70's/80's Monochrome Age and Years of Ektachrome film

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陣場 (奥羽本線) 1977

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延長3180メートルの矢立トンネルで通過してしまうようになって、この峠越えでの撮影は陣場の手前、下り線の松原トンネル出口に接する第二下内川橋梁から続くR=600Mの曲線区間が定番位置なのはご承知のことと思う。
この下り新線は白沢-長峰間線増計画の最後の区間として1971年9月25日に開通している。奥羽北線の電気運転化に併せてのことだが、10月1日を以てのそれに辛うじて間に合わせたもので、白沢-陣場間での習熟運転期間は僅かに一週間だったことになる。その間には蒸機の仕業も残ったから、そこも牽引列車は走行したはずなのだが、第二下内川橋梁上のD51の写真など先輩諸兄の作品に見たことは無く、勿論自身も電化柱の並び架線の張られた矢立峠には近づかなかった。

連絡船を目指した奥羽線の車窓に国道から張出した畑作地を見つけ、電機目当てにそこに立つのは蒸機の消え去った1976年のことだった。裏手、国見山の風穴は当時の五万分の一地形図にも史跡・名勝・天然記念物の記号で長走風穴鉱山植物群落との表記はなされていたものの、現在のごとくに公園形態に整備されるで無く、細い草道が杉の斜面を上っていただけと覚えている。風穴館なる施設はごく最近の開設になり、当時には付近に民家らしきが2軒ほど並んでいた。
後年に定番位置と化すここで、それを知らねばモグリと云われそうなのが風穴ドライブインである。お陰で、この位置では食事に心配することが無い。主要国道の改良が全国に及んだ1960年代に走行距離の長大化した貨物自動車や遠出のドライヴ需要を当て込んで伸長したロードサイドビジネスのひとつがドライブインと呼ばれた供食スタイルであった。特にトラック運転手相手のそれなどは街中の大衆食堂が国道沿いに進出したに過ぎないのだが、1970年代に架けては飲食業の花形でもあった。1976年には存在した風穴ドライブインも改良の進んで新潟方面や秋田から青森へ、さらには八戸方面へと走ることになった長距離トラックの需要に加え、風穴へ観光客の取込みを目論んで1970年代初頭には開業していたものと思う。おそらくは、そのせいなのだろうが、当時からどの供食品目も他店での「大盛り」相当だったと記憶する。初代店舗の建物は現在にも敷地内に残り、まさに大衆食堂程度の規模である。正面に張出しての二階部分は後の増築だったはずで、店舗拡張に店内に在ったと思われる居住ないし休憩スペースを移設したものと思う。
隣接の新店舗は、広かった駐車スペイスを潰して建てられており、大館側や弘前側のバイパス沿いでの供食施設の充実や長距離ドライヴァ達の生活意識の変化に大型トラックの何台も駐車することも無くなっていたのであろう。一般客向けに「盛り」の良さを売りにする方向転換もこの頃からと思われ、近い将来の秋田自動車道の小坂ジャンクションへの接続を想定したそれは功を奏して、「大盛り」の店としてWeb上への投稿も多々見掛けることになっている。まずは盛業をお慶び申し上げたい。

風穴ドライブインの駐車場隅から続く下内川への細道を降りて往くと、下り新線建設関連で築堤上に付け替えられた上り線がその先に覗く。ED75 700番台は502列車<きたぐに>の牽引機である。

[Data] NikonF2A+AiNikkor105mm/F2.5S 1/125@f8 NON filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

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面白山信号場-山寺 (仙山線) 1977

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感光乳剤に用いられるハロゲン化銀は、本来に波長400nm以下の紫外線から500nmの青色光までにしか感光しない。これの感度域拡大の研究は19世紀後半のドイツにて進められ、1873年には乾板乳剤への有機染料色素の添加による緑・黄色光の増感性が発見され、これが1906年のピアシナール色素を用いたパンクロマチック乳剤の実現へと繋がるのである。
400nmから700nm付近までの可視光域全域に感度を広げ、人間の視感に程近い整色性を得たのは良いとしても、それの紫外線領域にも及ぶのはそのままに放っておかれた。フィルタでカットすれば済むゆえではあろうが、実はこれが厄介でもあった。
大気の澄んだ秋冬期と云えども、逆光側には短波長光の散乱によるヘイズを生ずる。写真は逆光で撮るものと心得ていた身は、これには難儀した。俯瞰での遠望など霞の彼方を覗き込むことになる。UVと呼ばれたフィルタでとても解消するでなく、富士フィルムの規格番号でSC37に始まるシャープカットフィルタを可視光域に入り込むSC42まで試しても効果は僅かで、コントラストフィルタのSC56あたりでも多少に改善される程度には、現像を硬調に持って往き、印画紙の選択などプリントで誤摩化すのが関の山だったからお手上げとも云えた。
紫外線域に感度を持つのはカラーリヴァーサルとて同様で、特に高彩度化の進んだ90年代のそれではシアンに転んで発色するには困りものであった。これにはPLフィルタとSCフィルタを重ね、ペラのCC1.25Rを持ち歩いて必要に応じカットしてホルダに追加するようなこともしていたけれど効果は限定的であった。
実は、この悩みもディジタルに持ち替えて嘘のように霧散した。絵柄さえあれば如何様にでも加工可能なそれではヘイズをクリアにするなどレタッチの初歩なのだった。

フィルム撮影の当時(今でも持ち歩くもう一台のカメラはフィルムカメラである)、避けれないものなら取り込んでしまうカットも試していた。ハイライトを飛ばさないギリギリまで絞りを開けてハイキートーンにまとめるのが定番だったのだが、それをスキャナでディジタル化すれば、紙焼きでは出せなかったトーンも実現する。
33パーミルを下るのは825列車、山形行き。橋梁は第二紅葉川である。

[Data] NikonF2A+AiNikkor105mm/F2.5S 1/500@f5.6 Y56 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

深浦 (五能線) 1977

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そこに固有の名称が付けられているものかは知らないのだが、深浦からの線路が行合崎へと繋がる台地に阻まれて海岸線の築堤に迂回した地点に見下ろす岩礁海岸は、五能線撮影の核心のひとつには違いなく、蒸機の時代から鉄道屋を集めたものだった。とは云え、道路側からも線路際からも、岩礁まで降りて波飛沫を浴びても、切取り斜面からの絵葉書的風景を除けば画角にまとめ難い手強いロケーションではあった。
幾度も通ったこの大築堤区間の海側には、車両の半分程を隠すくらいの高さで古枕木を垂直に隙間無く並べた「柵」が続いていた。秋田鉄道管理局管内に多くの例の在ったこの施設は、岩礁の海から飛来する「波の華」除けなのである。

ご承知の向きも多かろうが、北西の季節風に荒れる日本海で一定の条件下にて生ずる自然現象の様態、ないし、その生成物が「波の華」と呼ばれる。現象に対する学術名称もあろうかと思うけれど、不知である。
それは、海中に珪藻類など植物性プランクトンが豊富な岩礁地帯において、風速の7メートルを越える強風に4メートル以上の波の打ち寄せる、0℃近い低温の環境にて、プランクトン由来の粘質物質の溶け出した海水が繰返し岩礁に叩き付けられて発泡する現象を指す。石鹸成分と同じく分子中に親水基と疎水基を含む粘性物質が起泡剤として働くと云う。確かに一面に洗剤をぶちまけたような様相を呈し、その泡は指でつついた程度では破れない頑丈な皮膜である。指を舐めてみれば当然に塩辛い。
この泡が強風に千切れて舞う様を以て「波の華」と呼称されたものである。
強い風に煽られた「波の華」は内陸の1キロ程まで達して農作物に塩害を与え、また送電線など金属に付着すれば当然に腐食を引き起した。羽越本線の電気運転に際して、その電車線路設備や電気車両に特別の塩害対策を要したのもこれ故であった。五能線のこの区間での「柵」は、それの線路(軌条)への落下・付着を防いでいた。本来の使命を終えた古枕木は、塩による腐蝕も無く最適の材料だったのである。

小さな岬の背後は絶壁と云う先端まで登って待った列車は、混合1730列車の東能代行き。
波の華防止の木柵は趣の在るのだけれど、編成の下回りを覆ってしまうのが痛し痒しなところだ。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.8 1/250sec@f4 NON filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

面白山信号場-山寺 (仙山線) 1977

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1990年代の半ばと記憶するが、とある雑誌の編集者に同行しての仙台から山形へと回る取材旅行で、彼がその間の移動手段に選んだのは都市間の特急バスであった。久し振りの仙山線の車窓への目論みは崩れ去った訳だが、その理由を尋ねての答えは「一時間に一本では使い物にならないでしょ」だった。調べてみれば、1981年にトンネルだけは開通していた笹谷峠越えのルートには、その前後区間の山形自動車道が供用開始されており、宮城交通と山形交通による共同運行の都市間バスが、何と一日26往復も設定されていたのだった。しかも所要時分の1時間あまりは、かつての気動車急行の1時間29分はもとより電車運行の1時間10分さえも上回っていた。
奥羽本線福島-山形間の改軌工事に関連して、<つばさ>や<津軽>の迂回運転などの話題も在ったものの、それら電車列車には特段の興味を持てず、この頃には撮らなくなっていたこの線区が、注意を払わぬ内に取り巻く環境の大きく変わっていたことに気づかされた一幕ではあった。
鉄道側も、その特急運転に際して軌道強化により最高運転速度を95km/hに向上させており、所要時分を1時間丁度とした途中無停車を含む快速列車の設定にて対抗していたけれど、有効時間帯にほぼ20分ヘッドのバスのフリークエンシィには敵うはずも無い。車窓風景などと宣うていたのは鉄道屋だけで、この編集者氏に限らず一般の旅行者の選択はとっくにバスだったのである。
<つばさ>の迂回終了後に、それを快速列車として車両も温存すればアコモデーションからも十分に対抗可能だっただろうが、それの見送られたのは鉄道による頻発運転とするには市場規模の及ばぬとの判断なのだろう。装置産業としての鉄道の限界はここにもある。

仙台と山形を結ぶバス運行の歴史は古く、山形交通が1952年から面白山北方の関山峠を越える国道48号線を経路として運行を始めている。仙台に降りるようになった1970年代にも駅前で、桃とさくらんぼから発想したと云う派手な塗色のバスを幾度か目撃した。この時代ならば2時間あまりの所要に割高の運賃からも、鉄道が圧倒的なシェアを確保し、5往復の急行列車を以て両都市間のみならず、米坂線を介しての新潟や奥羽・陸羽西線経由の酒田・鶴岡との連絡線としても機能していたのだが、冬期には除雪されない国道286号線が細々と通っていた笹谷峠直下に3385メートルの笹谷トンネルの開通して、バス路線の開かれれば鉄道の命運は決したとしても過言でなく、それにアクセスする山形自動車道の延伸と歩調を合わせての時間短縮と増便を前には、都市間連絡鉄道としての機能をほぼ失ったのが、1990年代から此の方の現状である。上記の仙台と日本海側との連絡も今や全てがバスの市場に移行している。

件の当時に20代後半だった編集者氏は、もうひとつ気になる理由を挙げていた。曰く「(バスは)お茶を飲んでいる喫茶店の前からでも直ぐに乗れる」であった。駅に向かい入場してホームから列車に乗り込む行為が「面倒臭い」と云うのである。
新幹線にも通勤列車にも乗りはすれど、子供の頃から親の乗用車での移動が常態であったと思われる彼の世代に共通した、このバスがあればそれを選択する行動に古い鉄道屋は些かばかり戸惑う。

紅葉川林道(市道所部紅葉川線)から第二紅葉川橋梁を見下ろす。通過する列車は827列車り山形行き。
この頃のダイヤで827列車の仙山間所要時分は1時間44分であった。この区間の輸送をほぼ独占していた当時、9月の平日だけれども、機関車次位の客車の窓全てに人影が確認出来て結構な乗車と見える。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.8 1/500sec@f4+1/2 Y52 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

小沢 (日立電鉄・日立電鉄線) 1977

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随分と前のことだが、岩手県和賀の牛飼いに聞いたことが在る。放牧場と云えば広大な草原や緩やかにうねる緩斜地を思い浮かべるけれど、実は牛はどんなところでも飼えるらしい。例え急斜面の笹地でも樹林帯でも自分で下草を押し潰して草原環境を創り出すと云う。そのような放牧地で成牛まで育てば、10ヶ月程牛舎で乳を搾り、また2・3ヶ月放牧してやれば良いのだそうだ。
なるほど、酪農と云う農業形態は沖縄を除く各都道府県に存在する。乳牛は圧倒的には北海道のイメージがあるけれど、それは全国の至る所で飼育されているのである。

ここ茨城県も意外なことに生乳の生産量の177,500トンは全国8位の酪農県と云うことになる。勿論北海道が全国生産量の49パーセントを占めるのだが、大消費地である首都圏に隣接する地理的条件からか、栃木・群馬・千葉の関東地域各県とともに上位グループの一角を為している。
常北平野を流れて久慈川に合流する里川を福島県境近くの水源まで遡った八溝山地に、茨城県酪農業協同組合連合会の運営する育成牧場の里美共同模範牧場がある。1960年代初頭に子牛の育成を目的に旧里美村の共同牧場として発足した牧場で、現在では山系の分水嶺近くの標高600から800メートルに80ヘクタール余りの放牧地を有する。ここまで登ってみると場内にはかなりの急傾斜地も含まれるのが見て取れるのだが、確かに牛は何も気にするでなく、そこは等高線の屈曲が見えるような牧草地となっているのだった。

里川の流域には、旧里美村村域に限らず小規模な牛舎と放牧場が散見される。共同牧場が利用出来れば自前での広大な牧場は必ずしもいらないのだ。ここ小沢に近い里川の氾濫原も放牧場に利用され、牛の草食む姿が見られた。
里川橋梁を往くのは、モハ11型モハ12の常北太田行き。日中のワンマン運転には、大抵このクルマが往復していた。
この時点で車齢は30年にならんとしていたけれど、さらに15年あまりを過ごして1992年に廃車された。
北海道函館本線に同名の駅が存在するが、ここは「おざわ」と読む。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.4 1/500sec@f4 Y52 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.
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