだろう。市街地化により増加した沿線住民は利便性の高いバス交通に流れ、何より世帯あたり保有台数が1.6台を越える茨城県にあっては自家用車移動を選択した結果であった。

人口集積地での事例としては岐阜市郊外の名鉄美濃町線と同様にも見えるけれど、ここでは鉄道を利用して太田市側と日立市相互間を、或は常陸太田・大甕から水戸方面へと流動した高校通学生とその親達から、強い廃線反対運動の派生した。彼らがバスよりも定時性に優れ、高速性も持ち合わせた鉄道の特性を希求したのは当然と云えよう。
これを、かの巨大資本を親会社に持つ経営側は無視し、行政も全くに機能せずに廃線は強行されたのであるが、その後の両者の動向は不可解であった。跡地利用を会社より付託された日立市の選択は広大だった久慈浜駅跡を除き、当初よりバス専用道への転換なのである。しかも、それは鮎川から大甕の区間に限ってとされた。市街地化の進んだ地域で単線の線路敷の拡輻は困難な上に、多くの既存一般道との交差に通行の優先権は確保されないから、バス運行の表定速度は20km/h程度で計画せざるを得ず、両端での一般道運行には定時運行も保証されない。これは沿線の集積人口を背景に利便性を伴ったLRTへの転換を図る鉄道運行では駄目だったのだろうか。
百歩を譲ってバス転換を容認したとしても、本来に専用道の必要と思えるインター区間の大甕-常北太田間に至っての、常陸太田市の表明した「地域集会所に不足していた駐車場」への駅跡地の利用程度とは話しにならない。もっとマシな責任逃れのいい訳はなかったものかとさえ思う。

地方公務員を経験された方なら良くご存知だろうが、自治体の政策は首長の資質において大きく変わる。この2000年代初頭に両市の首長だったお二人は、残念乍ら鉄道交通への理解と、それを前提としたリーダーシップの全くに持ち合わせていなかったとしか云い様がない。

暮色濃い常陸岡田を発車して往く常北太田行き。夕方の通勤列車は雑多な形式の4両編成だった。
運転の合理化には不可欠の発条転轍機が見える。要員の当の昔に引上げられたここでは、固定資産税の回避からなのか駅舎も取り払われ、代替の待合所すら無かった。画角に見える建物は変電設備である。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.8 1/30@f4 NonFilter Tri-X(ISO320) Edit by LightroomCC on Mac.

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龍ヶ森 (花輪線) 1975

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岩手県岩手郡松尾村に所在する標高679メートルの龍ヶ森がスキー適地として衆目を集めるのは戦後のことである。1926年11月10日に、ここへ鉄道の開通し龍ヶ森信号場が置かれた以降には、当時に普及しつつあったスキーの実践者に、その車窓に見えた広大な斜面は注目されたであろうが、戦前の岩手県のスキー場案内に沿線の田山は記されても龍ヶ森の名は無い。

戦後の1952年(*1)にこの信号場の廃止されてしまい到達手段も無くなっていた中で、1957年1月3日の信号場跡地への乗降場開設は、盛岡からも手近であり、列車で到着すれば眼前が滑降地と云う龍ヶ森斜面への誘客を図ってのことである。当時より盛岡鉄道管理局はスキー客誘致に熱心で、1952年には松尾村寄木に山の家「もみ山山荘」(*2)も設置していた。
ここでの乗降は、1959年(*3)の信号場の再設置以降も勿論そこの客扱いとして継続されていた。
この国鉄の措置により来訪者を増やしつつあった龍ヶ森スキー場に、地元松尾村は当時に不可欠の設備とされつつあった特殊索道(現乙種索道-スキーリフト)の導入を決め、1961年12月28日より運用を開始とした。同日を以ての信号場の正駅格上げは、これを受けてのことである。
旅客フロントを持つ新本屋を設置するでなく、旅客扱いの実態に変わりないのだが、待合室に替えては当時に用途廃止の進んでいたオハ31形5両の車体を連ねたヒュッテを構内に開設したのだった。「山の家」の簡易ヴァージョンとも云え、国鉄が直営した。1962年シーズンからは、同年より運転を開始した準急列車の臨時停車も行われていた。
ここへ8620形蒸機の三台運転を目当てに初めて降り立った1968年は、この現状の時期であった。夏期とあってヒュッテの営業はなされていなかったけれど、休憩室とされた1両は車内が開放されていたと記憶する。鉄道屋ばかりでなく、ここへやって来る登山・ハイキング客を意識してのことに思えた。
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(*1) 8月5日付での廃止とされるが、確証が無い。
(*2) 1970年まで営業し、後に国鉄は解体跡地へ「八幡平リゾートホテル」を建設・運営した。
(*3) 月日付名。鉄道公報に記載がなく、おそらく盛岡局の局長達によると推定。

ここでの蒸機撮影の狂乱は別項に譲るとして、写真は喧噪の去った1975年に再訪した際の撮影である。標高500メートル の初秋は深々と冷え、虫の音に響く閉塞器の電鈴は二度と聴くことの出来ない駅の情景である。
客車ヒュッテ側から撮っているのだが、それが据え替えられたオハ46の車体であったかの記憶はない。
光跡を残して通過するのは、914D<よねしろ2号>盛岡行き。19時10分通過だが、ここを通る上りの最終である。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.8 Bulb@f5.6 NonFilter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

黒沢 (北上線) 1975

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北上線は、奥羽地域の中心都市である仙台と同地域日本海岸の秋田とを結び、特急列車も運転される主要経路であった。その営業キロ程の267.2キロは仙台-盛岡間東北本線上を起点とする4本の横断線経由の中で最短距離であり、それらに設定されていた同区間直通急行列車でも陸羽東線や田沢湖線経由の5時間を越える所要時分に対して1時間を短縮しており、特急に至っては東北線内での120km/h運転により3時間50分台を実現していた。両地区間の貨物輸送においても多くの列車が通過した重要線区に違いなかった。

現状での同線の零落は82年11月15日に盛岡までの全面開業を迎えた東北新幹線からの秋田への接続線とされなかったことによる。距離・所要時分とも優位であったにも拘わらずの田沢湖線の選択は、60年代の建設であった同線の県境区間に介在する長大トンネルが電化断面を採用しており、盤下げを要する隧道延長の短かいことが事由とされたのだが、盛岡までの新幹線乗車による料金面や北上線に比して43.6キロを増加する運賃などの収入増が勘案されたのも違いあるまい。
電化接続線が標準軌直通線に進展した今、北上線経由であれば東京-秋田間所要時分がより短縮されたのは確かであり、長期的視野では如何な選択だったのだろうか。

仙台-秋田間を最初に直通した優等列車は、1959年12月1日に設定され、翌60年3月15日より定期列車となった準急<たざわ>であり、それの陸羽東線経由が先行した。
北上線(当時には横黒線)経由での設定は1962年7月15日から運転の急行<あけぼの>だが、所要時分を4時間40分に短縮していたものの、奥羽北線区間の都市間連絡も兼ねた仙台-青森間設定のため仙台-秋田間の用務旅客には相応しい時間帯設定ではなかった。<あけぼの>の愛称は66年の横黒線から北上線への線名改称を受けて、68年10月改正にて<きたかみ>に改められる。
その改正以降、同じ東北本線上の仙台と福島、盛岡、青森は特急列車の頻発運転がなされ、山形も奥羽山脈を越えるとは云え仙山/奥羽本線にて60キロばかりの距離にある中で、唯一取り残された秋田との用務向け列車の設定が喫緊の課題であった国鉄仙台駐在理事室は、69年度末から奥羽線<つばさ>に運用していたキハ181系気動車編成の秋田における長時間間合いを活用し、毎日運転の臨時列車ながら1971年3月20日より北上線経由の特急<あおば>の運転を開始する。
そして、翌72年3月15日改正にてそれを定期列車とすると同時に、逆時間帯へ秋田基準の<きたかみ>を増発、北上線経由優等列車を3往復としたのだった。

<きたかみ>は、西日本地区に対して非冷房車ばかりだった奥羽地域の気動車急行の中で、優先して冷房化が進められた秋田鉄道管理局の看板急行であった(*)。けれど、それの間合い運用では決して冷房を使用しない「殿様」振りも見せていたのである。
写真は、通票授受に速度を落として通過する702D<きたかみ1号>。
この直後にノッチを投入してエギゾーストとともに加速して往くのは、見ていても乗っていても気動車らしく楽しい瞬間だった。

(*) - その事由は、仙台-青森間列車が秋田以北で全車冷房化のなされた金沢所運用の<しらゆき>と併結したことによる

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.8S 1/125sec.@f8 Y48 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

常陸岡田 (日立電鉄・日立電鉄線) 1975

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札幌から両親の故郷である水戸まで帰省旅行をしていた頃、青森からの夜行急行が大甕を日立電鉄の電車を横目に通過すると、海側車窓に太平洋が広がり、久慈浜の街中に緩い曲線を描くその線路を見下ろせた。朝日の逆光の中に見たその光景が印象に残って、後にそこを撮りに往くのだけれど、既に住宅の建て込んで常磐線の盛土に立っても記憶に在る光景には出会えないのだった。
この久慈浜以北の海線区間はロケハンを繰返しても程よい画角は見つからず、日立電鉄での撮影は以西の里線区間に向かうことになった。帝都高速度交通営団からの譲受車の入る前までに限られるものの、ここへは忘れた頃に足を運んでいた。

この常北地域と呼ばれる一帯は、八溝山地の南に尽きて、そこからの里川や源氏川、山田川などの水流が久慈川へと注ぐ農村地帯である。そしてそれらの谷には酒造場が散在している。
酒呑みでなければ意外かも知れないが、茨城県は酒造県なのである。この久慈川・那珂川流域と石岡地区に水戸線沿線筑波山水系を中心に、2012年現在でも49の酒造免許場が数えられる。(但し、全てが稼働場とは限らない)
里川流域の常北地域には5場が在って、この常陸岡田と隣駅小沢の程近くにも酒銘「松盛(まつざかり)」の蔵元、岡部合名会社が田圃に囲まれていた。
この蔵には当たり前に美味い兵庫産の山田錦による大吟醸もあるけれど、やはり周辺にて収穫の日本晴に美山錦が使われる純米酒や純米吟醸が面白く、特に精米歩合を敢えて70%に抑えたと思える純米酒は、まったりとした中にも滑らかさが感じられ田園地帯の酒らしい。

勿論これは後年の話で、この頃には田圃の中に高い煙突を見て酒蔵の存在を意識していただけではある。当時に遠目にも目立つそれを持っていたのは酒屋ぐらいであった。
写真は、常北太田へ向かう夕方の通勤列車。後追いである。
手前方は元を辿れば小田急のデハ1100型のモハ1000型1001と見える。

[Data] NikonF2A+AiNikkor105mm/F1.8S 1/125sec.@f4 Y48 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

東鳴子 (陸羽東線) 1975

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陸羽東線へは、ここの蒸機運転が無くなってからも行っていた。煙の無くても良い撮影なら、ポイントの選択範囲も広がったものだった。

東鳴子は、荒雄川右岸で第二荒雄川橋梁(389M)に接する盛土部に、戦後の1952年1月25日に開設された比較的新しい駅である。当初より場内を持たない閉塞区間中間の停車場であった。
ここの特徴は、用地の関係からか橋梁上まで延伸された乗降場にあり、それは既設の橋脚や桁への荷重負担を避けて独立して設けられていた。橋梁に高架橋のへばりつく如き外観は、あまり例の無いだろう。たかが乗降台を支えるために河川敷から高く構築された構造は、軽量鋼材の入手出来なかった時代の所産であろうか。近年ここに通された国道47号線新道への支障部分が撤去されたものの一部は健在である。
ここは1997年3月22日改正を以て、鳴子御殿湯と改称している。御殿湯は、古に赤湯と呼ばれたここに湧く温泉の別名からと云うが、未だに馴染めない。けれど、切妻屋根を乗降場上屋に兼用した木造モルタル造りの旧本屋を2004年に改築した現駅舎の意匠は好ましく、岩出山 (陸羽東線) 1972 の岩出山駅舎と同じ東日本旅客鉃道仙台支社の仕事とは思えぬ程だ。

写真は、第二荒雄川橋梁上の711D列車。キロ28を含む前4両が青森行き<千秋1号>、後2両が羽後本荘行き<もがみ>である。
1959年12月1日に、それぞれ<たざわ><もがみ>として新設されたこの列車は、その後に続々と東北地域に誕生する多層建気動車急行群の先駆けであり、その中でも仙台からと米沢からの同名列車と新庄で相互に編成を入替える点に置いて特異な存在であった。(各区間での編成表を追記に掲げるので、興味のある方はご覧いただきたい)

歓楽温泉化しつつあった隣の鳴子に対して、ここは湯治客中心の鄙びた風情を見せていた頃である。画角の下側に目立つ「いさぜん旅館」は、40年を経た現在でも湯治宿としてここに在る建物のままに盛業中である。虎党は往かねばならぬ宿でもあるようだ。

[Data] NikonF2A+AiNikkor105mm/F1.8S  1/250sec@f8  Y48 filter  Tri-X(ISO320)  Edit by PhotoshopLR3 on Mac.
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