70's/80's Monochrome Age and Years of Ektachrome film

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福来信号場-焼石 (高山本線) 1982

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ダム水路式発電所とその取水ダムには、通常に共通の名称が与えられる。双方でワンセットの施設がゆえだろう。それには発電所所在の地名の採られることの大半なので、ダム側は現地と異なる遠く離れた地名を名乗ることが多々在る。
高山本線下り列車が、福来信号場を出てまもなくに差し掛かる第一益田川橋梁(l=135M)から間近に眺める発電所は中部電力の下原発電所と云い、2282メートルの導水管で繋がる先が下原ダムである。それの金山町中切地内への所在は理解するとしても、ここでは発電所も金山町下原とは直線で3キロばかりを離れた、これも中切地内である。
訝しく思い調べてみれば、当時の東邦電力が計画・建設を進めた1930年代には双方とも益田郡下原村域に位置した故の命名と知れた。
江戸期の下原郷16ヵ村であり、益田川沿いに渡村(金山町渡)から門原村(下呂町門原)までに門和佐川流域をも含む広大な地域は、美濃と飛騨の境界石を越えた高山藩領、後に飛騨郡代の管理する幕府直轄地、即ち天領(当時には支配所)であった。ここでの下原村は益田街道の宿場として発展した現在の金山町下原を指して、発電所にダムの金山町中切は、その北側の山林地だった中切村に由来と云うことになる。

下原発電所を背景に第一益田川橋梁を往くのは1041D<北アルプス>。云わずと知れた、名古屋鉄道キハ8000系列による乗入れ列車であった。
神宮前から富山地方鉄道の立山へ3社路線を直通していた時代であり、その3両に高山解結の3両の6両組成が所定なのだが、この日の高山回転への2両増結を知らずにいたものだから、縦構図とした画角に収まらなくなってしまった。後追いである。
当初に準急としての国鉄線乗入れ列車は、一方向き横型腰掛の装備に1976年10月改正から名鉄線内と同じく特急列車とされていたけれど、その転換式は特急・急行の普通車にR51型腰掛で簡易リクライニングがもたらされ、中京地区に同等設備の117系電車の投入された1980年代ともなれば、すっかりと陳腐化していた。
加えては、この系列に限らず運用効率の追求された名鉄に在っては、折返し清掃や整備の簡素化によるものか、車体・車内の薄汚れていたのが残念な列車と云えた。

[Data] NikonF3P+AiNikkor180mm/F2.8S 1/500sec@f5.6 Fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCC on Mac.

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撫牛子-川部 (奥羽本線) 1982

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オハ50形客車と基本設計を同一とした形式の車両群、即ち便宜上の50系客車(国鉄はこれら形式を系列と呼称していなかった)は、周知のとおり、1970年代後半に至って老朽化の進みつつ在った在来型客車の置替に計画・新製されたものである。その時点での製造技術による近代設計ではあるが、客車と云う性格上全ての線区・区間への入線と運行を優先し、車体設備や接客設備に自動扉の採用を除けば大きな革新の在ったで無く、単なる車両更新の範疇を出るものではなかった。
気動車や電車での新製の考慮されなかったのは、この当時に多くの客車運用列車が線区を超えた規模で郵便・荷物輸送を担っていたに加えて、老朽気動車の更新も要していた時期でもあり、1980年代半ばまでに1000両に迫るとされた需給予想からの予算上の事由が大きい。当時に機関車が余剰気味だったとは云え、いずれは更新を要するのだが、その10余年の後に郵便荷物輸送が消滅するばかりか、国鉄自体が瓦解してそれが旅客・貨物に分割されるなど想定外だったのだろう。
結果的に国鉄を承継した旅客鉄道会社に機関車保有のインセンティブは生じず、その老朽化には代替に電車や気動車の新製され、また、1980年代に地方交通線の転換が進んで気動車に余剰を生じたのも一因となって、1977年度の製造初年に対し1988年度には用途廃止の始まり、1990年代半ばにはほぼ運用を終えたのである。
客車にて新製の事由ともなった郵便・荷物車の併結についても、空気駆動式客扉の採用による機関車からの元溜管(MR管)引通しが嫌われ、荷物輸送の縮小時期と重なったことから幹線系線区では荷物列車へ集約されて、その機会はほとんどなかった。北海道線などでは併結運用に最後まで在来型が残留した他、それを要した場合にはMR管を装備するマニ50やスユニ50への形式変更も伴ったほどである。
とは云え、在来型の代替車投入を迫られる中で、将来想定のなされたにせよ、先行き不透明なそれに気動車・電車新製となれば、経年の浅い機関車の大量余剰には会計検査院に二重投資を指摘されただろうから、やはり選択は製作費の低廉な客車であったろう。在来型客車から気動車・電車への繋ぎ役を運命付けられた車両群だったと云えようか。

オハ50系列客車の奥羽本線秋田-青森間への投入は、1978年度第一次債務車両計画車35両の弘前客貨車区への配備により、1979年5月10日より同区間に上下33本設定の内15本列車の置替に始まり、全てが郵便・荷物車併結の無い運用であった。1979年度第三次債務車28両の81年3月の秋田運転区配置により置替は進むのだが、これも旅客車のみの運用が優先されて、併結運用には在来型が使われた。この際、例外が1833と626列車の一往復に生じたものの、全てにマニ50が充当され、在来型車へのMR管追設工事は避けられていた。
そして、1982年12月の1981年度第二次債務車の秋田20両/弘前18両の追加配備にて全面置替を完了したのだった。この時点で秋田-青森間に郵便・荷物車併結の運用は皆無となっていた。

奥羽本線は弘前の構内を抜けたところの半径400メートル曲線で右転すると、浪岡までの13キロ余りを直線で通過する。そこは津軽平野の只中であり、沿線には平坦な水田の広がるばかりの風景が続く。
記録を紐解くと、この変哲も無い区間に70年代末から80年代半ばに架けて都合5回も降りていた。何も無いところに画材と画角を見い出そうとしていたのだろうが、恥ずかし乍らそれは不発に終わったとしか思えない。
初夏の風、遍く渡り往く田園。列車は633列車の青森行きである。
ここでの全面置替が東北本線の盛岡-青森間に先行したのは、やはり荷物専用列車に集約し得る郵便・荷物車運用の少なさゆえだったろう。

[Data] NikonF3P+AiNikkor50mm/F1.8S 1/250sec@f8 Fuji SC48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCC on Mac.

大曽根 (中央本線) 1982

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1982年10月18日、月曜日だったはずである。
ホーム売店でビールと買い込んだ新聞に見出しを一瞥して、その夜が彼の地にとって特別とは承知していたけれど、然程に興味を持たなかった当時には特に意識するで無く、いつものように新幹線を降り立ち、同行のライターとタクシーで千種区池下に在った愛知厚生年金会館に向かった。某音楽誌から発注の、今宵そこでコンサートを持つ人気女性アーティストの取材のためだった。
コンサートの中盤、プロモーターの配慮だったのかステージトークの最中に舞台袖からバンドメンバーを経て手渡されたメモを彼女が読み上げると、客席から響めきと歓声が上がった。そのメモは、遠く横浜で試合を行っている地元球団、中日ドラゴンズの5-0でのリードを伝えるものだった。

この年のベナントレイスは、8月末時点での首位読売ジャイアンツとの4ゲイム差を9月に2位中日が猛追、同28日からの対読売3連戦初日の延長戦逆転勝利による逆マジック12の点灯を経て、勝率5割6分9厘にて全試合を終了した同球団に対しての決着は、中日のシーズン最終試合であるこの日の対大洋ホエィルズ戦に掛かっていたのである。
コンサートも終わり、タクシーを拾い手配されていた中区栄のホテルを告げると上機嫌のドライヴァは言ったものである。「今は栄には往けない」。
とにかく近くまでと走ってもらえば、手前の新栄町、東海テレビ前を過ぎた辺りでその訳が知れた。その先の久屋大通り公園のテレビ塔周辺にはおびただしい群衆が集まり道路を占拠していたのである。中日の優勝を祝って街へと繰り出した人々に違いなかった。タクシーを捨てて、誰彼構わず肩を叩かれ抱きつかれながら、爆竹の発砲と煙の中を群衆へと歩を進めれば、あちらこちらで選手宜しくのビール掛けが演じられ、公園の噴水に飛び込みを繰返す集団もあれば、延々と万歳と乾杯を繰返す集団もあり、サラリーマンから付近の飲食店の板前に割烹着のおばさんまで、あらゆる老若男女が集っていたのだった。広小路の名古屋三越には早くも「優勝おめでとう」の垂れ幕の下げられたにせよ、正面のライオン像を日本シリーズで対戦する西武ライオンズの回し者として糾弾する集団もあり、それに跨がって頭をポコポコと叩くには笑わせてもらったものだった。
この光景は、札幌に東京と暮らして優勝球団の歓喜と言えば読売のそれしか知らなかった身には衝撃ですらあり、地域に密着するプロ野球の醍醐味を初めて知った切っ掛けでもあった。翌日の中日スポーツは勿論のこと、まもなく中日新聞から発行された優勝記念誌にイヤーブックまでも買い込み、名古屋には縁もゆかりも無いのだけれど以後30数年来に中日ファンである。

写真は中央西線大曽根駅での113系電車。瑞浪まで乗ったこれは中津川行きと思うが列番は失念した。
東側の日本専売公社名古屋工場専用線の貨車操配線も西側にあった瀬戸線との貨車授受線跡も路盤の残る頃である(画角右端に見える)。
その年、高山線撮影のついでに名鉄瀬戸線に試し乗りした際のスナップだけれど、十数年を経てここに幾度も乗り降りすることになろうとは思わなかった。

[Data] RICOH 35EFL 40mm/F2.8 Auto Non filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

西金 (水郡線) 1982

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道内撮影からの帰路に思いつきで立ち寄った水郡線は、その後の数年間、実家への帰省の度に撮っていた。特に惹かれるところの在ったでは無いのだが、強いて云えばそこは水戸から至近の非電化線だったからである。
その核心区間は、やはり久慈川が八溝山地に蛇行を繰返す山方宿から矢祭山の奥久慈渓谷であろう。矢祭山北方の高い橋脚の第九久慈川橋梁や袋田の第五久慈川なども気にはなったけれど、中でも足場の多く取れそうな西金に降りるのを定番にしていた。

西金は吾妻線小野上と並んで関東地域一円の線路道床に用いられる砕石の出荷駅であることは、ご承知のことと思う。
ここで採取事業を行う関東商工株式会社によれば、久慈川対岸の山中での採取は1941年からと云うから、戦時下での開発は主には建設資材の調達目的であったろう。当然に西金には鉄道での移出設備が整備されたに違いなく、戦後の1946年に事業自体を同社が引き継いだとある。
1962年11月17日付での水戸鉄道管理局による水郡線貨物営業の見直しに際して、西金の貨物扱いは廃止されたのだが、その1962年日本国有鉄道公示第557号には「接続専用線発着車扱貨物に限り取り扱う」との但書きがなされ、この当時に積込設備は専用線だったことが知れる。道床用ばかりではなかった砕石輸送は国鉄の貨物営業に組み込まれていたのである。けれど、ここに幾度か降り立った1980年代前半時期に、水郡線貨物列車廃止前にもその搬出は工臨列車に依っていたと記憶する。使われていた貨車もバラスト散布装置を備えたホキ800形式にて、既に国鉄の事業用途しか輸送の無かったことになり、関東商工の国鉄納入品以外はトラック運送に切替えられていたのだろうか。専用線だった施設を国鉄が編入したものかなど、経緯は興味深いのだけれども手元資料の限りには調べ得なかった。

この1980年代当時に採取地から西金構内隣接の野積場への久慈川を越える運搬には索道が用いられており、それは予備知識無しでの初訪問後に入手の五万分の一地形図にも記入されていた。索道分野は不勉強なのだが、対岸山上と比高30メートル程に150メートル程の延長にて4本の鋼索が渡され、索道は2本と見て取れた。それぞれにバケット型の搬器1台が吊り下がり、野積場で下部を開放し砕石を落下させては山上へ戻って積込みを行う動作を繰り返す単純な循環式である。搬器2台の往復式としないのは支柱の区間両端のみの構造には荷重がそれで精一杯だったのだろう。日がな一日、ガラガラとした音を山峡に響かせていたものだった。
野積場での積替やホキ800形式貨車への積込はベルトコンベヤにより、山上側でのステイションまでの搬送にバケット積込も同様であったと思われる。

駅前から国道118号線の新道に出て西金大橋へ向かう手前で、湯沢川の細い流れを見下ろせる。山清水を集めて久慈川へと注ぐ無数の流れのひとつであるが、河川名称のあればそれは大きい方に属しようか。その先には短い湯沢川橋梁に築堤も見えて陽光に照り返す澄んだ水流に画角を採れば、ここでも竹林が覆い被さるのだった。
札幌にはなかったこれの苦手なことは、これまでにも何度か書いた。もっさりとした植生がどうにも納得できないのである。南方系の照葉樹の枝葉の広がった様も同様で、蒸機撮影の当時、当然に九州への旅を計画したのだけれど、出発直前に日豊線霧島神宮付近での先達のカットを目にして急遽いつもの道内行きに変更した覚えもある。
列車は普通343D。この旧盆期など多客期運転の9413D<奥久慈51号>は水郡線を定期普通列車のスジに乗っていた。つまり、その期間だけ343Dはキハ58/28の冷房編成と化すのである。

[Data] NikonF3P+AiNikkor28mm/F2.8S 1/500sec@f5.6 Fuji SC48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

梅ケ谷 (紀勢本線) 1982

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紀勢本線に向かうには、いつもの大垣夜行を名古屋に降りれば良いのだけれど、その東線側の核心区間までは100キロを越える距離が在り、近鉄の急行電車から松阪で気動車列車に乗継いで紀伊長島まで約3時間を要した。それでも伊勢線を経由する急行<紀州1号>は名古屋を8時30分だから、それよりは先着出来るのだった。
ここにもキハ80系列による特急列車の運転があったものの、この距離が災いして訪問は数回で終わってしまった。

この線区は、建設線名の紀勢東線西線とも1920年代以降の開通で、戦時による中断を挟んでの尾鷲-熊野市間に至っては1950年代にまでずれ込んだのだった。1959年7月15日の三木里-新鹿間の開業による全通は、これにて日本列島外郭の地方幹線網整備の完了をも意味していた。
それから6年後の1961年、ここにはそれら線区の優等列車網の一環として特急列車の設定が計画され、この際に、その設定上から11K500Mの線区最長停車場間距離の在った荷坂峠区間の大内山-紀伊長島間に交換設備を要して設置されたのが梅ケ谷信号場である。同年2月27日に運用を開始したここには地元大内村(当時)より駅設置の陳情もあったことから、国鉄もこれを受け入れ乗降場を設備して同年の11月1日を以て駅とされた。当時には連動閉塞施行につき運転要員が配置されていたが、格上げに際しても旅客要員は置かれず無人駅だった。1983年12月21日の亀山-新宮間のCTC制御導入によりその運転要員も引上げられている。

この1982年頃、ここの職員もしくは近所の住民に風雅な人物が居たのだろう。撮影に上った乗降場上面には竜安寺の石庭よろしく丁寧な箒目が入れられ、そこを歩くのが憚られる程だった。植栽の回りには自然石を配置する演出もある。
列車は、荷坂トンネルから構内に進入する130列車亀山行き、待機するのは129列車の新宮行きである。

[Data] NikonF3P+AiNikkor28mm/F2.8S 1/250sec@f5.6 Fuji SC48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.
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