70's/80's Monochrome Age and Years of Ektachrome film

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福島 (奥羽本線) 1968

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水戸駅から場外へ進出して往くそれに手を振る幼少時の姿がアルバムに残るけれど、C62の牽いた<はつかり>を知らない。対して、初の特急形気動車の<はつかり>は置替の頃より記憶に鮮明だ。それの1960年あたりが幼児と小児の境と云うことなのか、親父が、おそらくは懇意にしていた国鉄職員より手に入れてくれただろう部内向け(と思われた)パンフレットをすり切れる程に眺めた覚えがある。
当時に東海道線に登場した<こだま>は鉄道絵本から落とせない列車であり、子供にとってあこがれの特急列車であった。それに劣らぬ車体デザインの列車が郷里の水戸を通って北を目指すには多いに興味を刺激された訳である。その先頭車-キハ81の印象的な形態には惹き付けられ、翌1961年に至って札幌にも気動車特急が達した際には、道内のそれがどうして湘南電車(東海道線準急)のような先頭車なのか、子供心にも不満を抱く程であった。
後年には、親にせがんで水戸への帰省に何度か乗車し、そこに滞在中には偕楽園近くの線路端に幾度も出掛けたものだった。
けれど、キハ81の<はつかり>運用は東北本線の全線電気運転までのことで、代替の583系電車の早期落成には10月のダイヤ改正を待たずに、1968年9月9日の下り、翌日の上りを以て最後となり、意外に短命だった8年程の期間は、幹線電化の進展した時代の気動車の宿命と云うべきだろうか。
結果的に1961年度からの通称-2次特急形とは設計思想が異なってしまい、謂わばキハ80系特急形気動車の量産先行車的存在と化していた<はつかり>運用車の転用に際しては、キロ80やキサシ80などには形式間改造を要した他、キハ81は分割併合の無い単独運用に限られ、それには尾久客車区配置のままで1965年10月改正から2往復運転となっていた秋田特急<つばさ>1往復のキハ82からの置替が選ばれたのだった。
80系当時の<つばさ>は福米間の自力走行では特急としての運転時分が確保出来ず、この間を電機に牽かれていたため(1968年10月改正までEF64、以降にはEF71)、自連強度から組成が7両に制限されて、その姿は10両の<はつかり>からは些かの格落ち感は否めなかった。

冬の日差しの西に傾く中、福島駅3番ホームに到着したのは 3D<つばさ2号>。それをどうしても見たくて、札幌からの帰省の際に寄り道した際のカットである。
ホーム上に交替の運転士が待つ。ここから米沢まで無動力とは云え、機関に補機類は回っているので運転士の乗務は要する。
格落ち感を強めていたのは、機関車連結のために常時外されてしまった自連カヴァである。それはキハ81のプロポウションを大きく損なったとして良い。翌年の秋田機関区での<いなほ>転用時に再設置されるものと信じていたのだが、和歌山機関区に転じての<くろしお>運用は勿論のこと、二度とそれを見ることはなかった。
今でも、尾久車両センターの開かずの倉庫奥深くに仕舞い込まれているような気もするのだが、キハ81 3の京都鉄道博物館での展示再開の際には新製してても復活してほしい装備である。

[Data] NikomatFTN+AutoNikkor5cm/F2 1/125sec@f8 Y48filter NeopanSS Edit by PhotoshopLR5on Mac.

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間島 (羽越本線) 1968

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1960年代の半ば、小樽築港機関区には18両のC57が集結して小樽-旭川間を中心に仕業が組まれていた。多くがボイラー上部に重油タンクを載せた重油併燃の厳めしい姿で、それが狩勝を越えて長駆釧路まで、千歳線/室蘭本線を経由して函館までの運転に備えたものだとは、機関区の職員に教えられて子供ながらにも承知していた。
線路端に立てば必ずやって来る機関車だから珍しくもなかったけれど、配備されたばかりの軽量客車による寝台車にそれに粧いを合わせた食堂車を含む<まりも>の長い編成を従えての姿は別格で、これは札幌以東でしか見られなかったので、日曜の朝早くに苗穂あたりまで出掛けたものだった。
それは堂々足る急客機だったのだけれども、同じ頃「鉄道ファン」誌のグラビアと記事に北陸線親不知の荒波を往く姿も見つけて、それには魅せられたのだった。単線の通票閉塞に信号場で優等列車から貨物列車までを捌く潮騒の亜幹線にも強く惹き付けられ、以来にC57と云えば、当時裏縦貫と呼ばれた北陸・信越・羽越線の細い鉄路を往く亜幹線急客機との印象を強くしていた。
しかしながら、札幌の地から親不知は余りに遠く、夏休みの帰省の往路に立ち寄った花輪線に続いて、その帰路に親父にせいぜいとせがんだのが羽越線であった。

この68年当時、C57は新津機関区に12両、酒田機関区にも5両の配置が在り、残念なことに優等列車は<日本海>も<羽黒>も秋田区のDF50に替わっていたけれど、やって来る旅客列車の大半を牽いていた。
羽越本線は当然に単線非電化の線路が続き、1961年度に連査閉塞の施行されたものの、自動信号化は1966年7月30日の酒田-羽後本荘間の完成を以て全線に及んだばかりだった。ようやくに幹線の面目を施したものの、全線の複線電化の完成した東北本線とは比べ物にならない亜幹線の姿には違いなかった。風雪にはほど遠い季節ではあったけれど、その海辺の細い線路には多いに満足したものだった。

新津から新発田を過ぎても水田の広がる内陸を走り続けた羽越線の列車は、村上の先で三面川橋梁を渡り、その河口の岩ヶ崎を旋回してようやく車窓に日本海を見る。情報の乏しい当時に撮影適地としては今川信号場前後の笹川流れが知られるだけだったから、そのエメラルドの海面には思わず降りてしまったのである。
越後早川方に隧道を一つ越えた先には人気の無い白砂の海岸が続いていた。今は観光資源とされるこの光景も、砂利道の県道を走る自動車は疎らな頃である。
写真は835列車の秋田行き。C57に続く客車はオハ61ばかりだった。

[Data] NikomatFT+P-AutoNikkor5cm/F2 1/500sec@f5.6 Y48filter NeopanSS  Edit by CaptureOne5 on Mac.

龍ヶ森 (花輪線) 1968

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まだ札幌に住んでいた頃、1968年から70年まで毎年に写真の師である親父のお供で北東北へ遠征していた。行き先は羽越本線今川に奥羽本線矢立峠、それに花輪線は龍ヶ森であった。1968年の夏と云えば東北本線に大型蒸機も健在だったけれど、この年5月16日に発生した十勝沖地震の被災からの復旧にて遅延するかと思いきや、既に全区間で電車線路の架設を終わり、通電も近いと伝え聞いて諦めたものだった。
龍ヶ森へは1971年の無煙化間近に行われた三重連の復活運転に再訪しているが、この時がそれに接した最初の機会だった。
なにより、8620なる機関車は、当時の道内では札幌から離れた名寄に池田、そして釧路に少数が残るのみだったから実機を見るのも始めてである。苗穂にも居た9600と同時代の旅客用機との知識どおりに、それに比べてかなり細身の華奢な印象で、かつて東海道線で優等列車を牽いたとも知っていたから、このルーラル線区の急勾配を3台運転をしてまで貨物を牽く姿には一抹の侘しさを感じもしていた。
それでも、細いボイラに似合いのやや甲高いブラストが三重連ともなると、時に同期し時にバラけてそれを波のようなウネリのリズムに繰返しながら、ゆっくりと勾配を近づいて来る様にはすっかりと魅了されたのだった。それは岩手松尾を発車して間もなくから、この標高500メートル余りの峠まで途切れ途切れに届いていたと覚えている。
ここでの補機は、一方の解結駅の岩手松尾に転車台を設備しないため常に荒屋新町方を正位として運用されていた。したがって上り列車には逆向きとなって後機・後々機を定位とし、前機・前々機は下り列車に限られたのだが、補機連結順位は松尾での構内作業ダイヤにて決まり、多くは後機、後機・後々機、あるいは前機に後機の運転となって、この時期に三重連運転は昼過ぎに1本だけだったと記憶する。
蒸気機関車がブームと呼ばれ始めて、定番の位置であったこの腰の森隧道からのR302曲線区間は多くの撮影者を集めた。けれど、この1968年の夏休み期間中の一日に数えたのは5人に満たない。これは函館本線の上目名とて同様で後々の狂乱はまったく想像出来なかった。
付け加えさせていただけば、この当時に撮影に出て御同輩に出会うこと自体、あまりない体験でもあったのだ。

このBlogの表題の範疇を外れてしまうのだが、この68年からの内地撮影も今後に加えさせて頂く。
列車は前機と前々機の三重連運転の965列車。この頃に大場谷地峠で撮影可能な蒸機列車は昼間に6本があった。38688は荒屋新町区の配置で、ほぼ補機に専用された機関車である。

[Data] NikomatFT+P-AutoNikkor135mm/F2 1/250sec@f5.6 Y48filter NeopanSS  Edit by CaptureOne5 on Mac.

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