70's/80's Monochrome Age and Years of Ektachrome film

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梅ケ谷 (紀勢本線) 1983

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天王寺-名古屋間を紀勢本線経由にて連絡する特急列車の運転開始は1965年3月1日のことであった。
当時に国鉄は、1957年度を初年度とした第一次五カ年計画、それを途上で打切っての61年度からの第二次五カ年計画による老朽施設更新、幹線輸送力の増強に近代化を背景に主要幹線のみならず地方幹線に至る特急列車網整備を進めていたのだが、準急のみにて急行列車すら設定の無かった線区、区間への特急設定は異例であり、その強い意欲の現れと見て良いだろう。
紀勢本線での優等列車による輸送実績は大半が白浜口(現白浜)への観光客輸送であり、天王寺からの160キロ余りは特急運転を要しないとされて、それの大幅増発のなされた1961年10月改正では見送られた経緯がある。しかしながら、同改正で設定の山陰線特急が時期尚早と云われながらも、大阪・京都よりほぼ同距離である城崎方面への観光輸送に加えて、対地方都市間輸送も想定外に堅調で、64年3月の松江から博多までの延長に自信を深めての設定と思われる。一挙に名古屋までの運行は、特急列車に相応しい長距離運転と紀勢線東部区間での需要開拓も意図してのことだろう。けれども、大阪府南部や奈良と名古屋連絡の関西線特急と共通運用にて両立を図った設定は、双方とも名古屋口での利用には不便であった。そもそも直通旅客の考えられないこの列車は、白浜や新宮などでの旅客の入れ替わりを前提にした多目的設定だったから、関西線特急運転ゆえのそれは不適切としか云えなかった。
これは、67年10月改正での関西線特急の廃止時には改められず、68年10月改正にて下りの時刻が繰り上げられてようやくに解消した。

1964年度末時点にて紀勢本線は僅かに海南-東和歌山(現和歌山)間の線増が完成したのみであり、特急運転際しては双子山と梅ケ谷の両信号場が開設された。梅ケ谷は、多気から宮川-大内山川-梅ケ谷川と谷を詰めて来た線路が熊野灘の沿岸へと下り始める荷坂トンネル入口側の亀山起点89K460Mに置かれ、その施工基面高の192M70は紀勢本線での最高所でもある。海岸線までは直線距離にて6キロ足らずの位置であるから、紀伊半島の地形の険しさが知れる。
特急設定時のダイヤで上下行違いは船津だったのだが、大内山-紀伊長島間11.5キロがダイヤ構成上に特急列車運転を阻害とされたのであろう。
ここは、地元の大内山村(当時)から駅設置要望の出されていたこともあり、1965年11月1日付にて駅に昇格したけれど、信号場からの運転要員の配置はあったものの営業窓口の開かれること無く実質的に無人駅であった。

写真は、梅ケ谷で離合する5D<南紀5号>と6D<南紀6号>。手前側、通過列車が6Dである。
高山線の<ひだ>もそうだったけれど、道内の気動車特急を見慣れた眼には、この列車には特急としての威厳が全く感じられなかった。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F2.5S 1/125sec@f4 Non filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

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岩館 (五能線) 1983

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五能線の無煙化は、広戸-追良瀬間での8620蒸機の転落事故の記憶も生々しい1973年3月のことであった。
これに際しては、DE10内燃機の8両が弘前運転区に集められたのだが、何れも五能線運用には使用しないはずの蒸気発生装置の搭載車だったことを訝しく思ったものだった。ご丁寧にも1両が配置された除雪用のDE15も1000番台車であった。
ご承知のとおり、ここの運用客車は混合列車での貨車前位組成から各車で独立暖房を装備していたのである。
同じ秋田鉄道管理局や隣接する盛岡・仙台局管内で同時期にまとまったDE10の配置の在った各区では、旅客列車仕業の無い区所は勿論、それを持っていた区所でも非搭載車との混配置が見て取れるから、この措置は何らかの意図のあったものと思う。
それの稼働を前提にしていたとすれば、客貨分離しての貨物列車の設定を想定したとも思えるけれど、線内での貨物発着の少ないゆえの混合列車だったから、例え財源が1車でも運転せねばならないそれは考え難い。貨物扱い駅の集約を見越した貨車後部組成化の計画でも在ったものだろうか。弘前-川部間での逆向き運転は残るけれど、それなら給油などメンテナンスを要する各旅客車の温気暖房機の使用を停止出来るから燃料経費の低減にも繋がる。この後に増配置された4両も蒸気発生装置搭載車であった。

1983年春には次期ダイヤ改正での貨物輸送の大幅なシステムチェンジが囁かれ始めていた。車扱い貨物輸送からの大幅な撤退となれば、混合で設定なればこその五能線客車列車などひとたまりもあるまい。その夏の渡道に際しては、前夜を弘前に宿を取ってそれへの名残り乗車を目論んだ。
この最終期の五能線には、弘前運転区のオハ62-2両/オハフ61-15両の配置を以て、それの5両組成の3組使用による[秋21]運用にて12本列車が設定されていた(内1本は回送列車)。その半数は[秋荷3]運用のオハユニ61を東能代方に併結した6両編成であった。運用の合理化から途中解結は廃され、朝方の輸送力列車も昼間の全線の通し列車も全て同一組成である。この編成長では貨車の後部組成は最早あり得ない。

翌朝に弘前から乗った1730列車のハイライトシーンが、この岩館での1735列車との離合だろうか。今時なら人垣の出来そうなものだが、この時そこに立ち会ったのは自分ひとりだけだった。
DE10141は盛岡からの転入車。対向のDE101198は弘前への新製投入車である。

[Data] NikonF3P+Distagon 28mm/F2.8 with Adapter 1/60sec@f8 Fuji SC52 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

碇ヶ関 (奥羽本線) 1983

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津軽平野が南に尽きる大鰐からの矢立峠への平川流域は温泉地帯である。温泉好きとしては、その中の幾つかには泊まっている。勿論矢立峠を含むこの区間での撮影に併せてのことである。
古くは、1969年の親父に連れられての道南旅行の際、青函を越えて足を延ばして相乗温泉に宿泊したことがある。情報の乏しい時代ゆえ、札幌からの予約で峠近くの山峡の宿を想像していたそこの、温泉プールを筆頭にしたレジャー施設には親子ともども面食らった覚えが在る。それでも、峠に向かう前補機、後補機の蒸機の谷間に響き渡る轟音には驚き、床に入っても胸の高鳴ったものだった。その翌日の撮影は、決して鉄道屋ではなかった親父の何万と云うカットの何処かに埋もれているはずだが、まだ辿り着けていない。
湯の沢温泉には、それから随分と後に津軽湯の沢駅で雨に降られた際、思いついて駅前から電話を入れると迎えに来てくれると云うので泊まりを決めたことがある。この平川支流の湯の沢を遡れば、その沢沿いに3軒の宿が在ったのだが、この時泊まった「湯の沢山荘」はとっくに廃業してしまい、最後まで残った一番奥の(これが本来の湯の沢温泉)「秋元温泉旅館」も2102年秋に休業(実質的廃業)して、失われた温泉地となった。
ここが何れも後継者に恵まれずに廃業に至ったのに対して、秋田側の日景温泉は娘さんがこれを継いで現在も盛業中である。大湯沢を遡った谷間の1軒宿だけれど規模は大きく、旅館部の本館を始め湯治部の建物が散在していた。温泉は勿論、その古い木造の落ち着いた佇まいに、渡道の予定を遅らせて二泊をここで過ごしたものだった。
若くして亡くなった大館出身の友人が、その病の原因も突き止められぬ頃に医者の勧めで療養していた地でもあり、湯治のじさまばさまに囲まれての生活を見舞った思い出もある。

かつて補機の解結駅だった碇ヶ関も温泉地である。1895年10月21日に青森からの終端駅として開業した停車場が集落の手前に置かれた関係で少し歩かされるのだが、平川を渡ったそこには小さいながら温泉街が形成されていた。
翌朝、その日は津軽湯の沢までゆっくり歩くつもりでいたので、まずは車窓からも見えた大山祇神社へ向かい、線増工事で生じた切取りの小山から民家の裏庭を見下ろした。
8502のスジでやって来たのは、12系による創価臨。宗教的な事由なのか、暑い日にかかわらず冷房を使用していない。

[Data] NikonF3P+AiNikkor28mm/F2.8S 1/250sec@f8 Fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

福来信号場-焼石 (高山本線) 1983

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高山本線の高山以南区間には4箇所に信号場が設けられている。
下呂近傍の少ケ野を除けば1967年から68年の設置で、68年10月1日改正における特急を含む優等列車の増発に対応したものである。
信号場は長い既存停車場間の中間地点に設けるのが理想ではあるけれど、用地取得や工事などの諸問題に多々左右される。それを理解しても、ここでは4場ともに9キロから10キロの停車場間に対して偏った位置での設置が共通している。少ケ野は狭隘な下呂構内での貨物扱いを分離した貨物駅が、その扱の廃止により信号場として残存したもので停車場間の1.7キロもそれ故と知れる(*)。
他の飛水峡、鷲原、福来の何れもの上り方停車場より3キロ程の位置は偶然であろうが、ダイヤ作成上には些かの配慮を生じたものと思う。それでも高山本線程度の列車回数であれば十分に機能するとの判断なのだろう。当時に多く設定の在った貨物列車の速度からは、勾配の下側に偏るのは寧ろ好都合であったのかも知れない。
(*) - 1937年の開設時より下呂の構外貨物施設であった。営業上には同駅の構内扱いにてキロを設定しなかったのだろう。

飛騨金山から焼石の9K400Mは、その大半が益田川の狭谷沿いに路盤を設けている。中間地点は下川渡トンネルの前後なのだが、そこでの工事経費や工期を勘案して峡谷入口にあたる野首集落に福来信号場が置かれた。福来の名称はここの大字地名を取ったものである。高山以南区間のCTC制御施行に際しての1968年9月28日の使用開始なので当初より要員配置は無い。
ここで益田川に注ぐ福来川の谷あいも含めれば周辺にはそれなりの居住人口のあるゆえ、駅としての設置を旧金山町が要請しなかったものか、とも思う。国鉄岐阜工事局50年史にはそこまでの言及は無く、「金山町誌」(1975年金山町・注-史とはされていない)は未見なのだが、福来地区よりも居住者の多い対岸の中切集落からの駅利用に関わる益田川への架橋要求を回避したと云う見方は穿ち過ぎだろうか。もっとも地域移動は道路交通の時代を迎えていたのが正解かもしれない。

列車は714D<のりくら4号>、高山始発の名古屋行きである。
この当時の高山本線は、まだ中部地方横断線と認識されていた時代であり、5往復設定の<のりくら>は4往復が岐阜-富山間を通して運転し、夜行を含む内2往復は金沢発着であった。(他に<ひだ>1往復が同じく金沢発着)
運用は名古屋第一機関区と美濃太田機関区が分担し、双方とも高山線内で岐阜方となる基本編成の4号車はキハ57が所定とされていた。
後方は第一益田川橋梁(135M)。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F2.5S 1/250sec@f8 Non filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

福来信号場-焼石 (高山本線) 1983

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少し前のこと、下原ダムのダム湖の水位がいつもより下がって湖岸の露出していたものだから、そこまで降りて行ったことがある。湖面近くからの画角は新鮮ではあったのだが、しばらく見ていると水位は10センチくらいの幅で常に変動しているのに気がついた。
このダムは、中山七里と呼ばれる飛騨川の景勝地に所在して、その景観保全のために常時放水している。ダム関係には全くの素人で知り得ないけれど、その放流ゲートはスリットの開口幅をそれほどに細かく調節を続けているものなのだろうか。降水のあったでは無いから流入水量に変化はないはずである。水位変動はゲート調整に違いないと思えた。
いずれにせよ、急激な増水(通常水位への復帰)も考えられたものだから、背後の2メートル程の擁壁をよじ登り斜面を越えれば国道へとエスケイプ出来るところに撮影位置を変えたのだった。この後、ここを列車で通る度に湖岸の其の位置を確認したが、露出を確認することは無かった。

ところで、最近の報告によればダム天端部への立入りが禁止された、とある。ここは地元との協定でそこを通路とした対岸への自由通行が認められており、近年には国道側からはフェンスで囲まれて一見立入りの出来ぬように見えるが、その出入り扉は施錠されていなかったはずである。報告者はそれを見落としたのかも知れぬが、もし事実であれば、やはり押し寄せる鉄道写真屋対策なのであろうか。残念なことではある。

下原ダム湖畔を往くのは、1042D<北アルプス>。
名鉄線内は神宮前の発着で、シーズンには富山地方鉄道の立山まで延長運転していた頃である。
この名古屋鉄道キハ8000/8200系列については、思い入れに溢れる記事がWeb上にも多数あり、ここには繰返さない。

[Data] NikonF3P+AiNikkorED180mm/F2.8S 1/125sec@f11 Fuji SC52 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.
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お詫び
福来信号場-焼石 (高山本線) 1982 の記事におきまして、高山本線の第一/第二境平橋梁を含む下原ダム前後区間がそれの建設にともない付け替えられた旨の記述をしましたが、その事実はありませんでした。
下原ダムの設置決定により、建設工事の或る程度進んだ高山本線の設計を変更せざるを得なくなり、当時の東邦電力がそれにて生ずる第一/第二境平橋梁の架橋経費他の建設費用を負担して工事を進めたのであり、高山本線の線形は開通時より変わっておりません。事実誤認をお詫び申し上げます。
なお、記事の該当部分は上記に訂正してあります。

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