70's/80's Monochrome Age and Years of Ektachrome film

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西町 (富山地方鉄道・富山市内軌道線本線) 1985

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酒呑みなので、当然のように肉よりは遥かに魚好きである。水族館などに往けば、美味そうな魚の乱舞に水槽にかぶりつく邪道な観覧者と化し、充実した酒呑み生活は、近所に昔ながらの良い鮮魚店を得られるかに掛っていると思いさえしている。
旅の途上で漁港に出会えば、その佇まいは気になるし、近くに鮮魚の店先のあろうものなら持ち帰りの出来やしないのに冷やかぬわけには往かない。

天然の生簀とも称される富山湾は、沿岸に「満寿泉」や「名誉北洋」「曙」「千代鶴」と云った漁師酒の蔵も並んで、酒呑みには垂涎として良い。
高山線通いの日々では、せっかくなので機会のつくれれば富山に宿を取った。それは例によって駅前なのだけれど、そこは夜には少しばかり寂しいところゆえ、市内電車で、或は散歩がてらの歩きで繁華街の西町や総曲輪のあたりに出掛けていた。勿論、目当ては酒に肴である。
魚は新鮮であるに越したことは無いとは云え、ある程度の熟成も必要と承知するので活け造りはあまり好まないのだが、その日は通りから大きな生簀の見える店に泳ぐカワハギを見つけてしまい、刺身も然り乍ら旬の肝に釣られて暖簾をくぐったのである。富山湾に限らず全国区の魚ではあるけれど、海底谷の発達して急激に深海に至るそこでカワハギは些か珍しいし、小振りながら一匹丸ごとの活け造りに呑めば贅沢に違いない。
肝をそのまま皿にもらって醤油をぶっかけただけの濃厚な味わいには多いに満足した上に、驚いたのは刺身の方だった。箸に摘んで醤油を付けたそれはピクピクと動いたのである。頭と骨にされた魚体の尾びれの動くのは常だけれども、これの活きの良過ぎには感心しきりと書いておく。

「◯◯本線」なる線路名称は馴染み深いが、単に「本線」だけの付名も全国に12例が存在する。富山地方鉄道は、それを鉄道線と軌道線の双方に持つ事業者である。立山軽便鉄道に始まり複数社の合併にて成立の電鉄富山-宇奈月温泉間がどの時点から本線とされたかは調べていないが、この富山市内軌道線では富山電気鉄道による1913年9月1日の開業以来に南富山駅前-富山駅前を本線と呼んだ。現在では少数例となっているが、当時に途中分岐の線路があれば、本線、支線と区分され、それを正式線名とするのは当時に通例であった。支線が増えればそれぞれに線名を付す必要の生じて、その際の改名事例も多い中で、ここはそのままに生き残った希有な例と云えよう。
なお、開業時の起点は共進会場前(現堀川小泉)であり、南富山駅前(当時に堀川新駅前)への延伸は1915年3月13日である。また桜橋から富山駅前への経路も異なっていた。

写真は、本線西町停留所に停まる富山駅前行きのデ7000形7015。師走にしては些か長閑な日曜昼下がりの西町交差点である。電停位置は現在と異なり、交差点南側に在った。
1960年、日本車輌製のこのクルマは撮影時でも車齢25年、幸運なことに同年月以上を重ねた現在にも冷房化までされて稼働している。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/250@f5.6 Fuji SC48 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

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青森 (奥羽本線) 1985

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日本海縦貫線を上下した特急<日本海>は首都圏から北へ向かう身には無縁の存在だった。けれど、それには1968年10月改正での設定から強く惹きつけられたものだった。当時に電気運転は糸魚川までしか及ばす、以北の行路は信越線の宮内から新津を除き、自動信号はもとより連査閉塞すら施行されて間もない単線に信号場の細道だったのである。<日本海>は当時に寝台特急最短編成の9両で途中4回の機関車交換を繰り返しながら走り、糸魚川以北は東新潟と秋田に配置された新鋭機、DD51が牽いていた。

これにようやくの初乗車を果たすのは、米原を通らなくなり、早岐客貨車区の14系が関西-九州間列車と共通運用されていた頃の1977年と記録にある。東北地域の蒸機の一掃され道内との行き来の途上に下車することもなくなって、北海道周遊券には都区内から山科(京都)経由宮内行きと云う大回りの片道乗車券を付加せねばならなかったけれど、思い切って散財したのである。その替わりに新幹線との京都乗継ぎに<日本海>の特急料金は半額に割り引かれた。
世の大勢に既に食堂車の組成も無く全区間が架線の下ではあったが、その16時間あまりには多いに満足したものだった。これに味を占めて、1980年代に架けて度々この経路を渡道に利用していた。新幹線移動の東京口での時間の関係から4003・4002列車の利用が大半で、青森・函館とも昼の12時台出航の連絡船接続は札幌より先が道内夜行となって効率も良かったのである。但し、それは釧路にせよ稚内・網走にせよ、二夜行37時間あまりを要する旅では在った。
青森始発が永いこと16時25分だった4002列車ならば、大館から東能代まで乗り込む花善の販売員を首尾よく捕まえて「鶏めし」を夕食とし、朝食用には秋田での機関車交換中に仕入れたものだったが、これも夜半には食べてしまっていたと記憶する。その運行距離に区間利用の旅客も多く、秋田や酒田は勿論、0時近い新津でも乗車客のあり、驚かされたのは、そこでの下車客も多々見かけたことであった。確かに青森で午後に及ぶ用務を済ませてからでは寝台券を要するこの列車しか無い。まだ深夜である富山に金沢での下車も散見されて、多様に利用されていたのを伺わせた。

写真は西に傾いた斜光を受けて発車を待つ4002列車<日本海2号>。
1971年10月の奥羽北線電気運転にともない、この機関車に置替られてまもなくに掲出の無くなってしまったトレインマークは、以来10余年を経た1985年3月改正で復活した。復活後最初の対面となったこの時には、かつてDD51に見たそれを懐かしく眺めたものだった。通りがかった職員に声をかけて線路に下ろしてもらう。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/250@f8 Fuji SC52 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCC on Mac.

富山駅前 (富山地方鉄道・富山市内軌道線) 1985

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電気車両は苦手で、路面電車にとりわけ詳しい訳ではない。なので、それを目的に旅に出たこともない。けれど、行く先やその近隣に路面電車が走っていればスケジュールを振っていた。それを撮るのが好きだったのだ。
道内版のほうにも書いたことがあるが、路面電車の撮影は列車ダイヤに規定されることが無い。いつもの人里離れたようなロケーションと異なり、軽量化した機材で店を冷やかしたり喫茶店で一休みしながら街中を歩き回り、気に入ったポイントを見つけたら、長くても10分も待てば被写体がやって来る。撮影チャンスが多いから光線が気に入らぬなら光が回るまで待てば良い。気楽に散歩気分で撮れるところが、緊迫感を強いられるいつもの撮影の息抜きになったのだった。
高山本線への旅では、その南側で名鉄美濃町線を、北端ではこの富山地鉄市内線を一体に撮っていた。

この頃は、70年代の東部線(一部)と西部線の廃止にて環状運転を失っていたこの軌道線が、西町から不二越駅前までの東部線(の残り)と山室線も廃止して、南富山駅前-大学前間6.4キロの単一経路にまで縮小された時期である。それでも、ふたつの運転系統は、ほぼ全日に渡り8分ヘッドでの運行とされ、全線運転の系統と富山駅前折返しの系統が重なる同停留所から南富山駅前の区間では4分毎の運行にて都市内の基幹交通として十分に機能しており、山室線廃止前のデータではあるが、1982年度の一日あたりの輸送量は23800人であった。(日本の路面電車ハンドブック1984年版による)
その後に輸送量は市街地人口の減少と軌を一にして漸減傾向にあったようだが、この運行頻度は維持されて、1997年3月には、県庁前に渡り線を新設して富山駅前折返しの系統をここまで0.6キロを延長する改善も行われた。

2000年代以降の、社会構造の変化にともなう都市の衰退に危機感を抱いた富山市当局の政策の大転換による、この軌道線の新線開業を含む再生についてはWeb上にも論考が多数発表され、ここに繰返さない。ひとつだけ付言させていただけば、それは、そこの軌条の存在が、経路が目に見えると云う鉄道が民心に与える「安堵感」が再評価された結果と思える。街に電車が、列車が走れば「安定感」も生まれるものである。新幹線駅の南北駅前広場の中央を、敢えて線路を通過させる将来計画も、それを考慮したものだろう。
同様の都市問題を抱えながらの、堺市や宇都宮市、まして撤去を執拗に求める福井市の沿線商店主や住民の対応は理解に苦しむ。

西町・総曲輪の商業地区から駅前を経ての官庁・業務地域、古い街並を抜けての富山大橋と変化も楽しい路線ではあったものの、車両は全て単一形式で面白みには欠けた。
乗っているのも、行き違うのもデ7000形。ただし、この前年には路面電車には稀少例だった冷房搭載車が出現していた。

[Data] NikonF3P+AiNikkor50mm/F1.8S 1/125sec@f8 Fuji SC48 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

白川口 (高山本線) 1985

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上麻生や白川口あたりは岐阜から1時間ばかりで到達出来たから、高山線で数日を過ごすスケジュールの初日には良く降りていた。白川口は飛騨川を上流側に辿る第一飛騨川橋梁への下車駅でもある。

白川町の小さな中心市街地は駅から吊り橋を渡った対岸となり、そこには白川温泉が在った。源泉は冷泉で加熱を要するのだが、かつては名古屋方面から下呂より近いこともあって戦前期より60年代まで賑わったと聞いた。この頃でも5・6軒の旅館が川沿いに並んでいたものの、温泉街入口の歓迎アーチも色褪せて寂れた印象ではあった。それでも温泉好きとしては一軒に泊まりもしていて、それは項を改めたいと思う。
駅前にもかつては土産物店が並んだであろう名残が見えて、食堂に入れば店奥は飛騨川を展望するように造りなのだった。

上麻生からの飛騨川は飛水峡と呼ばれる峡谷を刻むが、それも中部電力の上麻生ダムまでで、ここから白川口までの高山本線は堰止められた湖岸を往くことになった。湖水から立ち昇るような水蒸気に包まれれば幽玄の趣でもあろうが、そうでなければ、ポイントはこの水資源開発公団による木曽川用水の取水施設くらいのものだった。
濃尾平野一円への灌漑を目的とした木曽川用水は、飛騨金山で飛騨川(益田川)に注ぐ馬瀬川に設置した岩屋ダムを水源としながら、既存の上麻生ダムを貯水池に利用して取水口をここに設けた。その間の導水路を省略した合理的設計と云うのだろうか。
施錠されている対岸取水施設への吊り橋通路からの撮影を希望して、水資源開発公団の中部支社に立入りを請うたことが在るのだが、丁重に断られてしまった。

対岸を往く列車は、1038D<ひだ8号>。日没も近く露出は苦しい。
このようなルーラル線区に在っても、キハ80系列の編成は優美と感ずる瞬間だった。

[Data] NikonF3P+AiNikkor50mm/F1.8S 1/125sec@f2 Non filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

北鉄金沢 (北陸鉄道・浅野川線) 1985

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コンサートツアーに出たバンドを地方に追いかける取材などで、何故か指定されることの多かったのが金沢公演だった。アーティスト側の要請もあったろうが、大抵は同行する編集者が決めていたから出張ついでの土地の食べ物に惹かれての彼らのリクエストに違いないと、毎度ご相伴に預かりながら思ったものだった。お陰さまで、香林坊や片町界隈の呑み屋には随分詳しくなった。
金沢駅へ降りる度に鉄道屋として気になっていたのは駅前広場の片隅から出ていた浅野川線で、その行き先の内灘も、東京都下の砂川闘争に並ぶ戦後の町ぐるみの反戦運動の地としてテキストには必ず登場して記憶にあった。

高山線からの帰り道に前日を金沢泊まりにしてロケハンに乗った浅野川線は、金沢の都市近郊路線ながら市街地とは反対側に伸びていて、2キロほど先の磯部を過ぎれば田圃の中を淡々と走り、小さな集落毎の駅に停まっては20分足らずで終点内灘に着いてしまった。この間のポイントと云えば内灘手前の大野川に架けられた橋梁程度で、500メートルから1キロ程度の間隔で置かれた駅も特徴に乏しく些か拍子抜けした覚えが在る。
ただ、七ツ屋に在った車庫で眺めた車両は、戦後の全金属製車体の新製車が大半なのだけれど、かつて石川平野に数多くの路線を持っていた北陸鉄道の廃止線から集められただけに、同一事業者内の統一感もありながら1両とて同形態の存在せず、飽くことのなかった。しかも、後に調べてみればここへの入線に際して台車を履き替えたり、廃車発生品の制御機器を搭載したりの改造も多かったようだ。

写真は、北鉄金沢を発車して往く内灘行き急行列車。モハ3300型の3301で、元はと云えば1958年に軌道線の金石線へ新製投入された車両であった。これもここでは1形式1両である。
結局のところ、この線区で最も興味惹かれたのは、この金沢側のターミナル駅だった。木造モルタル(と思える)駅舎がひっそりと建ち、その狭い構内と乗降場の置かれた路地裏か民家の軒先のような有様は、とても国鉄大駅の目と鼻の先に存在するとは思えない、まるで過去への入口のような場所に思えた。
かつて乗降場の外れから分岐した国鉄への連絡線が存在し、この頃にはその路盤跡を辿ることが出来た。

[Data] NikonF3P+AiNikkor28mm/F2.8S 1/125sec@f5.6-8 Fuji SC48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

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