70's/80's Monochrome Age and Years of Ektachrome film

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山寺 (仙山線) 1976

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山寺に降りて駅前から立谷川を渡り、線路沿いに面白山方へ15分ばかりを歩くと、優美な曲線の入母屋造り(日吉[ひえ]造り)屋根を戴いた千手院観世音本堂に辿り着く。今には銅版葺だけれど、その古には檜皮[ひわだ]葺だったことだろう。
裏手の峯の浦と呼ばれる山域は、830年に此の地に達した天台宗の僧、円仁(後の慈覚大師)の一行が開いた中世の一大霊場だったと考えられており、中腹の山清水滴る垂水磐に謹製の観音像を置いたのが千手院の始まりである。そして、垂水磐の東に大日如来、峯の浦西側に続く凝灰岩の岩山に薬師如来、阿弥陀如来、本地如来の各像を、これも謹製して安置、霊域としたのだった。
この西側部分に、円仁が遣唐使一行と唐に渡った間、出羽講師に任ぜられた安慧(円仁の弟子僧と云われる)が伽藍に修道場を整備したのが、後に山寺と呼ばれる宝珠山阿所川院立石寺の基礎であり、唐より帰国した円仁が再びこの地を訪れた860年が、その開基とされている。
現代に観光客の姿を認める山寺に比してひっそりとした千手院が、ここでの天台宗教学道場の始まりなのである。宝珠山奥の院への参道もかつてにはそこからが本道だったとされる。
なお、本堂は幾度かの災禍、戦乱に被災し、現在の建物は1752年に再建されたものであることが、境内の火災供養塔に記されている。円仁の作とされる観世音像も焼けこげ、現在には秘仏として収蔵されている。

以前の記事 山寺 (仙山線) 1978 にも書いたけれど、千手院の所在する千手院集落、江戸期の長野村には慈覺坊、文殊坊、オシャマン堂などの地名の散在して山裾に信仰の里の風情を伺わせており、それを紅葉川を隔てた対岸の所部[ところぶ]集落から線路の背景に望むのは、ここでの鉄道風景では最も好きな画角でもあった。
山寺構内を出て、すぐに始まる33パーミルを上る826列車。
千手院本堂の深い屋根が杉木立に光る。千手院集落は右手奥の緩やかな斜面へと続く。
この時代、集落にはまだまだ茅葺き屋根が目立ち、客車の編成にもスハ32が組成されていた。

[Data] NikonF2A+AiNikkor105mm/F2.5S 1/500@f5.6 Y48 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

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陣場 (奥羽本線) 1976

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奥羽本線の矢立峠区間の勾配改良と複線運転化は、その核心である矢立トンネル(3180M)を含む白沢-長峰間22.5キロに別線を新設する大規模な工事であった。

新線の矢立トンネルは、1968年に着工して温泉肥沃土の地質に悩まされながらも翌69年7月31日に貫通し、1970年10月1日に完成、同年11月5日よりこの区間の複線運転を開始して、矢立峠の峻険を越えていた旧線が失われた。これに際しては、トンネルの福島方では施工基面高101M80の白沢から同190Mに置かれた入口抗口までの10パーミル勾配の維持に陣場構内の嵩上げを要し、さらには白沢から将来に下り線となる増設線が陣場手前の福島起点416キロ付近で既設線を支障するため(キロ程は既設線基準)、白沢-陣場間についても起点414キロから前記の416キロまでは既設線に沿った単線、前途陣場構内までが複線の路盤を新設し、この区間を将来の上り線を使用した単線運転にて既設線より同時に切替とした。
白沢-津軽湯の沢間が新設線の運転となったのであるが、単線路盤の区間には、将来に勾配を下る上り列車の運転線ゆえ15パーミルが存在して、蒸機運転当時に補機の残る要因ともなっていた。
陣場停車場は前記の嵩上げに際して、東に構内を拡張して新線上に駅施設を移設した。同一位置、構内のためそれと扱われていないが実質的に移転であり、白沢方には上下線を分ける分岐器が置かれた。津軽湯の沢も出口抗口付近への移転を要し、此処にも碇ヶ関方に分岐器が設備された。これにて両駅とも運転扱いが残り、引続き要員が配置されていた。

移設された津軽湯の沢から長峰までの区間は、13.5から15パーミルの介在した線形の10パーミル連続勾配への緩和と碇ヶ関-長峰間の唐牛トンネルが電車線架設に断面が不足するため、第3から第5の平川橋梁の老朽化対策と曲線改良を兼ねて、第3平川橋梁の下り方起点430K500M付近までに、ほぼ既設線に沿った複線路盤を新設した(碇ヶ関構内を除く)。これにて、各橋梁はPC桁の新橋梁に移行し、複線断面の碇ヶ関トンネルと(新)唐牛トンネルが新設された。複線運転の開始は1971年8月31日のことと記録される。
けれど、当時にここを列車で通過した記憶からは、少なくとも津軽湯の沢-碇ヶ関間については前記の矢立トンネル供用開始と同時に単線運転で新線に切替えられたと思われる。ここでの記述は手元の秋田鉄道管理局による線路縦断面図や線路略図などの資料に基づくが、肝心の盛岡工事局の局史や工事記録を国会図書館が収蔵しておらず閲覧していないものだから確証がない。
(この項続く)

列車は、松原トンネルを経由する下り新設線上の711D<千秋1号>青森行き。
前2両が米沢からの、キロ28を含む後部4両が仙台から陸羽東線を経由しての編成であった。<もがみ>を後部に連結した仙台編成の姿は、東鳴子 (陸羽東線) 1975 に在る。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.8S 1/500sec.@f4 Y52 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

大橋 (日立電鉄・日立電鉄線) 1976

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機関車屋で客車屋なものだから、電車は、専門分野ではない。まして、ルーラル鉄道の私鉄線となれば手が回らない。
撮るにしても、単行列車は苦手で、遠目にも存在の主張出来る編成列車が良い。これは、モノクロで撮っていたからなおさらなのである。
この日立電鉄線に幾度か通うのは、60年代末に近隣に住む祖父母のもとへ帰省した折、大甕駅で見かけた木造の「大昔の電車」の鮮烈な記憶による。ルーラルな私設鉄道の深淵を些か意識した訳である。
当時在住の札幌にも定山渓鉄道が健在だったのだが、そこには既に近代的デザインの全金属製電車が走っていたのである。

この70年代には、その「大昔の電車」はここを去っていたのだけれど、形式を一にしても一両毎に形態の異なる保有車両群や、全線を乗ってみての、古い住宅街の軒先をかすめる鮎川方、田園地帯を往く常北太田方とも低規格の軌道の続く淡々とした沿線には興味のそそられたものであった。ルーラル私鉄にのめり込む入口にも思えたが、そこは機関車屋の本分なのか、この線区だけの興味に終わっている。

写真は、交換駅大橋に進入する鮎川行き。
昼間閑散時の単行運転用にワンマン改造を施されたモハ11形式のモハ12である。1948年日立製作所で新製の自社発注車と云われているが、戦後の車両不足の頃であり、帝都高速度交通営団が銀座線用に発注した構体を無理に振り向けさせたのが実情のようである。
大橋は、住宅街を越える高架線を急勾配で下った位置に在って、停車のブレーキ操作には技術の要ったものと思う。

さて、先の「大昔の電車」とは、日立電鉄のデワ101。元をただせば鐵道院のナデ6110形の6141で、今は大宮の鉄道博物館に在る。電機品を復元して自走可能と聞く。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.4 1/250sec@f8 Non filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

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