70's/80's Monochrome Age and Years of Ektachrome film

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小浜 (小浜線) 1984

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それ以前からのことだろうから、ご経験の向きも多いのではと思う。1980年代半ばに敦賀に撮影機材を持って降り立つと駅前交番に詰める官憲に職務質問を受けた。彼ら福井県警は待合室や時にはホームにも出張り、乗降客を常に監視していたのである。良く訓練されていて言葉遣いは慇懃に丁寧ながら「名前は、住所は」に始まる威圧型の職質であり、「何処へ往くのか」、夕方から夜間ならば「何処へ往って来た」と続いて、挙げ句には図々しくも「荷物を見せろ」とまで言い出す始末だった。どこへ往こうと何を持とうと官憲に申告することでは無いので拒否すれば、待ち合わせの後に乗車する小浜線のホームまでしつこくつきまとわれた。一度は延々と私服の尾行を受けたこともあるが、犯罪検知に情報収集など職質本来の趣旨では無く、恫喝目的の単なる嫌がらせ行為であった。
いったい誰が福井県警にそのような指令を発したものか、想像は十分についた。プルサーマル運転を予定した関西電力高浜原発の3号機、4号機が1985年度に稼働を予定し、大飯原発の2基に日本原電敦賀の1基も建設ないし調整の途上の時期である。地元住民の反対運動はとっくに押さえ込まれ、表立った市民運動も、また大手マスコミの報道も一応の終息は見せていたけれど、フリーランスのジャーナリストやカメラマンが頻繁に訪れており、いったい何の取材を恐れたものか、財界や資本、その意を受けた時の反動政権などの保守勢力はこれに神経を尖らせていたのである。フリーランスの雑誌記者などには嫌がらせで十分とは随分と見くびられたものとは思うが、日本の原発開発がそれすら排除を意図するような後ろめたさの隠微体質と共にあることの例証でもあった。付言すれば、この時期まで日本の雑誌ジャーナリズムもまた、真っ当に機能していたと知れる。

白状すれば、車窓からのおおまかなロケハンを済まし十村や勢浜のあたりに適地を見つけておきながら、小浜線をまともに撮ったことは無い。片道1本だけが撮影可能と云う機関車列車の効率の悪さに二の足を踏んでいたのである。この敦賀への下車や小浜線への乗換えは、実を云うと酒を買い込むためであった。
琵琶湖北岸から若狭湾沿岸はなかなかの酒造地帯であり、沿岸の漁師酒は勿論のこと湖北地域も鋭角なキレのある酒質には、遠く珠洲や鯵ヶ沢にも通じて好みと承知していたけれど、大半が小蔵とあっては地元に向かわねば出会えないのこともあり、福岡に仮住まいの当時、そこへの帰路に高山線を撮れば富山から大阪へ出る途上で寄り道し、蔵の在る美浜や三方、小浜に降りていたのである。特に美浜町の「早瀬浦」(三宅彦右衛門酒造)や「若狭菊」(若狭菊酒造)など、まもなくに全国の呑み助どもの間でも垂涎の酒となったものだった。

写真は小浜駅の本屋に接した1番ホームでのスナップ。この日に小浜市内に三箇所の蔵を回っての帰路と記憶する。
2番ホームに962Dの福知山行きを待たせて到着する列車は4959Dの敦賀行き。京都から西舞鶴への903D<丹後5号>の普通列車運転区間である。平日の夕刻近くなのだが、今に見れば乗車客の多さに驚く。
21世紀に至って加速した酒蔵の休醸・廃業は、当然のようにこの沿線にも及んで、この日訪れた「若狭井」(若狭井酒造)に「一乃谷」(浜小町酒造)、そして先の「若狭菊」が既に無い。Web上の報告によれば、それぞれとも跡地は更地となって放置されているらしく、特に浜小町酒造の蔵は珍しくも駅正面を占めていたから、その駅前には空疎な空間の残されていることだろう。
それにしても写真機材は担いでいたにせよ、両手に酒瓶をぶら下げた風体を職質とは福井県警も難儀なことであった。現場の士気は上がらなかったに違いない。

[Data] NikonF3P+Distagon 28mm/F2.8 with Adaptor 1/250sec@f4 Non filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

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琴塚 (名古屋鉄道・美濃町線) 1984

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私鉄路線に関わる資料をほとんど持っていないものだから、この名古屋鉄道美濃町線の野一色から日野橋を経て下芥見への区間が、1911年の美濃電気軌道による開通以来の新設軌道だったのか、後に県道92号線となる道路上への敷設(即ち併用軌道)が、それの拡幅等の事由にて独立の軌道敷にパーティションされたものかは調べ得なかった。
県道と路盤を共有しているに違いは無いゆえ併用軌道とも思えるのだが、北一色-野一色間には併用・新設軌道の境界標が建植されていて、ここは書類上は新設軌道なのだった。但し、軌道法では併用軌道以外の線路を新規敷設、既設の如何を問わずに「新設軌道」と呼ぶ。

沿革はともあれ、専用の交通路を確保しながらも延々と道路と併行する例を他に知らず、美濃町線ならではの景観ではあった。1975年6月25日の田神線の新設により新岐阜発着が本線系統となって以来、徹明町からの系統は日野橋折返しともなっていたから、その意味でも岐阜市内線の延長のような区間でもあり、この当時には路面電車型低床車体のモ580や590型に札幌市交通局から転籍の連接車モ870型も日野橋以遠区間には運用されなかった。
独立の交通路とは云っても道路の一部には違いなく、民家の軒先に軌道の敷設され、それを掠めて電車の走り去る光景も独特の鉄道風景であり、この線区への何度かの訪問はそれに惹かれてのことである。前にも書いたけれど、それは廃線に間に合わなかった花巻電鉄線や福島交通軌道線の、その写真に見るばかりだった光景のささやかな追体験にもなっていた。

沿線に多数の宅地開発地に複数の大規模団地が立地するなどの沿線人口を抱え、かつ新岐阜への直通の利便性を保持していたゆえ、この日野橋付近に郊外ターミナルを設けての団地バス路線再編成などが考えられたはずだが、永年にわたる利用者の漸減を事由とした2004年度限りでの廃線は、同じ名鉄資本下にかかわらず基幹路線の県道92号線路線に固執する岐阜バスの企業エゴを背景に行政との取引に出た名鉄経営陣に対し、岐阜市当局が適切な交通ヴィジョンを示した上でのインフラ補助を含む指導力を発揮出来なかった結果であろう。
そこには、東海地区に特に顕著な自動車交通優先思想を思う。行政もさることながら、沿線住民は県道の渋滞に左右されず早く快適で定時性を保った交通機関を永久に失うのだが、その廃止提案に対する反対運動は実に盛り上がりを欠くものであった。

写真は、琴塚停留所に接近するモ870の徹明町行き。2000年に複電圧対応改造を受けるまでは徹明町-日野橋間系統に専用されていた。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/125sec@f5.6 Fuji SC48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

深浦 (五能線) 1984

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道内版にも何度か書いているけれど、近年に酒蔵の数は減り続けている。1940年頃には7千場余りを数えたそれは、アジア太平洋戦争戦時下の統制にて約半数まで減らし、戦後の1955年に4021場まで回復するものの、以降には減ずるばかりとなっている。偏に酒の消費量の低迷によるもので、60から70年代には合同や合併にて凌いだものだったが、80年代からこの方には廃業が続いて、国税庁による2009年度のデータでは1642場とある。これも酒造免許を有する酒造場を計上した数で、休醸蔵や醸造を他に委託した蔵元を含んでおり、実際の稼働蔵は1302場であった。

津島美知子は1978年に発表した『回想の太宰治』で、疎開先の甲府も空襲で追われ故郷金木へと向かう太宰一家の旅を振り返っている。甲府を出て2日後、上手くすれば当日中に五所川原に着けそうな奥羽線の車中で、乳飲み子も抱えて疲労も頂点に達した美知子を他所に太宰はその日の深浦泊まりを決めてしまう。それは、美味い酒を求めてのことと、美知子は書いている。
結局のところ時局柄それは果たせなかったのだが、前年に『津軽』の取材でここを訪れていた彼を再び誘った酒は、何と云う蔵元の酒だったのだろうか。生半可な知識では調べ得なかったけれど、そこの地酒に違いないだろう。
何れにしろ戦後には失われ、以後の深浦は蔵の無い街である。

酒造場の廃業の続く一方で、酒蔵を喪失した土地での地酒復活の動きがある。中には休醸中の蔵を復活するケースもあるのだが、多くは地元産の米、場合によっては水までも稼働中の蔵に持込んで醸造を委託し、それを地酒と称するものである。
これには、酒の造りは何処へでも移出/移入可能な原料米ばかりでなく、そこに湧く水に土地の気候に人の暮らしの風土の集大成と思っている酒呑みは、少しばかり困っている。
今、深浦では、その産米を白神山地の湧水で弘前市所在の六花酒造が仕込んだ「白神の詩」なる純米酒が売られている。呑んでみれば、それは酸度がやや高めに出る「じょっぱり」に代表される六花酒造の酒である。少なくとも海辺の磯ではなくて、酒呑みは困惑してしまうのだった。

ここでのポジションとなれば、やはりこの行合崎手前の岩礁海岸だろう。上を往く国道からは勿論、線路端でも、海岸まで降りても、岩礁によじ登っても撮ってみたけれど、まとめ難い手強いロケーションでもあった。
列車は1736D、東能代行き。

[Data] NikonF3P+AiNikkor50mm/F1.8S 1/250sec@f8 Fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

鵯島信号所 (富山地方鉄道・軌道線[呉羽線]) 1984

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道内版 姫川信号場 (函館本線) 1983 の続きである。

上記で述べた普通鉄道構造規則、そして2002年3月31日を以てそれに代えて施行の「鉄道に関する技術上の基準を定める省令」(2001年12月25日国土交通省令第151号)では「信号場」に統一されて消滅した「信号所」なのだが、道路への敷設を原則とする鉄道、即ち「軌道法」に準拠して開業した路線上に生き残っている。
この軌道法(1921年4月14日法律第76号)にも、軌道建設規程(1923年12月29日内務・鉄道両省令)にも「信号所」の文言は無い。けれど、軌道法施行規則(1923年12月20日内務・鉄道両省令)の第12条2項9号に「信号所ノ新設又ハ位置変更」と在って、鉄道線での「信号場」相当施設を軌道線では、「信号所」と称すると解される。
軌道法は、幾度かの改正を経ているものの、制定からまもなく100年を迎える今日も未だ現役の法規である。現行法規は2006年3月31日法律第19号による改正となっている。

さて、設備の現存となると、知り得る限りで名古屋鉄道豊川線の諏訪新道信号所に土佐電気鉄道伊野線に所在の市場前信号所と八代信号所の2施設である。普通の鉄道と何ら変わらない名鉄豊川線線だが、ここは軌道法に準拠する線区ゆえ「信号所」である。但し、名鉄部内ではこれを永く諏訪新道信号場と呼んでいる。全線が地方鉄道建設規程の準用条項の多い軌道法での「新設軌道」区間ゆえと推定する。

軌道法準拠線本来の路面上での「信号所」として存在したのが、2012年3月24日を以て廃止された、この富山地方鉄道軌道線の「鵯島(ひよどりじま)信号所」であった。同線に属する呉羽線安野屋-大学前間1.2キロが全線単線につき、中間に位置する新富山停留場の終点寄りに設置された交換設備だったが、富山大橋の架け替えにともない複線化がなされ消滅したものである。

写真は、鵯島信号所にて離合する大学前行と南富山駅前行の共にデハ7000形電車。
都電8000形をプロトタイプとした日本車輛での1957-1965年製の自社発注車で、この当時も現在でも主力車両である。
ここでは必ず交換が行われ、先着側が退避して通票らしきものをやり取りしていた。ここから大学前まではそれを携行しないと入れない運転法であったと思う。
信号機も転轍機のテコ操作も無く、それはスプリングポイントである。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/250sec@f5.6 Fuji SC48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

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