70's/80's Monochrome Age and Years of Ektachrome film

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

焼石-少ヶ野信号場 (高山本線) 1988

shogano_01-Edit.jpg

2013年の夏も豪雨の災禍が続いた。それにて毎年何処かの鉄道に長期不通を生ずるのは年中行事化の感さえある。天然地盤に築造された構造物は永続性を要求され乍らも自然に最後までは購えないのだろう。もちろん復旧への工事が続けられてはいるのだが、中には復旧を放棄されたり資金難からそれの危ぶまれている線区もある。

道幅全てが水流と化した表参道の坂を足首まで浸かりながら渡ったことや、滝のごとき急流の渋谷駅前の歩道橋を昇ったことは在っても、幸いなことに水害の災禍に巻き込まれた経験は無い。
7月28日の12時10分に山口県須佐で観測されたと云う、記録的短時間雨量の138mm/hとはどんな豪雨だったのだろうか。
気象庁の分類では、時間雨量80ミリ以上を「猛烈な雨」と区分して、それは「息苦しくなるような圧迫感がある。恐怖を感ずる」降り様とされている。「傘は役に立たず」に「水しぶきであたり一面が白っぽくなり、視界が悪くなる」状況と云う。
これなら一度だけ出くわしたことがある。高山線の釣鐘トンネル出口抗口上の国道脇から第五益田川橋梁を見る定番の位置で列車を待った夏の日である。その日の天気図は覚えていない。早朝からの蒸した曇天は昼過ぎから降雨となっていた。ここを16時50分前に通過するユーロライナー編成の9606<奥飛騨>を待っていた訳だが、その直前、突然に豪雨と変わり、激しい降水と路面から跳ね返る水飛沫で自分の周囲しか見えなくなって、その轟音には確かに息苦しく、路面を滑って谷へと流れ落ちる足元の水流には恐怖すら覚えたのだった。三脚上のカメラにはゴアテックスのスタフバッグを被せて防水していたけれど、傘など直接にシャワーを浴びないだけで、これも確かに役には立たなかった。あのような場所なので、鉄砲水や落石の危険も在っただろうに、激しい飛沫に包まれてはとても考えは及ばなかったのが正直なところである。

豪雨がまともに一時間も続けば災害に発展しただろうが、幸いなことに20分程で小止みとなって免れた。気がつけば山側の直立した斜面からは滝のように水が流れ落ちていた。僅かに5・6メートル先の、それにすら気がつかない轟音の降雨に水飛沫だったのである。
豪雨災害の報道に接する度に、この経験を思い出している。あの状況下ではとても避難など出来るものでは無い。

下呂に戻って聞いたが、これも気がつかぬまま橋梁を通過した9606は、危険を感じた機関士の判断で釣鐘トンネル内に停車の後、最徐行で運転したそうである。下呂や焼石での雨量は警戒域に達せず、極めて局所的な降雨だったらしい。
写真は、その関係からか定時を遅れての706D<のりくら6号>。恐怖の覚めやらぬ中でのレリーズで意識していなかったけれど、現像を上げてみれば幽玄の山峡が好ましいカットになっていた。

余談だが、下呂で夕食に入った食堂の主人は、ずぶ濡れの姿にストーブを用意してくれた。有り難く暖まっていると全身がもうもうと湯気に包まれ、それを見た主と共に大笑いした覚えが在る。

[Data] NikonF4s+AiNikkor50mm/F1.4S 1/250sec@f2.8 Fuji SC42filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

スポンサーサイト

下呂 (高山本線) 1988

gero_04-Edit.jpg

駅で入手した下呂温泉の観光パンフレットには、益田川の両岸に開けた温泉街全景の俯瞰写真が表紙にあしらわれていた。そして、パンフレットのレイアウト上のことであろうトリミングラインに残るのは、高山本線の第六益田川橋梁に違いなかった。早速に持参の五万分の一地形図を参照すれば、おそらくは下呂駅前から益田川右岸を上流に向かう県道88号線の釜ケ野集落から分岐する林道からの撮影と推定され、それは70年代までは無かったものだ。予定を変更してそこを1時間程かけて登ったけれど、周囲は樹木に遮られて下呂市街を見下ろせる場所は見つけられなかったのである。
カットから見て取れる高度とパースから可能性は薄いとは云え、さらに県道を禅昌寺近くまで進んだ上田地区から柿坂峠へ向かう林道とも考えられ、帰宅後に発行元と記載の下呂温泉観光協会へと問い合わせると、古い写真ゆえはっきりしないが下呂観光ホテル裏手あたりからとの返事ではあった。確かに見下ろした角度はそれらしく見える。けれど、駅近くからも見上げられるその建物の上方の足場らしき位置には覚えはなかった。
次の高山線往きに再び下呂を組込み、下呂観光ホテルへの坂道を上り広い駐車場に立てばその答えは直ぐに知れた。伐採地である。その裏手の垂直にも見える斜面は前記の林道ラインの近くまで、既に成長した植林地となっていた。おそらく、そこの伐採当時もしくは植林のなされた直後に撮影されたカットだったのだろう。杉の苗木の生長は早いから4・5年も経てば人の背丈を超える。
こういうこともある。気を取り直してホテルのフロントに許可を請うてから駐車場の外れに立ったのだった。

高度はちっとも稼げないが、温泉街を背景にした第六益田川は捉えられる。
列車は708D<のりくら8号>。後部2両が富山始発、キロ28を含む4両は高山回転編成である。
1986年11月改正以降、基本4両編成は岐阜方1号車をキハ65としてキロ28の2号車を所定としていた。キハ58初期車やキハ57の廃車にともなうものだが、その組成順は夏期に騒音源となるキロ28の冷房用電源機関の使用停止を意図した措置である。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/500sec@f4 Fuji SC42filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

福来信号場-焼石 (高山本線) 1988

yakeishi_03-Edit.jpg

国鉄が高山本線の「総合輸送改善計画」を発表したのは1967年のことだった。当時の中部支社によるプレスリリースには「現在の単線鉄道を前提としつつ、その単線鉄道に近代的な技術・施策を総合的かつ集中的に施行し、単線鉄道の抜本的な衣替えをはかることによって複線鉄道に近い効果を発揮させるようとする線区総合輸送改善計画」と在る。
同文書は計画に至った事由を、旅客・貨物ともに1950年代後半以来の輸送量の伸びが、同規模の亜幹線である磐越西線や日豊本線に比して遥かに大きく、沿線に高山や下呂のごとき観光地を擁し、北陸と東海地区とを短絡する重要線区にあっては現状設備では今後の輸送需要に応えられないためとしている。
計画は、設備面で内燃車投入による全線での完全無煙化、線路容量を上げる信号場や既設停車場への行違設備追設、そして全線へのCTC制御方式の導入の各施策により、列車増発に到達時分の短縮を図り、併せて線区営業体制を強化して、総合的な線区の体質改善を行うものと説明されていた。
けれど、この1960年代後半は米原経由で東海地区と富山方面を結ぶ北陸本線は各所で勾配改良に線増が進められ、電気運転も糸魚川まで達していた時期である。早晩に貨物需要の転移は予期されたし、観光需要も飛騨古川以南区間に留まることも予想の範囲に在っただろう。
高山本線「総合輸送改善計画」が国鉄部内においてモデルケースとされたのは、CTC制御導入による省力化を中心とした経営改善効果であり、それがこの計画の本質であった。線区営業体制「強化」とされたのは、国鉄に対してであり、貨物扱い駅の集約化や多くの駅での駅員無配置化を伴っていた。
列車運転とその管理の近代化の手段として1958年5月に伊東線で試行され、1962年に横浜線へ本格導入されたCTC制御方式は、この高山本線でその本来目的とは異なる「成果」を踏まえて、以後国鉄はこれを線区経営改善の道具として全国的に活用することになる。

計画は1967年度を初年度とした3年計画であり、飛水峡、福来の信号場の新設、千里への交換設備設置、白川口と飛騨古川での本線有効長延長に各急行列車停車駅での乗降場有効長の延伸が進み、先行した高山-猪谷間の無煙化も1968年1月21日を以て達成して迎えた、1968年10月1日のダイヤ改正が計画半ばでの第一次輸送改善とされて、高山以南区間での一定の無煙化とCTC制御の本格運用により特急列車を含む優等列車増発に所要時分短縮が実現した。
けれど、これにて十分に「成果」の確かめられたものか、工期の関係からの高山以北区間でのCTC制御運用を1969年9月30日として計画は縮小されてしまい、当初計画の焼石-少ケ野間と飛騨小坂-渚間、坂上-打保間の信号場に飛騨宮田への交換設備配置、坂上と笹津での本線有効長延長は実現せずに終わっている。

写真は、下原ダムの堰止め湖岸での871列車。飛騨一ノ宮構内に在ったセメントデポへの列車である。
全線を通す貨物列車は1984年2月改正で廃止されており、中間区間には、このセメント列車と上枝への石油輸送列車だけが残されていた。

[Data] NikonF4s+AiNikkor50mm/F1.4S 1/250sec@f8 Fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

落合川 (中央本線) 1988

ochiaigawa_01-Edit.jpg

いつもは大垣夜行で始めていた高山本線行きを、この日は久し振りで中央西線に乗って見たくなり八王子から夜行<アルプス>を利用した。松本で<しなの2号>に乗換えて沿線を眺め、多治見で太多線へ乗継げば昼前には美濃太田に着ける算段である。
けれど、好天の車窓を見る内に、そのまま通り過ぎるのが惜しくなってしまったのだった。

落合川は蒸気撮影の時代から幾度か撮っていて、勝手知ったる場所である。中津川から国道19号線を坂下方面への濃飛バスに乗れば、それは木曽川右岸の斜面の中腹を往くから、眼下に落合川の谷を見下ろせた。一日を、この国道からの俯瞰に決めて一番塩尻寄りの第一木曽川橋梁から撮り始めたのだった。
ここは、山峡を往く西線区間の西端で谷も緩やかとなり、関電の落合ダムにて堰止められた木曽川の水面も広がる開放的な地形である。対岸も含めて斜面には見事な棚田が連なって、そこに民家が点在し、加えての杉木立と竹林の共存が、ここでの景観を特徴付けでいた。それは俯瞰しても、駅から仰ぎ見ても好ましい風景で、斜面や河畔には料理旅館や割烹の店が数軒存在していて、隠れ里的な情緒も感じられるのである。

写真は、新第二落合山トンネルへと向かう7016M<しなの16号>。後追いになる。
夏至までひと月の遅い日差しが、山峡に長い影を引くまで待って撮っている。

[Data] NikonF4s+AiNikkor50mm/F1.4S 1/500sec@f5.6 Fuji SC56filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

FC2Ad

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。