70's/80's Monochrome Age and Years of Ektachrome film

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堺田 (陸羽東線) 1971

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1917年11月1日の全通に先立って鐵道院新庄建設事務所が発表した「陸羽東線建設概要」は、その冒頭で「本線路は宮城山形両県界に於て陸羽両国の分水嶺を突破し西方遠く日本海の要港酒田町に至り東は小牛田町より私設仙北軽便鉄道線路を介して太平洋岸石巻港に達し以て両洋に連絡する奥羽地方に於ける重要なる本州縦貫山脈横断の鉄道なり」と書いている。
実際に、東北線に奥羽線と云う奥羽地域の縦貫線が青森まで達した当時、次にはその両線に連絡する横断線の建設が急務とされており、『鉄道敷設法』(1892年6月20日法律第4号)第二条に奥羽線として規定の「宮城縣下石ノ巻ヨリ小牛田ヲ經テ山形縣下舟形町ニ至ル鐵道」は、1910年3月に同法第七条に規定の第一期線に組み入れられ、同年5月2日付にて工事線名を新庄線として同酒田線と共に新庄建設事務所の所管となったものである。ちなみに、新庄建設事務所は、この両線の建設のために同日付で置かれた組織であり、陸羽東線全通後の1918年7月1日現在でも3名の技師以下83名の要員を数える規模であった。

奥羽地域の大分水嶺にあって標高340メートル程の鞍部を経路とした新庄線は、堺田を頂点に最急勾配を1/55(=18.2パーミル)とした縦断線形が可能なことからも、東北・奥羽の南北幹線と接続し、仙北軽便線(後に石巻軽便線)と酒田線(後に陸羽西線)を介して石巻港と酒田港の重要港湾とも連絡する貨物輸送の東西幹線と目されたのである。
各停車場のワム車換算にて30両程度となる270メートルの線路有効長に、中新田(後の西古川)、岩出山、池月、川渡、鳴子(後の鳴子温泉)、堺田、羽前向町(後の最上)に上下本線と別に用意された副本線なり側線は、それを意識した輸送設備であったろう。
サミットに位置した堺田は、レヴェル(実際には小牛田方から新庄方に向けて1パーミルの上り勾配)を得る必要から原状地盤を切取り、掘割としたような場内ながら、上下本線の2面2線の他に下り本線外側に副本線と上り本線側に貨物積卸線を持っていた。

同じようにサミットに位置した宗谷線の塩狩の中線に対して本線外側への設備は、上下列車への退避に備えたではなく、峠越えの区間で広く施行されていた輸送方式に対応したものと思われる。重量貨物列車を勾配の麓駅で定数におさまるよう二本列車に分割して運転し、その頂上駅にて再び併結の上で勾配を下る輸送方式は、蒸気動力の時代には、線区輸送力の確保にも機関車や乗務員の運用効率にも有利で各所の峠で行われていたのである。
事実、この当時にも名残の見られ、小牛田を早朝に出る川渡行き1791列車の財源は川渡で分割され、一方は765列車として午前中に堺田まで登り、そのままに留置された。機関車は単機で川渡へと戻り、小牛田を午前に出た川渡行き767列車と先に分割された1791列車のもう一方の財源を繋いだ新庄行き1793列車の前補機として再度峠に挑み、堺田で解放されれば再び川渡へと戻っていた。堺田に765列車で運ばれ、日中の永い時間を過ごした財源は、小牛田を午後の新庄行き1795列車にそこで連結されて峠を降りたのだった。
余談めくが、これに組成の貨車は小牛田から新庄までの94.1キロに15時間あまりを掛けて運ばれたことになり、徒歩並みとなる平均時速の6キロは、1970年代ともなればさすがに大時代的輸送と云わざるを得ず、おそらくは操配車主体で組成されていたことだろう。

標高338米、堺田停車場の副本線に進入した765列車。ここに貨車編成を置き去りにして機関車は川渡へと帰って往く。
この標高データは、おそらく駅舎位置の国土地理院によるものだろう。施工基面高なら337M10である。ちなみに県境もここを通るでなく、1キロほど小牛田方の第四大谷川橋梁直下にある。

[Data] NikomatFTN+P-AutoNikkor5cm/F2 1/500@f5.6 Y48 filter NeopanSSS Edit by PhotoshopCC on Mac.

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滝谷 (只見線) 1971

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1949年に発足した日本国有鉄道が、多くを抱え込むこととなった非採算線区の運営に線区別経営方式導入に至る経緯については、大湊運転区 (大湊線) 1973 に書いた。
1958年度内に各鉄道管理局管内で少なくとも1線区以上を同方式とするよう求めた同年7月の副総裁通牒に対し、既に仙石線が試行線区となっていた仙台局が選定したひとつが会津線であった。これを受けては当時に会津若松-会津川口間、西若松-会津滝ノ原間の延長118.2キロを管轄する会津線管理所が1959年4月30日付にて会津若松に開設された。
増収の見込めない線区での収支改善とは運営経費の削減の他に無く、鉄道管理局長から大幅な権限委譲を受けた線区別経営体では、線区限りの弾力的な列車設定や運行、現場による用品調達の工夫なども為されたものの、あくまで主体は駅務、運転、保線などの見直しによる要員削減の推進であり、会津線管理所においても設置初年度の1959年度末までに61人の要員を減らしたとある。
しかしながら、損失額の低減は1958年度の395.087千円が386.837千円と僅か800万円ばかりに留まり、営業係数は230から239へと逆に悪化していた。これは奥只見の電源開発事業に1957年12月から運用を開始した通称田子倉線への接続線として会津宮下から会津川口の区間を1956年9月20日に開業し、建設資材輸送の貨物列車運転は在っても旅客収入のほとんど見込めない新線を管轄に加えていたことによる。そして、この貨物列車の運行は線内輸送の客貨分離による合理化策、即ち気動車の導入を遅らせる要因ともなっていたのである。
1963年度に磐越西線運用には気動車の配備されるものの、会津線へは管理所廃止直前の1967年3月20日改正での滝ノ原方列車の一部置替を待たねばならず、全面気動車化も同方面が先行して、川口方には1971年8月29日の只見線としての全通以降も1972年10月2日改正まで蒸機牽引の客車列車の残存を招いたのだった。

滝谷至近の滝谷川橋梁(l=155M)は、当時の撮影者には外せない定番位置だったと記憶する。橋梁は3パーミル勾配なのだが、滝谷の発車直後に加えて原谷トンネルの13パーミルには力行の煙が期待出来たのである。
福島・会津磐梯ミニ周遊券の自由周遊区間に含まれないこともあって余り足を踏み入れなかった只見線なのだが、初めての滝谷下車でこの積雪の光景に出会えていた。これを撮れたので後は会津線側にばかり通ったと云うのが正解かも知れない。客車列車の残存もこの線に遅れて来た撮影者としては誠に幸いと云えたのだった。
列車は425列車の会津川口行き。
今は樹木の成長でこの位置には立てないと聞くが、この当時には右にも左にも回り込めて、橋梁を横側からも撮れたのである。ただ、残念ながらそれがどんな場所だったのか覚えていない。

[Data] NikonF PhotomicFTN+P-AutoNikkor5cm/F2 1/250@f8 Y48 filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

〔お詫び〕3月いっぱいに本業が極めて多忙となってしまい、更新の滞り気味なことご容赦下さい。

川渡 (陸羽東線) 1971

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1997年から流行りの温泉駅を名乗っているけれど、川渡温泉は直線で1.2キロばかりを離れた荒雄川の対岸であり、一日に僅か5便のバスの連絡するものの、それは古川鳴子間路線の経路上に停留所の所在するに過ぎない。今にここに降りて温泉を目指す旅客など皆無であろう。

川渡温泉は平安期より記録に現れると云う古からの温泉場ではあったが、陸羽線の線路選定は当初より岩出山鳴子間を荒雄川左岸として、そこを経過地とはしなかったのである。長大な第一と第二の荒雄川橋梁を架橋してまでのその事由に「陸羽東線建設概要」は触れること無く、玉造郡一栗村に置いた池月停車場を「栗原郡に通ずる要衝に設置」と書くのみなのだが、この間の右岸には山稜の迫って隧道を要するとも思われる地形の箇所が見られるから、それとの建設費を勘案した結果と云うのが正解だろう。
けれど、1914年4月19日に玉造郡温泉村大字名生定に仮の終端駅として開かれた停車場は川渡を名乗ったのである。江戸期以来の名生定村にかかわらず、当時に合併して同じ村内となっていたとは云え対岸旧大口村の、しかも小字に当たる川渡を採ったのは異例として良い。やはり温泉場として高名だったゆえであろうし、駅も実際に湯治客で賑わったには違いない。
当然に要員が詰め、構内には機関車駐泊所も併置された運行の拠点であったが、時代の下った1983年のCTC制御施行にて要員の引揚げられ、待合室に残存したキオスク売店が乗車券類販売を受託していた。それも1991年には撤退して寂れるばかりの中での温泉駅改名は、地域プロモウションに加担させられているだけのことで、古い鉄道屋にはあまり愉快に思えぬ。

この1971年当時、陸羽東線には3本の重連牽引列車が存在した。新庄を朝に出て小牛田まで通した1790列車、昼過ぎに川渡から堺田へと峠を上った前補機の1793列車、そしてその補機の川渡からの帰区回送の行われた旅客の724列車である。回送とは云え、小牛田へと続く下り勾配にぶら下がるばかりの後機ではなく、本務機前位への連結ゆえ停車場からの進出や第一荒雄川橋梁への築堤等では力行もしてくれたので、これを目当てに午後には山を下りるのが定番の行程だった。
写真は11月の低い西日に川渡を出て往く724列車。画面構成の拙さはご容赦いただく他ない。

[Data] NikonF PhotomicFTN+P-AutoNikkor5cm/F2 1/250@f2.8 NON filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

米沢機関区 (米坂線) 1971

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米沢機関区の庫での時間は記憶に鮮やかだ。足早にスナップして歩く程度のカットしか撮れないことの多い機関区詣の中で、1968年10月改正以降に残った米坂線と長井線の支線区運用には深夜の出入区の無くなっていたここでは、その時間帯を選べば庫内でじっくりと機関車と向き合えた上、米沢の待合室で駅寝の身には頗る好都合でもあった。

駅前から凍り付いた雪道に足を取られながら南側の踏切へと迂回すれば10分程で機関区の正門に到達し、当直の保火番が詰める事務室で許可を請う。備え付けの帳面に住所氏名を記入しての口頭での注意事項は、夜間ゆえに庫外での撮影禁止であった。
この頃、同じような体験をなされた向きも多かろうとは思うが、あの情景を何と表現すれば良いのだろうか。巨大な生物の眠る住処に迷い込んだとでも云うのは、些か物語に過ぎる気もする。けれど、うす暗い庫の中では何杯もの缶罐がまさに寝息を立てていたのである。深とした静けさに耳を澄ませば、まるで薬缶のように沸々と湯の上がる音に、どこからとも知れぬ蒸気の吐息、そして缶圧の変化にボイラの軋みが聴こえ来るのである。それはそれで賑やかとして良いかも知れない。庫内は保火の石炭の匂いと水蒸気に満ちて、ほの灯りはまるでステージ照明のごとくに機関車を浮かび上がらせてくれるのだった。
この光景を眼前にしては、短いバルブの間、カメラはレリーズの先の三脚の上と云うのに思わずに息を止めていたのを思い出す。

9634の経歴についてはWeb上にも記述の多いので繰返さない。この頃には蒸気機関車の物理的命数と云われた車齢60年に至らんとしていたけれど、調子の良い個体だったのか峠では本当に良く出逢った。かつて装備していた集煙装置に化粧煙突を切り詰められるなど、決してプロポウションの良い機関車では無かったにかかわらず、当時に通例だった若番機人気から1972年3月14日を以ての無煙化に際して、惜別記念列車となった125列車を79606と重連で坂町までを牽き、米沢へは130列車を59634との牽引にて帰区して、翌日には火を落としたと聞いた。この時、小国で見送った130列車は 小国 (米坂線) 1972 に書いている。
9600形式のテンダは新製時の差異やその後の改造、振替などにより多様な形状の混在しているのは周知の通りである。9634は石炭増量の改造を受けたものと思われ、本来の古風な二段型形状は失われていた。これも同機のプロポウションを崩す一因だったろう。
後面に付された[450立方呎]のプレイトは1910年代、鐵道院の時代からの炭水車容量表示であり、9600のそれは6-13型であった。

[Data] NikonF PhotomicFTN+P-AutoNikkor5cm/F2 Bulb@f8 NON filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

今川信号場-越後寒川 (羽越本線) 1971 

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札幌からの帰省旅行途上の立寄りを別にすれば、羽越線を撮ったのは1971年の秋から冬の終わりまでの半年程に過ぎなかった。72年8月の電気運転に同年春にはほぼ全線に電化柱の建植されてしまったからである。
晩秋から初冬にかけての日本海岸と言えば時雨の日々であり、訪れる度にそれに出会うことになっていた。大陸の寒気が北西風に日本海へと押し出されて雨雲へと発達するのだから、冬の走りに違いない。海上遥か彼方から見る間に乱層雲の押し寄せ、冷たい飛沫と共に足早に去って往く。それが波状に幾度も繰返されるのである。それは遍く地表を濡らし、雲間の薄日に鉛色の海から連続する鈍色に光る景観を出現させた。そして、機関車の一条の白煙を引いて走り往けば、まさに情感の光景として良く、この季節ならではのそれには強く惹かれたのだった。

時雨とは、古来には文字通りに秋冬の一時的降水を指して、何も日本海岸に限った言葉では無い。山間の盆地は勿論のこと太平洋岸でも同じような天候の現れれば、それを時雨と呼んだ。現代の気象用語でも、降雪も含んで単に晴れや曇りの合間の断続的な降水の状態を指して地域を特定していない。もっとも、伝習的に雷雨や夕立を時雨と呼ぶ地域も在るらしい。
晩秋の枯れ野が雨に煙る、この列島に特徴的な気候は日本の原風景のひとつに違いなく、侘び寂び、もののあはれの感情原点のひとつにも数えられよう。日本人は古からこの情景を好んだのである。そう云えば、俳人松尾芭蕉の命日は時雨忌と呼ばれる。

今川信号場から北へ、宝来山トンネルの前後から脇川橋梁への区間は電化柱の建植が遅かった上に脇川集落方向の俯瞰も海岸の岩礁を伝っての位置も確保出来たので、今川に降りれば大抵はこの区間に歩いたものだった。脇川トンネルから白煙を引いて9.1パーミルを降りて来た上り列車が、この区間で今川へ向けて力行に移るのも有り難かった。
写真は、第一宝来トンネルを抜けた582列車。
左の岩山が隧道名由来の蓬莱山だが、この山、国土地理院の地形図には標高88メートルと在る。この写真もそうだけれど、現地に立ってもせいぜい30メートルくらいにしか見えない。釣鐘状の形状に視角効果のマジックでもあるのだろうか。

[Data] NikomatFTN+P-AutoNikkor5cm/F2 1/125sec@f5.6 Y48 filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

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