70's/80's Monochrome Age and Years of Ektachrome film

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院内 (奥羽本線) 1974

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板谷峠に矢立峠と南北に輸送の隘路を抱えた奥羽本線に在っては、秋田・山形県境、雄勝峠の区間もまた院内隧道を頂点に1/55(18.2パーミル)から1/50(20パーミル)の勾配が連続する難所であったのだが、大滝方・院内方ともに真室川(及位からは朴木沢)、雄勝川の谷を直線的に上ってしまい画角の乏しかったものか、あるいは奥羽線内中、最も少ない区間輸送量に知る限りの1960年代以降には補機を要するまでもなかったせいか、蒸機運転当時の先輩諸兄の作品を見かけることもほとんど無い。その米沢機関区や新庄・横手機関区などのC57、D51の運転も1968年10月改正までのことで、所謂蒸機ブームの初期に無煙化の達成されていたのも一因であろうか。

この峠越えが線内での最閑散区間とは云え、首都圏対秋田地区連絡の幹線上には相違なく及位-院内間8.6キロの線路容量の僅か46回は優等列車設定上の隘路ともなり、第三次長期計画にて線増が予算化された。貨物輸送単位の小さいことから勾配の改良を伴わず、延長1356メートル単線断面の(新)院内トンネルを別線で掘削する他は、ほぼ既設線への腹付線増にて計画されたのだが、院内まで4キロあまり、福島起点190.5キロ付近に所在の岩崖隧道を挟む1600メートル区間は、急峻な地形の続くため雄勝川に第一雄勝川橋梁(l=141M)と第二雄勝川橋梁(l=315M)を架橋、両橋梁間に短い岩瀬トンネルを穿って対岸を迂回する別線とされていた。1904年開通の既設線岩崖隧道は1956年から57年に架けて老朽化にともなう改修工事を電化対応の断面改築と併せて行っており、これの下り線としての使用継続が既定方針だったのである。
ところが、1960年代に線路路盤下方斜面で行われた国道13号線の拡輻改修工事の発破作業の影響にて変状を生じ、補強措置を講じて運転を確保したものの抜本的な再改修を要する事態となってしまった。これには前記線増線を急遽複線に設計変更として現況となったものである。
既設線を放棄しての新線への切替は1966年11月に行われ、当初には将来の下り線を使用した単線での開通であった。続いては(新)院内トンネルの完成により全区間を増設線での単線運転として、この間に既設線院内隧道(I=1237M)の改修を施行し、これを上り線とした複線での使用開始は1968年9月29日と記録されている。

この雄勝川と国道13号線を2度交差する新たな鉄道景観の出現には魅力を感じてはいたものの、ようやくに訪問の叶うのは電化柱も建ち並んだ1974年のことだった。紅葉黄葉を当て込んで選んだ11月の半ばは、それを外したばかりか予期せぬ降雪に見舞われた。秋季向けの装備には寒さの堪え、目当ての橋梁下では何やらの工事も行われていて散々だった覚えがある。
岩瀬トンネルから第二雄勝川橋梁に至るのは1D<つばさ1号>である。
ここには翌年の電化開業直前に、冬装備と共に再訪して面目を施したものだった。

[Data] NikonF2A+AutoNikkor105mm/F2.5 1/250sec@f4 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

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三見-飯井 (山陰本線) 1974

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もう20年程前になるけれど、音楽学校の講師もしていた友人のギタリストから興味深い話を聞いた。ロックギターを教える彼の講座へ「ギターを触ったことも無い」生徒が現れたと云うのである。これには些か驚かされた。
だいたいにしてロックギタリストを目指すような少年は、それに憧れてエレクトリックギターを手にし見よう見まねで奏法を覚えて、やがてバンドを組んで活動を始めれば、幸運にもそのままプロデビューを果たすか、或は、それを職業と捉えれば、より高度なテクニックや音楽理論を学ぶべく彼のような定評の在るミュージシャンのもとへとやって来たものである。そして泡良くば講師連中の弟子に潜り込みプロへの糧としたのだった。
彼によれば、その2・3年前から生徒の質の変容に気がつき、いつかそんな生徒を予期していたと云う。
ありとあらゆる職種の職業学校が存在し、多くの大学校も実体はそれと変わらなくなり、巷には多種の講座や教室の乱立しながらも盛況な現状への萌芽は、その頃からあったと思わせるエピソードではある。自ら学び取るでなく、教えてもらうことが当たり前と化した感がある。

この受動傾向は趣味の鉄道屋の世界にもいつかしらに入り込み、調査・研究が醍醐味であったはずのそれが結果ばかりの求められる昨今である。鉄道雑誌は、例えば車歴表の全文など公開しない方が良かろうとさえ思う。
写真には付き物の撮影地ガイドの類いも同様で、それの功罪に関する議論は70年代からこの方に存在したのだけれど、近年に顕著な、地点を明示して画角までを教授する余計なお世話は、「罪」の側面を助長するばかりに思える。このBlogへのアクセス解析に、高名とされる撮影地点を挙げて「行き方」などとの検索語句の記入をみれば、古い鉄道屋はますますにその感を強くするのだった。

西山陰の益田以遠区間は、当時の撮影地ガイドに「鄙びた漁村」が点在し「落ち着いた写真の撮れる」とだけ在り、後は実際に降りて歩けとの趣旨の記述はガイドとして必要にして十分だった。加えて「あまりファンの出向かない土地」と書かれていたのも、ご同好と鉢合わせして思ったような画角の採れないことを散々に経験していた身には有益な情報と云えた。
その区間に位置した三見の駅前から旧赤間関街道の思いがけない趣の街並のことは前にここへ書いている。→ 三見 (山陰本線) 1974 それを辿っての、五万分の一地形図で事前に当たりを付けていた尾ヶ崎を回り込んだ海岸線は、岩礁への白波が街道沿いの松林に映えて風光明媚として良く、それは確かに端正な「落ち着いた」景観と覚えている。
ただし、この区間で機関車の力行はあまり期待出来ず、尾ヶ崎トンネルへと向かう被写体は2012D<まつかぜ>とした。

[Data] NikonF2A+AutoNikkor50mm/F2 1/125sec@f8 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

飯井 (山陰本線) 1974

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築堤に土盛の乗降場を付しただけの飯井に降りれば、小さな集落越しに入江の青が見えた。これが北の羽越線や信越線なら海辺の寒村と呼んでしまいそうだが、石州瓦の明るい色彩がそれを躊躇わせた。北国育ちの僻見かも知れぬが、どうにも南の風景は豊かに見えてしまう。
1980年代半ばに福岡に仮住まいした時、九州一円を旅して歴史的にも北方との社会財の蓄積の相違を感じたものだった。なにより、酒の肴を探しに長浜の市場を訪ねれば、その種類と水揚げの豊富さに驚き、思わず北の海と比べていた。駅や街中のスタンドの「そば」でなく「うどん」も意味有りげに思えたものである。

小さな入江に面し、背後に山塊の迫る飯井地区も斜面には蜜柑畑の開かれていたものの、耕地は僅かばかりにかかわらず、どの農家も広い敷地にどっしりとした住居を構え、件の石州瓦を載せていた。半農半漁、決して専業とも云い難いのだろうが、ついつい単位収量とか出荷の市場価格など考えてしまうのも十分に僻目に違いない。
ここは、萩市と大津郡三隅町の境界でもあった。入江に注ぐ水無浴の谷を分界と定めたゆえのことである。水無浴の水流に立地した集落は、それで行政区域が二分されていたのである。地元の人々も、古くは旧三見村域であった東側を三見飯井、西側を三隅飯井と区別していたようだが、もとより一体の生活圏である。
この分界は阿武郡と大津郡との郡界でもあったから、定められたのはかなりの古に属しよう。それぞれの中心域からは山塊と海に隔絶されたこの地の人々は、そのような「外界の勝手」など意に介さずに暮らして来たものと思う。

駅から、ほんの2・3分で集落を通り過ぎ入江に立てば、ここの風情がすっかりと気に入ってしまい一日を過ごすことに決めていた。
水無浴河口に築かれた石積みの導流堤が珍しく、レンズを向けておいたのだが、やがて現れた2人組の女の子は撮影者にカメラの存在など気にするでなく砂遊びに興じるのだった。
丁度やって来た列車は804D<さんべ1号>。この熊本-鳥取間を12時間かけて走っていた急行は、下関で編成の一部を分割、山陽線・美祢線と運転したそれを、長門市で再び併結していた。離婚・再婚列車とは、古い鉄道屋なら覚えておいでと思う。

[Data] NikonF2A+AutoNikkor105mm/F2.5 1/500sec@f5.6 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

飯井 (山陰本線) 1974

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小樽・手稲と暮らした頃、蜜柑とは年の瀬に内地の叔母から届けられる南国の果実と認識していた。当時に叔母夫婦は神奈川県の湯河原で農園を経営していたのである。
放り投げを荷扱いの基本としていた鉄道の小荷物輸送に荒縄を二重十文字に掛けた頑丈な木箱に詰められたそれは、釘抜きで打ち付けられた木板を剥がせば甘酸っぱい香りが解き放たれ、冬休みに正月の近いことを感じさせたものだった。
道内には無かったその果樹には湯河原を母と訪ねて初めて接し、林檎のように枝にぶら下がるものと信じていたそれの、樹木一杯の山成りには驚きもしたのだった。

この後も、蜜柑は伊豆方面や房総半島を北限に西国太平洋岸の温暖な地域で栽培されるものと理解していたから、三見に歩くつもりで降りた飯井で季節外れに黄色く染まる斜面には奇妙な感覚を覚えたもした。山陰本線が隧道で越える険しい地形に海岸線に向かって僅かばかり開けた谷の両側斜面は密柑山だったのである。日本海岸と聞けば風雪に波浪を想う身には、西国とは云え不釣り合いな景観に思えたものだった。漁港を見下ろす斜面に登ってみれば、それは蜜柑でも個体の大きい伊予柑と知れた。ならば春の結実も辻褄が合う。
最近のデータではあるが、飯井・三見地区も属する「JAあぶらんど萩」によれば、萩市と阿武町では7.6haで伊予柑が栽培され、年間出荷量は75tと云う。海岸沿いに隣接する長門市にも1haが確認されるから、この7.6haの大半は飯井・三見地区と考えて良さそうである。
ここでの栽培がいつごろに始まったものかは知り得なかったけれど、1870年代に幕藩体制崩壊後の士族救済策として始められたと聞く萩市の三角州を囲む斜面での夏蜜柑栽培の波及と思われ、ここも当初にはその果樹の植えられたものだろう。

1964年1月21日に開駅の飯井は、美禰線としての萩への延伸から40年を経て、ようやくに地元の請願の叶った駅である。10K590Mと距離の長い三見-長門三隅間の中間ながら、当初より要員無配置の棒線だったのは高度成長期と云えど列車回数の少なかったゆえだろう。飯井川橋梁(l=30M)に連なる高い盛土区間に置かれた乗降場からは飯井の入江がよく見えた。
写真は、飯井トンネルからの15.2パーミル勾配を下り駅を通過して往く2012D<まつかぜ>。後追いである。
飯井川にに沿って赤い石州瓦の集落が続いて、伊予柑の黄色と緑に映える景色の国鉄特急色にはモノクロームをお詫びするしかない。これに海の青が加わって、ここは地中海的南国なのだろう。

[Data] NikonF2A+AutoNikkor50mm/F2 1/500sec@f4 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.


戸田小浜 (山陰本線) 1974

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北の育ちなものだから、東京に転居してもしばらくは北の方が気になり、鉄道屋としても北海道や奥羽地域にばかり通っていて、1974年に幾度かの山陰方面への旅は神戸以西に足を踏み入れる初めての機会だった。なので西国の事情には疎かったのである。

道内版のほうに、北海道(少なくとも子供時代を過ごした札幌地域)では穴子をハモと呼び習わしており、随分と後になって西国の所謂鱧料理に出会い、頭の中をクエスチョンマークの飛び交った話を書いたことがあるけれど、この山陰方面ではラーメン(中華そば)にやられた。
最初は鳥取の駅前食堂だったと記憶するが、そこで注文した旅の定番食には、どう見てもタンメンらしきものが運ばれて来たのである。食べてみてもそれは正にタンメンであり、列車時刻の迫っていたこともありそのまま店を出たのだった。二度目はずっと西に下っての江津駅前である。ここでの注文にもそれはタンメンだった。さすがに店主へ間違いでは無いかと質すものの間違いなくラーメンと返答され、この地域(具体的にどの辺りまでかは分からないけれど)では、どうやら自分達の呼称するところのタンメンをラーメンと称すと知った。では、かの鶏ガラ醤油スウプのラーメンはと問えば、店主は品書きを指差して云うのだった。「ほら、あそこ。正油ラーメン」。なるほど。
遅まきながら、ごく一般的な食べ物が地方により呼称の異なるのを知る最初の機会であった。40年前のことであり、今では事情の変わっているかも知れない。

同じようなことは、1980年代に高山線撮影で立ち寄った名古屋でも経験し、そこでは「カツ丼」にしてやられた。それが全ての店でないことは後に知るけれど、カツ丼を頼んで出て来たどんぶりには、ご飯の上にトンカツと千切りキャベツが載っていたのである。これは、どう見てもカツライスだ、と店主に問うても「いいや、カツ丼だ」と言い張られて困ったものだった。そこでのカツライスとは、トンカツとキャベツが別皿、即ちトンカツ定食の様式を指すのである。カツを甘辛く煮て玉子で綴じたカツ丼は品書きに存在しない。これには、名古屋市内のみならず尾張・美濃地域ともに遭遇したものである。
やや事情の異なるが、博多では焼き鳥屋の「ねぎま」であった。立ち寄った店のほぼ全てで、その串に鶏と共に刺されていたのはタマネギだったのである。これは東京では見たことが無い。行きつけの店に聞けば、元々には博多の焼き鳥屋には無かった品書きで、東京からの転勤族あたりが持込んだものと云う。ところが当時に博多に長ネギはほとんど流通しておらず、やむなくタマネギを代用したものが、ここでの「ねぎま」と定着したらしかった。塩焼きのネギに出会えぬのは酒呑みには残念でもあったけれど、それはそれで旨い肴ではあった。

写真は戸田小浜駅本屋の窓越しに見るD51。この860列車は803D<さんべ2号>と続行の829列車(DF50牽引)との行違いで20分近く停車する。機関士と助士の不在は駅務室へ引上げて一服と云ったところか。
おそらくは、この本屋にデザインされた窓枠であろう。鉄道省はポスターばかりでなく駅舎も洒落ていた。
夜までここで粘るつもりの夕食は、駅から街道を少し下ったところの食堂で済ませた。もう慣れたもので注文は「正油ラーメン」である。

[Data] NikonF2A+AutoNikkor50mm/F2 1/125sec@f2.8 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

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