70's/80's Monochrome Age and Years of Ektachrome film

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平岩 (大糸線) 1987

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信濃大町糸魚川間鉄道は、『軽便鉄道法』(1910年4月20日法律第57号)下に確保された鉄道建設費予算を以て1920年7月の第43回帝国議会の協賛を得て建設の決定し、同法の失効以後につき『鉄道敷設法』(1922年4月11日法律第37号)が制定されると、その附則第二項により第一条別表の予定線と同等に扱われた。
予算上の事由から幾度か着工の延期されながらも、信濃大町から中土までが大糸南線として1935年11月29日までに、糸魚川から小滝の区間が同北線として同年12月24日までに開通した。残る中土-小滝間にも着手されていたのだが、険しい地形に難航しているうちに日中戦争の勃発により1941年6月30日付で工事中断の止む無きに至り、戦局の悪化した1944年には軌道工事まで完成していた平岩-小滝間の軌道を始め橋桁までが金属供出により撤去されてしまった。
戦後いち早く1946年には運輸省鉄道総局により信濃川工事事務所の所管にて復旧に着手されるも、経済混乱にともなう資材の入手難などから遅々として進まぬままに再び中断、ようやく1953年6月に新橋工事事務所の手により再開され、1956年5月に信濃川工事事務所に移管の上での1957年8月15日のこの区間の開通を以て全通を果たしたのだった。
これに際しては、1937年6月1日付で買収した旧信濃鉄道区間や既設区間に存在していた簡易線規格を全線で丙線規格と改める工事も行われたのだが、橋梁には負担荷重KS-12の個所が残存した。入線機関車がC56に限られた所以である。ちなみに黒部第四発電所(ダム)建設資材輸送時のED60の入線は軌道強化を行っても速度制限を各所で受けた。
橋脚や隧道の施設は勿論、路盤工事も完成していながらの工事再開の遅れは、1949年の発足と同時に非採算線区の経営問題に直面した日本国有鉄道が、この線区についても逡巡したゆえと思える。地質の不安定な糸魚川静岡構造線上に位置し、急流として知られる姫川による水害や冬期の雪害なども考慮せねばならない災害線区との予測からも、開通を回避したいのが国鉄の本音だったろう。横浜地区や以西の東海地方と北陸地方との輸送においては短絡線となるに関わらず、軍部の要請も無くなっては、最小限の投資にて輸送力を考慮しない線路に留置かれたのである。それは今に繋がるこの区間の不幸でもあった。これには項を改めたい。

富山第一機関区の大糸線運用には、永年のキハ55/キハ52に替えて1982年度よりキハ58が入り始め、1985年度までには全ての運用が、それの2両組成に置替られていた。多くが秋田運転区と新潟運転所からの転入車で非冷房車だが、秋田からのクルマはパノラミックウィンドウ装備の1968年度増備車だった。
キハ58と云えば、かつてには松本-金沢間急行<白馬>に運用されるだけの線内では最優等車両だったから、1982年11月改正でそれの廃止されると同時に、今度は線内列車の全てが外見は<白馬>と云う鄙にも稀な華やかさがその頃の大糸線であり、そのままに西日本旅客鉄道の承継した富山運転所に引継がれていた。
写真はパノラミックウィンドウ車が行違う平岩駅、駅長が出発合図に向かう。列車は426D(左)と429Dである。
1982年度末に、列車回数の少ない単線区間向けに閉塞信号機を設けない方式で自動信号化され、松本指令所からCTC制御されていたにかかわらず、ここには要員配置駅だった。それを要した事由はわからない。

[Data] NikonF3P+AiNikkor50mm/F1.4S 1/125sec@f8 Fuji SC48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

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湯平 (久大本線) 1987

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福岡市に仮住まいの頃、事務所を置かせてもらっていた映像制作会社の連中を誘い出しては、久大線沿線の温泉場で呑んでいたことは前に書いた。
この湯平駅から花合野(かこの)川沿いに5キロばかり遡った谷間に所在した湯平温泉もそのひとつで、湯布院よりも先は中でも最も遠い部類に属した。もっとも九重中腹の筋湯温泉の方が到達時間は要したと記憶するが、どちらも夕刻に福岡を出発と云う訳には往かず、皆の休日を揃えて出掛けていた。
開湯が湯布院より遥かに古いとされる温泉場は、この頃には湯治場の風情を残す鄙びた温泉街が続き、モダンな宿泊施設も増えていた湯布院とは対照的とも云えた。
例によって低料金だけで選んだ旅館には、ここでも気さくな女将に出会え、温泉街外れのそこは共同浴場にも近いものだから幾度か世話になった。その頃には慣れたもので、筑後川沿いに幾つか所在した蔵元にわざわざ高速道路を降りて立ち寄って旨い酒を仕入れ、公共の浴場には各自、酒の移し替え用ボトルを持参することにして、これには鉄道屋の旅に使っていたSIGG社製のボトルが重宝した。500mlは楽に入る上、アルミのそれは冷水に晒せば良く冷えたし、湯舟に沈めれば直ぐに燗がついた。露天では無いのだけれど、開け放した窓からは花合野川の水音が良く聞こえて至福の時間を過ごしたものだった。ここには他にも4箇所に共同浴場が存在して、ほろ酔いで石畳を歩く湯巡りは極楽に等しい。

天ケ瀬の前後区間がほとんどだった久大本線の撮影にも湯平まで足を伸ばしていた。特に気に掛けた位置の在ったでは無いが、大分川の谷底平野が標高300メートル余りに尽きる斜面に位置した湯平停車場は、東側に景観の開けた気持ちの良い駅ではあった。緩い曲線を描く構内は少しばかり千鳥にずれた上下乗降場が趣だったけれど、惜しむらくは近年に建替えられたであろう郵便局と農協支所との合築駅舎と一般歩道橋流用の跨線橋が、それを台無しにしていた。

写真は、小雨模様の湯平を発車した626列車、鳥栖行き。背景には大分川の広い谷が続く。
近年に湯平温泉は湯布院に飽き足らない観光客に石畳が風情の隠れ宿として注目され、それに対応した施設の充実も図られているらしい。にもかかわらず、湯平からのバス便は廃止されてしまったと聞く。最早、列車で温泉旅行の客など皆無なのだろう。確かに自分達もそこへは自動車で行っていた。

[Data] NikonF3P+AiNikkor50mm/F1.4S 1/125sec@f5.6 Fuji SC48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

北小谷 (大糸線) 1987

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かつて全国各地に散在した杜氏集団の多くは集団とは呼べぬ程に人数を減らし、中には既に消滅したと思われる地域もある。
残念乍ら最新の資料は手元には無いのだが、2002年度の杜氏組合を資料に見れば、南部杜氏が300人を越えて突出している他は但馬杜氏、丹波杜氏、能登杜氏が続く程度である。越後杜氏組合の300人を越すけれど、これは県内の杜氏組合を一本化したゆえであり、野積・越路・刈羽・頸城・小千谷などの杜氏集団に往年の勢いは無い。広島地域や九州島内に至っては各地区で組合を維持出来なくなっての統合で、それでも50人を越えるに留まる。
これは、杜氏-現代で云えば酒造技能士一級保持者-の総数が激減している訳では無い。農村や山間地などからの杜氏に率いられた農民の一群による季節労働としての酒造が終焉を迎えているのである。
江戸期における寒造りの定着以来に、寒村の農民による酒蔵への出稼ぎは村の誇りとされていた。熟練した酒造技術者である杜氏に率いられた技能集団は「酒男」と呼ばれて、富を持ち帰る村の誇りだったのである。年少者のあこがれの姿であり、いつしかそれに加わることを念じても、杜氏の親戚や親が親しいでも無い限り参加出来ぬ集団でもあった。
しかしながら、農村の豊かとなる戦後となれば、凡そ半年を故郷と家族と離れての生活が嫌われ、酒造集団への志願者の減り、仕舞いには杜氏が育たなくなったのである。この季節労働による酒造形態はまもなくに絶滅するであろう。
替わっては、杜氏不足に対して蔵元自らが酒造技能資格を取得しての酒造、蔵人は地元からの通勤による通年雇用が一般化しつつある。酒蔵の在る地域の若者達にも人気の勤務先であるらしく、次世代の杜氏は彼らから生まれることになろう。

長野県北部、北安曇郡の小谷村も小谷杜氏を輩出して来た地域である。この山村もまた雪に閉ざされる冬の生業を必要とし、戦前の最盛期に酒蔵へは300人程が出掛けていたと云う。一つの技能集団は7・8人で構成されたから、この中での杜氏は40人前後、行き先の蔵もその数になろうか。当時に1400戸程の世帯数に、そこから働き手の一人が参集したとすれば、凡そ5戸に1戸は「酒男」を出していた計算になる。
先の資料に、既に小谷杜氏組合の名は見られず長野県杜氏組合に一本化されてしまっている。それから小谷村出身者を拾うと14人であった。酒蔵自体の減少を思えばそれほどに減っていない印象だけれど、その高齢化は着実に進んでいる。最早地元から蔵人は集められず、杜氏が単身で蔵に赴くのがほとんどと聞く。

急流の姫川が削り、大量の土砂を運んで埋めた谷は広く、その全てを河床と化す。この攻撃斜面にあたる築堤の区間は1995年7月の大氾濫にて流失の被害に遭っている。
列車は439D、糸魚川行き。

[Data] NikonF3P+AiNikkor50mm/F1.4S 1/250sec@f5.6 Fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

豊後中川-天ケ瀬 (久大本線) 1987

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20年程前と思う。「人麻呂の暗号」なる単行本が年間ベストセラーとなり、後に文庫本化もされたはずである。その成立に、時の政権に深く関与した柿本人麻呂がかかわったとされる「万葉集」の未解読の歌が古代朝鮮語でいとも容易く読み解け、そこに権力者の意図が炙り出される、とした内容だった。その時期に日本放送協会も同趣旨のドキュメンタリィを制作、放映したことも手伝って話題となったゆえ、ご記憶の向きも多かろう。
当時に書店で手に取った帯のタタキ(宣伝コピィ)の胡散臭さに読むことはしなかったのだが、それへ賛同する出版も続けば、案の定に国文学や言語学の研究者からの反駁も行われたのだった。両者間で学術的に冷静なやり取りも行われたようではあるが、多くはイデオロギーに固執した論戦に終始して辟易したのも覚えている。これは現在にも尾を引いていて、この分野に限らず、日韓に跨がらざるを得ない諸研究は両国ともに国粋主義的外野の声が大き過ぎるように思う。

イデオロギーがどうあれ、海峡を隔てた朝鮮半島と九州島では古より往来の行われて文化の移出・流入のなされたのは疑いようが無い。
大分県玖珠郡と旧日田郡への玖珠川流域には「ツル」地名が連続し、国内におけるそれの分布重心を成している。「ツル」とは10世紀より以前に区分の古代朝鮮語からの移入と謂われ、「水流」を意味する日本語の「つる」に転訛したとされる。川の大きな屈曲部や蛇行した流れををそう呼んで、そこに開けた僅かな平地の地名となったものだろう。鶴や弦、津瑠、都留などの字が当てられたが、ここでは全てが「釣」であり、ざっと地形図から拾っても、玖珠町、九重町、旧湯布院町、旧天瀬町、日田市の地域に23の字名を数える。現在まで残らなかったもの、国土地理院に採取されなかった地点も在るだろうから、実数は遥かに多いと思われる。
ここにこれだけ集中は、日田地域に存在したと云う古代王権と関わりの在りそうだが、それは門外漢ゆえ識者に譲る。

豊後中川から天ケ瀬に至る現在の日田市天瀬町合田地区には、玖珠川下流から豊後中川駅の所在する下ノ釣を始め、上ノ釣、山ノ釣が見て取れる。確かに、何れもが玖珠川の谷を形成する急峻な斜面を背にした水流屈曲部の集落である。上ノ釣からはその斜面を打越集落へ通づる道路が這い上がっていて、第五玖珠川橋梁の俯瞰を試みるが樹木に遮られて叶わず、上方斜面に一件だけの民家にお邪魔して、その勝手口の軒先から撮らせてもらった。得体の知れぬ他人を快く導き入れて下さってこそのカットである。
橋梁上の列車は603D<由布3号>。
編成の中央はキロ28の格下げによるキハ28 5200番台車。当時に300円の座席指定料金で特別車設備を楽しめる乗り得く車両だった。大分運転所へ<由布>仕業用に3両が配置されて居た。
橋梁下を横切るのが、豊後中川-天ケ瀬 (久大本線) 1986 に書いた沈下橋である。

[Data] NikonF3P+AiNikkor180mm/F2.8S 1/250sec@f4 Fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

上芥見-白金 (名古屋鉄道・美濃町線) 1987

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上芥見 (名古屋鉄道・美濃町線) 1986 に書いた、道路傍らを往く併用区間には、間に合わなかった花巻電鉄や福島交通の溜飲の下がる想いのしたものの、それらの廃止直後にここを知っていれば、その道路はまだ未舗装の田舎道だったから悔やみもする美濃町線である。
それでも、軌道線の低い乗降台には不釣り合いな鉄道駅然とした美濃や新関の駅舎(そこでは、かつてには手・小荷物や貨物も扱ったことだろう)や、通票(スタフ)授受の運転要員一人だけが常駐していた併用軌道区間の競輪場前、野一色に日野橋の小さな詰所、かつては各停留場に存在したであろう乗車券販売窓口や待合所の名残など、このようなルーラル鉄道をほとんど撮っていなかった身には、どれもこれも物珍しく見えたのだった。狭い路盤に玉砂利だけの薄い道床、木製の門形架線柱は70余年前の美濃電気軌道とさほどに変わらぬと思えた。

この1980年代半ばには、沿線での団地や宅地開発の進んでいたけれど、それも下芥見あたりまでのことで、そこから国道156号線を新設軌道区間に回り込めば、まだまだ穏やかな農村風景が広がっていた。
白金を過ぎて少しだけ県道287号線を走るところや、神光寺から美濃へ勾配区間も愛おしく思えたものの、白眉とするのは、やはり上芥見付近だろうか。しかも、ここでは白金に向けて併用軌道を離れると、44パーミルもの勾配で築堤を上りながら90度転回して津保川を渡っていた。この線区で最長の津保川橋梁である。軽い車両ばかりの小さな負担力にて設計の鈑桁橋梁は、とても華奢に見えたものだが、それには似合いの好ましいプロファイルだった。
堤防をしばらく歩いて振り返ると、傾いた茜空に枯れ野の川筋が見えた。
橋梁を渡るモ600型は、新関行き。

[Data] NikonF3P+AiNikkor50mm/F1.4S 1/125sec@f5.6 Fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCC on Mac.

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