70's/80's Monochrome Age and Years of Ektachrome film

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深浦 (五能線) 1979

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蒸機運転の最末期、1972年12月2日早朝に広戸-追良瀬間にて生じた機関車の海中転落をご記憶の向きは多いことと思う。前夜来の波浪に道床の流失しての事故であった。
かように五能線は浪害の災害線区なのだが、かつてに自然災害に非ず人為的誤謬により上下列車が相対し、正面衝突直前に両列車機関士らの機転にて回避と云う出来事が記録されている。深浦から川部方へ1.6キロ程、車窓に奇岩の岩礁を見下ろす断崖の区間でのことゆえ、事故を生じていれば両機関車とも転落は免れず、大惨事となっていたであろう。
1957年3月5日のことである。この日も風雪に列車運行は上下とも遅延していた。
14時34分、168列車は36分延にて追良瀬を出発、深浦へと向かった。なお、当時に広戸は未開業である。ところが、深浦側も定刻とすれば168列車と行違いとなる165列車を、それの追良瀬に変更と誤謬し14時39分に27分延で発車させてしまったのである。かくて両列車は単線上に相対し、半径200から300メートル曲線の連続で海岸線をトレースする見通しの悪い区間には正面衝突は必至の事態となったのだった。
行合崎基部を越え12パーミル下り勾配を時速48キロで絶気運転していた168列車の水戸機関助士は、14時41分、起点68.5キロ手前で段丘に遮られた彼方に微かな黒煙を視認、咄嗟に機関車のものと直感して「赤、赤、赤」と叫びながら短急汽笛を吹鳴、助士の叫びに山谷機関士も急制動を掛けるが、下り勾配には100メートルの制動距離を要して68.4キロ付近でようやくに停車、接近する黒煙にその後も汽笛吹鳴を続けたのである。
しかしながら、一方の165列車には折からの風雪と、また給気運転中とあってそれの届かず、石沢機関助士が岩陰に機関車の煙突らしきを見たのは起点68.2キロを過ぎたあたり、時速40キロでの力行途上であった。石沢助士も「赤、赤」と叫んで短急汽笛を吹鳴、三浦機関士も間髪を入れずに急制動に移り、上り勾配を幸に約70メートルを進んで停車に成功した。この時、両機関車間の距離は50メートルに満たなかったと記録には在る。

165列車が力行していなかったら、またその煙を168列車が見なかったら事故は避け得なかったかも知れない。信号以外には注視義務の無いとは云え、前方確認に注意を怠らなかった乗務員の機転の在ってこその事故回避であった。
時の国鉄総裁、十河信三は4人の機関士・助士に総裁表彰を与えてこれに報いている。それは緊急停車措置に対してばかりでなく、双方とも相手方が停止しきれない場合を考慮して、停車後直ちに後退運転の態勢として万が一の回避にまで備えた職務規程には無い機敏な行動を讃えたものであった。
なお、原因は深浦と追良瀬駅長間の連絡不備と規程違反にあり、遅延から深浦で168列車から受取り165列車に授ける通票授受が出来ぬのなら、閉塞器より新たな通票を取り出せねばならないのに、それを現場限りと省略したゆえであった。165列車は無閉塞運転だったのである。

深浦定番の断崖上の区間、列車は1734Dの東能代行き。
168列車の急制動で停車したのが、このカメラ位置付近である。

[Data] NikonF2A+AiNikkor28mm/F2.8 1/500sec@f8 Y52 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

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後三年 (奥羽本線) 1979

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まだ仕事写真屋としては駆け出しだった頃のこと、或るフォーク雑誌の編集者と前夜の<津軽2号>で上野を発ち、雪の十文字に降り立ったのは1979年の正月を過ぎてからと記憶する。朝の便で秋田空港に飛べば済む話しなのだけれど、二人とも羽田への早起きの苦手とあっては、その分で夜行のA寝台を選んだのだった。
この横手盆地への用件とは、ここからメジャーデビュウを果たす農民フォークグループ「角石(かどいし)」と、その楽曲に詞を提供した農民彫刻家、皆川嘉左衛門氏の取材であった。
皆川氏も阿部養助氏らメンバー4人も自ら「百姓」を名乗る、そこで何代も続く米造り農家の後継者だった。出発前に試聴盤で聴かせてもらったデビュウ曲「若き百姓よ」は、そのストリングスをフュウチュアしたアレンジには些かの違和感を覚えたものの、当時の歌謡曲化したフォークシーンでは永らく耳にしなかった強烈なプロテストソングに違いなかった。

農政の1970年代は減反政策の時代であった。稲作は60年代に機械化や技術革新にて生産量の飛躍的な増加を見た反面、消費量は低迷し国家の買入米は在庫が積み上がっていたのである。この事態に対して政府は1970年度より政府買入米の限度を設定し、農家の懐柔策として「ヤミ米」と呼ばれていた政府管理外の米流通を追認する一方、コメ以外の作物への農地転換を補助金を以て誘導した。この転換促進は名目上には農家の自主性を尊重するとしながらも、農村への一般補助金の支出を一方的に配分された転作面積の達成を条件とするなど、実質的な強制措置であった。戦後一貫して食料増産に邁進させられながら、高度成長下の恩恵を受ける程に所得の伸びないばかりか、出稼ぎ労働力として搾取され続けた「百姓」には堪え難い屈辱政策だったのである。彼らの多くは転作、実質の減反配分に対して補助金を受け取ること無く、耕作放棄にて応じた。一度休耕した圃場の復旧は物理的に容易ではなく、食料生産面積の失われることでの抗議の意志表示として良い。耕作条件の良く無い山村の棚田から荒れ地化の始まり、鉄道の車窓に休耕田の多くを見るようになったのが、この時代であった。

皆川氏の自宅アトリエでのメンバーへの取材と撮影の後、二階屋のさらに屋根上に突き出すように設けられた見晴らしの良い小部屋に案内され、白昼からの宴会と相成った。例によってビールの乾杯に始まったそれは酒へと移行し、炬燵と差し込む陽光にほろ酔いの頃、持込まれたのが自家製と云う焼酎の数々だった。と云うことは、おそらく密造酒だったのかも知れぬが、もう時効だろうから書いてしまう。米焼酎に芋、麦、蕎麦と定番の続いてはホップ焼酎だった。焼酎なのだけれど、呑めばビールの味には面白く、ついつい杯の進んでしまった覚えのある。

この年、十文字にはこの取材を始めに都合三度足を運んだ。雪の溶けた5月には、「角石」が毎年に主催している野外コンサート「さなぶり(早苗饗)歌っこ祭り」を覗かせていただきに、そして収穫の秋にポップ焼酎が出来たと誘われて道内旅行の途上に立ち寄ったのだった。
写真は、米沢から秋田への445列車。その際に横手盆地北部まで足を伸ばしてのカットである。稲穂の海を渡る列車も良いけれど、刈入れの終わり杭掛けのハサの立ち並ぶ晩秋の景観には惹かれる。
「角石」と皆川嘉左衛門氏についてはWebに多くの記事が在り、その「若き百姓よ」「休耕田に佇つ百姓」もそこで聴くことが出来る。商業的には惨々だった彼らだったけれど、30余年を経てもそれを記憶している方々の多いのに驚く。確かに「聴かれ」ていたのである。リーダー阿部養助氏は還暦を過ぎて羽後町の町議を務められ、そして現役のミュージシャンでもある。

[Data] NikonF2A+AiNikkor28mm/F2.8 1/250sec.@f8  Y48 filter  Tri-X(ISO320)  Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

下小川 (水郡線) 1979

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夏中、鮎の釣り人の姿が絶えない久慈川だけれど、落ち鮎の頃になると鮭の遡上が始まる。久慈川の流れる那珂郡山方村辰ノ口に生まれ育った祖母の話には、村人が網ですくって捕獲した話が語られ、それは面白いように獲れたと云う。そしてそれは、軒下に吊り下げて八溝山地から吹き下ろす寒風に晒す「干し鮭」となって貯蔵された。
もちろん1900年生まれの祖母が幼少の時分のことであり、現在に茨城県は資源保護から永年に渡り一部漁業者を除き県内河川での鮭採捕を禁止している。それは各河川とも孵化・稚魚放流を事業として行っておらず、自然繁殖に任されている事情からだろう。茨城県は自然遡上の見られる太平洋側の南限にあたる。

余談だが、稚魚の種苗法流により回帰に成功した遡上の南限は、千葉県九十九里浜に注ぐ栗山川である。ここでは1976年から千葉県水産試験場がそれを繰り返した結果、回帰が定着し、近年には300から800尾を採捕しての種苗生産が地元自治体を中心に行われている。
また、ここでの放流稚魚や東京湾多摩川での民間によるそれの「迷い鮭」であろうと推測される魚体の遡上目撃が、最近に神奈川県下の河川にて相次ぐが、回帰定着には至っていない。

久慈川の鮭は、流域に幾つか存在する取水堰堤への魚道整備などにて保護され、近年にはそこに注ぐ多くの細い流れの小さな堰も、遡上時期が渇水期でもあることから開放されて、産卵環境の良いかなりの上流まで泳ぎ入っている様子である。
これを背景に茨城県・県水産試験場では、将来の資源活用のテストケイスとして一般公募による「久慈川サケ資源有効利用調査」を2012年より実施している。遡上時期の数日間のみ、下流域の指定河岸でルアー釣りを、中流域でフライフィッシングを定員を限って許可する試みは、要するにはサケ釣り大会である。あくまで調査名目だから釣り人は採捕従事調査員とされ、釣果の魚体に関わる報告書提出など要するのだが、3尾までは持ち帰りも許され、何よりフライでの釣上げは全国的に許可事例の無く、一日あたり6000円と云う高額な施設利用料(つまりは遊漁料)にもかかわらず大変な人気と聞く。

ワム車を連ねて久慈川右岸を往くのは1350列車。
この当時に水郡線内の貨物扱駅は、砕石出荷の西金を除けば常陸大子が残されるのみとなっており、水戸との間に1往復の貨物列車が設定されていた。荷主は知らぬのだが、いつに見てもワムにワラの有蓋貨車ばかりの結構な財源のそれは、何かしらの定形輸送だったと思われる。
手前の沈下橋は、下小川 (水郡線) 1980 に書いた平山橋である。

[Data] NikonF2A+AiNikkor105mm/F1.8S 1/125sec@f5.6 Y48 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

徳沢 (磐越西線) 1979

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阿賀野川(福島県域では阿賀川)の谷は古代からの交通路であったが、その流れを用いた水運は中世以降に本格化した。けれど、それは河口より津川までのことで、そこより上流は山峡を曲流して舟の通行可能な河川ではなく、明神や西海枝(さいかち)の浅瀬や銚子ノ口の急流がそれを妨げていたのである。
その最初の開削工事は、徳川幕藩体制初期の1620年に時の会津藩主蒲生忠郷により目論まれるも、工事途上に現在の喜多方市利田(かがた)地内で斜面の崩落が起き、これにて水流に3メートル程の落差を生じてしまい頓挫する。これは後に利田ノ滝と呼ばれ、今は1943年竣工の山郷ダムの貯水域に水没している。
その後の1645年にも会津藩転封後の保科正之が試みるが、これも失敗に終わり、ようやくに1685年の開削工事にて辛うじての運行に成功したと云う。会津藩は姓を松平と改めた正容の時代であった。それでも渇水期の通行には難儀して1729年に追加工事の記録がある。

会津の領主がこれほどまでに阿賀野川の舟運に拘ったのは、産米の日本海廻船(北前船)を利用した上方への移出のためであった。風向の関係でそれの運行される4月・6月に領民の百姓は農作業に多忙で陸路輸送の人夫確保が難しく、それに比べて人手を要さない水運を必要としたのである。
揚川通船と呼ばれた津川から塩川の区間には8箇所の河戸(船着場)が設けられ、津川から遡って最初の河戸が徳沢であった。運賃はこの河戸間ごとに決められていたらしい。ここには唯一の舟番所も置かれたから主要な中継地点だったのだろう。

1914年11月14日の徳沢を含む津川-野沢間を最終区間とした岩越線(現磐越西線)の全通により、阿賀野川の水運は壊滅するのだけれど、この揚川通船区間に限れば、運行水路河道や手綱道(*1)の維持管理の困難から、それ以前より衰退していたようである。
1882年に福島県令に着任した三島通庸の住民弾圧に近い強権行政と裏腹の積極的な土木政策により、越後街道(ほぼ現国道49号線)の馬車道への改修の進んだこともあるのだろう。
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(*1) 舟を上流に運行する際に、それに綱を架けて牽く人夫が歩く水流沿いの通路である。

写真は、阿賀野川徳沢橋梁を往く224列車、郡山行き。普通列車の7両組成は、かつて首都と新潟を連絡していた主要幹線の名残と云えようか。
郵便局舎と合築される前の木造駅に降りて、その橋梁を見上げる位置まで坂道を下ると船着場に着き、そこには放置された起重機の残骸があった。聞けば、かつて船の揚陸に使われたと云う。水面との位置からは、1929年に竣工の豊実ダムにて水位の上がった以降の設置と思われ、ここでの水運に使われたではなさそうだった。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.4 1/250sec.@f5.6  Non filter  Tri-X(ISO320)  Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

前田屋敷 (黒石線) 1979

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黒石線は、1912年8月15日に鐵道院による黒石軽便線として開業している。それは、この津軽地域において1894年に弘前まで、翌年より大鰐方面へ延長された後の奥羽本線に次ぐ鉄道路線であった。その経路から外れた商都黒石を奥羽本線に、そして弘前への連絡を意図した鉄道であり、鐵道院が法定線に依らず、軽便鉄道法(1910年4月23日法律第57号)を国有鉄道線の「高規格を必要としない路線で、地元に起業者がいないか将来的に有望な路線」にまで拡大解釈しての建設は、そこに余程の政治的有力者の存在したのだろうか。
当初には、弘前への接続を計画したのだが、速成を意図して最短距離の川部を起点に変更の結果、予算の30万円が13万円余りにて開通と当時の新聞(東京朝日新聞1912年8月15日)は伝えている。同記事は、剰余金で川部-五所川原間を建設しての津軽横断線実現を地元が要請し、鐵道院も調査の上で内定とも書くけれど、それは私設鉄道の陸奥鉄道が1918年に開通させている。その経緯は調べてはいない。これも1927年に鉄道省に買収され、以降に黒石線(1922年9月2日改称)はその五所川原線(後の五能線)と一体に経営されて往く。
1935年4月15日より奥羽本線の大鰐から川部を経て五能線五所川原の区間にて開始された弘前地区におけるガソリン動車運転もこの線区を含んで、6.6キロの線内に唯一の中間停車場の前田屋敷は、その際に設けられた所謂ガソリンカー駅であった。

速成と予算低廉化を意図しての川部接続は、1927年9月7日に弘前から津軽尾上までを開業していた弘南鉄道が、戦後の1950年7月1日に弘南黒石に達するに及んで裏目に出る。弘南鉄道は当初より黒石延長を目論むものの、戦前には鉄道行政を掌握していた鉄道省が、旅客・貨物の転移は明らかと見て実質的にそれを阻んでいたが、国鉄の公共企業体となれば運輸省も免許を付与しない訳には往かぬのであった。
斯くして赤字運営の地域交通線となった黒石線を、その34年後に当の弘南鉄道が経営委譲を得たのは、自治体参加の第三セクタ化された場合の利便性向上からの逆流失を恐れて、それの安楽死を意図しての行動だったと思えてならない。

その線路には礼を失するが、ここは撮ろうとして訪れたのでは無いと白状しておく。奥羽本線撮影の折、川部に黒石行きの停車していたものだから往復のつもりで乗る内に、途中2時間を待つつもりで前田屋敷に降りてみたに過ぎない。稲作地帯に林檎果樹の散在はここでの特徴的景観かも知れないが、取り立てての変哲の無い沿線が淡々と続いていた。せめての救いは、収穫の季節に林立する穂仁王(ほにょ)だったろうか。
列車は132D、川部行き。
この頃には、弘前への直通も、運用の都合からの鯵ヶ沢行きも在った。

[Data] NikonF2A+AiNikkor105mm/F2.5 1/250sec@f5.6 Y52 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.
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