70's/80's Monochrome Age and Years of Ektachrome film

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木曽平沢 (中央本線) 1972

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この平沢にせよ、奈良井にせよ、中山道の最高所たる鳥居峠を直近に控えた木曾山中とは思えぬ開放感と覚えている。奈良井川の側刻により谷が拡げられ、そこに規模は知れているとは云え市街地の形成されていたからだろう。奈良井は木曾十一宿のひとつに数えられる宿場町以来であり、平沢は古くからの漆器の生産地としての集落であった。ともに中山道が主要交通路だった時代からの建造物を残した佇まいに、当時に電通が国鉄と組んで仕掛けた「Discover Japan」なる誘客キャンペーンにて女性層への意図的なプロモウションの行われ、シーズンには観光客に溢れていたものだった。
まだまだ青臭い年頃だったゆえ、この年の中央西線往きはそれをも目当ての、いい加減な覚悟だったとは以前の記事で白状した通りである。なにせ、アロハシャツにショートパンツ、足元はサンダル履きだったのだから。

奈良井、平沢に贄川を加えた奈良井川沿いの集落の所在した旧楢川村は地理的に特異な位置に在る。
鳥居峠は列島の脊梁山脈を越えており、つまりは大分水嶺の峠であった。奈良井川は松本盆地で犀川に合流して、やがてはフォッサマグナの谷を日本海へと注ぐに対して、峠の向こうは木曽川の谷であり伊勢湾へと流れ下る。けれど東側の山稜を越えて隣り合う谷を北流する横川は伊奈谷に至ると南へと流れを変え、そこへ西流して来た天竜川に合流するのである。したがって、楢川村の東山稜も大分水嶺であり、奈良井川はそれの狭間を流れて、水源の茶臼山で東西分水嶺が接する。列島を俯瞰すれば、ほぼ中央を貫く分水界を構成する稜線はこの位置のみ、楢川村村域を迂回して大きく太平洋側に突出しているのである。特異な地形として良かろう。
成因は近隣のフォッサマグナにかかわる激しい断層活動の結果とは想像に難く無いけれど、その分野には全くの門外漢である。

木曽平沢に降りて駅前の国道を奈良井方に歩けば、程なく第三奈良井川橋梁に達する。ここは、当時には母沢集落の川沿いからの遠景が定番と記憶するが、同じ画角を撮りたく無かったものか、そこに他の撮影者のいないのを良いことに、サンダル履きのままに大きな石の河原を橋梁下まで接近した。
これも良く覚えているのだが、天空高くからの太陽光が橋脚にくっきりしたマッスを描くのがとても気に入り、それの陰ってしまうと本命だったはずのD51重連貨物を捨てて引揚げてしまった。戻った駅でそれを見送れば後悔も頻りだったけれど、この頃から技術の拙いながらも対象の蒸機であっても、行為を「写真」と捉えていた意識の左証とも思えて、今になれば些かに誇らしい。
列車は、「本命」前にやって来た6802D<きそ3号>。季節臨とは云え、キハ58の2両だけとは思わなかった運転である。

[Data] NikonF PhotomicFTN+P-AutoNikkor5cm/F2 1/500sec@f8 Y52filter NeopanSSS Edit by LightroomCC on Mac.

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会津西方 (只見線) 1972

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三好達治に良く知られた二行詩がある。

  太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
  次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。

実を云えば、これには「死」のイメイジを抱いていた。
最初には何処で接したものかは覚えていない。国語の教科書か、学校図書館でたまたま手に取ったのだろうと思うけれど、それ以来の印象だ。
「太郎」「次郎」は無名の数多の人々であり、「眠らせ」は棺「屋根」は墓標の暗示と受取っていた。
ただし、寂滅の暗黒な死では無く、清冽な光溢れる黄泉の国のイメイジである。

この二行詩を知って間もない頃だったのか、会津地域を旅していて唐突にそれを思い出していた。撮影地点を探して歩き回れば、至る所に小さな野仏と観音像の菩薩様や道粗神の神々、それに地蔵様がこんもりと雪を被るのが見出せ、小さな集落とあれ寺院も所在して山里の人々の深い信仰を伺わせた。そして、その外れでは先祖代々の墓所がひっそりと雪に埋もれ、降雪の下であれ、陽光に眩しい中であれ、件の二行詩の深閑としたイメイジが具現されていたのである。深い雪にも参る人のいるのだろう、踏分を辿ってそこに立てば杉木立を背景に柔らかな積雪を纏った斜面に続く墓標は、確かに浄土に続くに違いないと思わせるに十分な景観を見せていた。
近親者を順番に「眠らせ」、雪の墓標の下に送ることは、山里で代々の続くことへの感謝でもあろう。雪は祈りをもって降り積むのである。

会津西方近く、第二只見川橋梁を渡って往くのは8460列車。臨時貨物だったけれど、この頃には毎日運転されていたと思う。
会津西方は1941年10月28日に当時の大沼郡西方村に置かれての駅名であったが、西方を名乗る中心集落を下った名入に所在した。戦前期までは対岸の宮下村川井集落との間に小舟の「渡し」が開かれ、川岸まで急坂を降りたところが舟場と呼ばれて船頭小屋が在ったと云う集落である。第二只見川橋梁は只見川に架けられた最初の橋であったから、徒歩での集落間の往き来にも利用され鉄道もそれを黙認したものと思う。
撮影の合間に小さな名入集落を歩けば、ここにも隆昌寺なる寺に観音堂も認め、道端には野仏の姿があった。

[Data] NikonF PhotomicFTN+P-AutoNikkor5cm/F2 1/250sec@f8 Y48filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

落合川 (中央本線) 1972

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何かしらの鉄道年表を開くと1960年代には「◯◯-◯◯間複線化」なる記載の続くのを見て取れる。それは、戦後復興からの急速な経済成長にともなう逼迫した輸送需要に対して、国鉄が1961年度を初年度とした「第二次五か年計画」、1965年度からの「第三次長期計画」により、全国の幹線線増を進めた時代の成果であった。苦しい予算事情からは必要最小限の投資ではあったけれど、今に年表を眺めれば、陸上の基幹輸送機関としての国鉄の躍動の感じられる記述ではある。輸送力増強を背景には新しい列車や興味ある運転がダイヤ改正の度に示され、鉄道趣味者としても最も楽しい時代だったに相違ない。

中央本線も1960年度末時点で、1913年度末までに使用を開始していた東京-高尾間の国電区間を除けば、全線に信号場の増設で急場を凌ぐ単線が続き、「第二次五か年計画」にてその343.8キロ中182.6キロの線増が計画された。西線と呼ばれた塩尻以西区間では、都市近郊区間となる名古屋口より着工され、1962年9月21日の千種-大曽根間を最初の区間として1963年度末までに計画の名古屋-高蔵寺間が複線運転となっていた。以後は「第三次長期計画」に引継がれ、電気運転化と同時の中津川までの延伸と以遠での隘路区間に着手されたのだった。
落合川から坂下への6K150Mは、木曽川沿いから外洞川の谷の狭隘な地形を通過していた既設線に対して、新瀬戸山トンネル(l=1110M)と第一高峰山トンネル(l=1138M)を掘削し、第二高峰山トンネルで既設線の梅ケ沢トンネルと併行する別線線増とされ、1968年9月25日にこれを上り線(下り列車運転線)とする複線使用を開始した。
この際に木曽川に既設線の第一木曽川橋梁下流側に架橋された新第一木曽川橋梁(l=143M)は、そのクーパー/シュナイダー設計になる1907年アメリカンブリッヂ製下路式ペチット型ピントラス橋と同径間(93.3メートル)の下路式単純トラス橋が採用され、既設線側が架け替えられる1972年まで新旧の同サイズのトラスの並びが見られた。同径間の採用は、橋梁長がほぼ同じに加えて、流路確保から下流側の橋脚径間を狭くする訳には往かぬが広く取っても意味は無いゆえと思われる。

これにて、上り線の新瀬戸山トンネル出口抗口上部横から新第一木曽川橋梁を見下ろす、西線区間で定番となった立ち位置が出現していた。40年も前ゆえ記憶は定かでないが、線増工事関連のヤード跡地だったと思われ、多くの鉄道屋を集めたものだった。
新第一木曽川橋梁を渡るのは873列車。ドレインは写真機の放列を見つけた機関士のサーヴィスである。
このカットは、さらに背後の斜面を上った位置からと思う。
ここへは以来に立ってはいないのだが、電化後も誌上などに見かけた撮影は1980年頃を境に消えてしまう。おそらくは立入りの不能となったものだろう。最新の衛星写真に見れば、どうにも民家の敷地となっている様子である。

[Data] NikomatFTN+P-AutoNikkor135mm/F2.8 1/250sec@f4 NONfilter SakuraColor100 Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

小波渡 (羽越本線) 1972

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小波渡は1944年10月1日付にて信号場として開設されている。その設置時期から知れるとおり、アジア太平洋戦争の戦況悪化により発動された「非常陸運体制」における北海道炭の京浜地区への年間300万トン輸送遂行に際して緊急に設けられた輸送力増強施設のひとつである。その背景については WebSiteの記事にまとめているので、御参照いただきたい。

石炭を満載したトキ900を連ねた1200t輸送列車は、青函を航送されると定数制限に分割を要し、東北/常磐線のほか奥羽/羽越/信越/上越線経由の日本海回りでも運転され、これら線区の線路容量確保に多くの信号場が設置されたのである。その数は、東北/常磐線で21箇所、日本海経路線上で25箇所にも及んだ。(具体的箇所は追記に掲げた)
迂回経路にて輸送距離も輸送時間も長くなる日本海回りも採用されたのは、東北線系統の容量もあるけれど、そればかりでは無い。その経路が青森から栃木に至る県境越え区間毎に補機を要したのに対して、日本海線では矢立峠に上越国境区間程度であり、しかも後者の核心区間は電気運転が実現していた。よって、石炭の消費量が少なく、動力費上に優位だったのである。主要経路はこちらだったとして良い。同じ理由で、東北線を南下した列車も大半は仙台以南を補機のいらない常磐線経由としていた。

五十川-三瀬間の7.5キロへの信号場設置には、線形から小波渡集落の後背斜面中腹を切取りで通過していた地点以外には考えられず、前後の分割区間での線路容量に偏りの生じてしまうが、集落住民には朗報であったろう。おそらくは設置当初より便宜的客扱いの行われたものと思う。日本国有鉄道の発足して間もない1950年2月1日付にて駅に昇格とされたのだった。
写真は、小波渡を出発して往く838列車、新津行き。
たまたまホーム上で見送った貨物列車の緩い曲線のカントに傾きながらの姿に見とれてしまい、次の旅客列車を待って撮影したカットである。
この曲線のホームは1972年の電化後もその姿を留めていたが(写真に電化柱も写り込んでいる)、1977年10月18日の五十川方の複線別線への切替、翌1978年9月26日の三瀬方での上り線別線線増により、下り線となった既設線部分を除いて直線に改修されてしまい失われた。下りホームに建てられた本屋は信号場以来と思われる簡素な造りだったと記憶する。
小波渡漁港に突き出ていた防波堤の先から振り返れば、集落の一番高いところに赤いトタン屋根のそれが目立っていた。

[Data] NikonF PhotomicFTN+P-AutoNikkor135mm/F2.8 1/125sec@f5.6 Y48filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

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鯵ヶ沢 (五能線) 1972

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いずれ、道内版のほうでも記事にしようと思っているのだが、国内最大の淡水魚イトウのことである。
実は、北海道の栗山町と云うところで、これの体長が2メートルに及ぼうかと云う魚体の拓を見たことがあり、まさに巨大魚として良いその大きさに圧倒されたのだった。調べてみればイトウの生育は遅く1メートルの成長に10年ないしそれ以上、2メートルともなれば20年超を要すると知れた。

かつてには、渡島半島南部と日高地方、道北日本海岸の一部を除く北海道全域の各水系と、青森県の高瀬川、大畑川、岩手県の閉伊川にも棲息が確認され、その分布域は湿原と海跡湖の存在域と重なっていた。イトウ属で唯一降海性を持つイトウの生活史は未だ解明されぬ点の多いものの、流れの緩やかな湿原河川の上流から下流の海跡湖や河口の汽水域ないし塩水の沿岸までを回遊し、水温の上がる春期に産卵のため支流の上流域へを遡上すると考えられている。あくまで緩い流れを好み、サケのごとくに急流を上流へと上ることは無い。青森県なら小川原湖あたりを2メートル級も含めて泳ぎ回っていたのであろう。
戦後に進められた湿原の農地や宅地への転換、それにともなう平坦地を蛇行する河川の排水路化、即ちは直線水路への改修は、河畔林の失われた農地からの土砂流入と相俟って産卵床に選択される淵から瀬への川相の変化地点、渕尻とか瀬頭と呼ばれる位置の小石礫の水底を奪う結果となり、1960年代から個体数を減じ、特に1980年代に至って激減したのであった。開発の手の及び易い平坦地河川を生活域としたことが仇となった訳である。青森・岩手の河川では1960年代を最後に捕獲の記録は無い。

サケと異なり寿命の長く生涯に幾度も産卵を繰返す(多回産卵)これの、人工採卵と孵化には北海道立水産試験場が早い時期に成功し、釧路川水系への種苗放流を試みているのが、周辺開発の進んだ河川環境から生存率の悪く、雄で4から6年、雌では6から8年と云う遅い成熟期間にも阻まれて、放流個体による自然増殖の成果を上げるに至っていない。降海型ではあるが生活河川の沿岸を離れることなく、近年の研究では産卵支流単位での母川回帰性も確認されたたことから、水系毎に独自の遺伝特性を持つ個体集団を形成していると考えられており、他水系からの移植放流の回避には稚魚放流数にも限界がある。

しかしながら、稚魚からの人工飼養は比較的容易であるものか、食用としての養殖が数カ所で行われており、青森県の「鯵ヶ沢町イトウ養殖場」もそのひとつである。赤石川を遡った白神山地の谷に設けられたこの養殖場は、鰺ヶ沢町が1980年に地域活性化事業として、ロシヤ沿海州河川からの個体移植により養殖を開始した施設である。
これを知ったのは1990年代のことなのだが、既に絶滅の危惧されていたそれを食えると聞けば魚好きとしては座視出来ず、秋田県の大館に所用の際に足を伸ばしたのだった。町内の料理店に予約をいれておいたイトウ料理のコースは、それはそれは美味かったのではあるが、好みからは過剰とも思えた脂乗りは如何にも養殖魚然としていて、おそらく塘路の古老から聞いていた釧路川のそれとは随分違うだろうと感じた。

鯵ヶ沢鳴戸の海岸を往くのは1792列車。五能線では珍しかった(客車の連ならない)、鯵ヶ沢までの貨物列車である。
市街地を僅かばかり離れた何も無い海岸だったのだが、今は「七里長浜」とか呼ばれて、多分画角手前の位置になると思うが国道沿いにはコンヴィニエンスストアまでが建つ。

[Data] NikonF PhotomicFTN+P-AutoNikkor5cm/F2 1/500sec@f4 Y48filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

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