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70's/80's Monochrome Age and Years of Ektachrome film

山寺 (仙山線) 1982

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それの観光資源化が進められて、季節の風物詩としてマスコミにも報じられるから「芋煮会」と聞けば、秋の山形を思い浮かべる人も多いだろう。
ここでの山形とは、巨大鍋イヴェントの開催される山形市とその周辺を指すことになるのだが、この家族・友人・職場・地区などの単位での親睦会的屋外料理の集団行事は、同じ山形県の庄内地方は勿論、青森県を除く東北地域一円に存在して、鍋っこ(秋田県)や芋の子会(岩手県)、きのこ山(福島県)などと呼ばれている。
宮城県仙台市とその周辺地域でも「芋煮会」の名称で行われており、河川敷での実施や味噌味の汁に具材も同一で明らかに山形内陸地域からの伝播と思われる。異なるのは、山形市では市街地を貫流する馬見ヶ崎川の河川敷が多用されるのに対して、仙台市内の広瀬川に例を見ることなく、八ツ森や奥新川と云ったその上流域や秋保地域の支川を含む名取川の上流域など山間部が会場に選ばれる。これは伝播の比較的新しく、芋煮そのものが目的である山形に対して、それが紅葉狩りなどのレクリエイション行動にともなうものとして伝わった結果であろう。
本家山形市でも、それのない訳ではなく、ここ山寺の立谷川もシーズンには多くのグループで賑わう。けれど、これより上流にその姿を見ることは稀で、仙台市側との相違は興味深い。

山寺とは、その駅前から仰ぎ見る天台宗の寺院、宝珠山阿所川院立石寺の通称からの駅名である。長い階段の参道を登り詰めれば、眼下に門前町の市街地を望める。
写真は、立谷川橋梁上の814M<仙山4号>、仙台行き。
仙台運転所による仙山線への単独運用の[A341]仕業の組まれていた頃で、これは山形から812-811-814-813-816-815と回る運用だが、816-815間で仙台所に入区して編成を差替えていた。

急行<仙山>への455系急行形電車編成(453・457系列を含む)の運用は、奥羽本線米沢-山形間の電化にともない1968年10月1日改正より山形に6403・6404Mとして乗入れた仙台運転所のTb車を含まない付属編成の間合いにて、それから分割したTc'-M'-Mc編成が2往復に充当されたのが始まりである。残存した気動車運用とは、面白山トンネル両側に連続する33パーミル勾配での走行性能から到達時分を20分以上も短縮するものであった。山形からの入線に付き、仙台駅在姿では編成前位が東京方になる。
72年3月15日改正以降には、旅客需要の増した訳ではないのだが、編成分割を廃して全編成6両での運転となって仙山線にスロハ32以来の特別車(旧2等車)が復活した。この当時に全車自由席のそれに何度か乗っているが、いつも回送のような有様ではあった。78年10月1日改正では、残存していた1往復とともに仙台からの運用に変更され、線内での編成が方転して82年11月15日改正での快速列車格下げを迎えるのである。
85年3月まで通票閉塞を施行していた仙山線にあっては、タブレットキャリアの走行中の授受に対応して、運転台後位の客扉を締切扱として窓部に保護枠を仮設していた。キハ58/28等と異なり常設構造でないのは、この系列の通票閉塞区間の運転など想定していなかったためである。

[Data] NikonF3P+AiNikkor180mm/F2.8S 1/250sec@f8 Fuji SC48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

福来信号場-焼石 (高山本線) 1982

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北海道内の特急列車と云えば80系気動車であったから、内地に転居すれば、そこの同系列の列車が気になった。
奥羽線の<つばさ>は70年2月にキハ181系に置替られていて、上野に発着していたのは、それから転用のキハ81を組成した<いなほ>に共通運用の<ひたち>であり、これは羽越線への蒸機撮影の折には、<白鳥>共々必ず撮っていた。
高山本線の<ひだ>も気にはしていたものの、食堂車の組成の無い特急らしからぬ編成(道内にも<おおとり>の例があった)に躊躇してしまい、そこに向かうのはずいぶんと後のことになる。
けれど、そこは訪れてみれば実に魅惑的な線区であった。ついつい道内編の御影 (根室本線) 1974にも書いてしまったのだが、そのロケーションも然ることながら、客車列車の設定こそないけれど、80系気動車や名古屋鉄道8000系による特急とキハ58/28の気動車急行の優等列車群に加えて、DD51牽引の貨物列車の設定も在って、それを40kgレールに薄い道床の軌道で輸送を支える姿は、電化前の奥羽線や羽越線の持っていた亜幹線のイメージそのもので、それに魅せられてしまったのだった。ただし、運行管理は美濃太田に設けられたCTCセンタによる近代化線区でもあった。

東京からは遠く無く、2・3日の休みの取れれば大垣夜行で岐阜に向かい、<能登>で富山から戻るスケジュールで通っていたのだが、84年の4月に北海道均一周遊券(第三種)-販売名ニューワイド周遊券の発売されてからは、その自由に経路の選べたX券を東海道/高山線から日本海縦貫線を北上するルートにして、道内撮影の途上に組み入れたりもしていた。これだと、首都圏発着に縁のなかった<日本海>に乗れる楽しみもあったのである。

写真は、第一/第二境平橋梁上の1033D<ひだ3号>。この日は基本編成に2両の増結がある。
キハ82の優美さは変わらないが、特急としての風格は幹線のそれである道内特急に敵わない。
下原ダム湖岸に位置するこの橋梁は、1920年代の建設工事着手後にここへのダム設置が決まり、その満水位が高山本線の施工基面と同位となるため、急遽縦断面線形の設計変更により架橋されたものである。近年には、高山本線の定番撮影地としてつとに名高い。
国道41号線側のここには、喫茶店とトラックドライバ相手の食堂が在り食事に困ることは無かったが、食堂の方は99年に廃業してしまった。今も喫茶店は健在だけれど、10年程前に経営者が変わったはずである。

[Data] NikonF3P+AiNikkor50mm/F1.8S 1/250sec@f8 Fuji SC48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.
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