70's/80's Monochrome Age and Years of Ektachrome film

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天ケ瀬 (久大本線) 1986

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国道210号線の湯山橋から玖珠川の上流側を望むと、久大本線の第七玖珠川橋梁手前に古い取水堰堤の所在が見て取れる。
土木の世界には疎いので、その工法を何と呼ぶのかを知らぬのだが、丸石の石積みにコンクリートを併用した構造は、この種の構造物へのコンクリート導入の過渡期の構築であり、人工の施設には違いないけれど、老いては川の一部のように景観に溶け込んで好ましい。
1913年12月に発電を開始した女子畑(おなごはた)発電所への取水堰として造られた「玖珠川ダム」である。ここでの取水は玖珠川左岸の山中を貫通した延長約7キロの導水管と開渠水路にて、落差73メートルを導かれる。

調整池を備えた当時に最新鋭の女子畑発電所は、その後に続いた本格的ダム式発電へ移行する前段階とも云え、富国強兵の国策の下、重工業の育成に不可欠な電力の確保に、猪苗代湖の湖水を用いた猪苗代発電所(現在の猪苗代第一発電所)と並ぶ大規模な電源開発事業であり、全国でも有数とされた最大26750kwの出力(その後29500kwに増強)は官営八幡製鉄所を始めとした洞海湾を囲む工業地帯の動力源であった。
取水堰の堤高数メートルにも「ダム」としたのは本格的な堤体を持つダムの無い時代ゆえだろうが、玖珠川を代表するかのような名称の付与は、この巨大電源施設を建設・稼働させた九州水力電気の矜持でもあったろう。1896年施行の『河川法』(1896年4月7日法律第71号)下ではダムと堰堤の定義が明確でなく、確かに「玖珠川」に設備された「ダム」だったのである。
それの全面的に改正された現行法規(1964年7月10日法律第167号)ではダムと見なされず、国土交通省九州整備局による発電データベースの記載は「玖珠川取水堰堤」となっている。

第七玖珠川橋梁を往くのは625列車。この鳥栖から豊後森行きの運用は、そのまま627列車の大分行きに繋がっていた。
水門を持たない固定堰である玖珠川取水堰堤には、越流する水量の無ければ、下流女子畑発電所の放水路までの玖珠川は河床が露出するばかりとなる。特に天ケ瀬で稚魚の放流される鮎の釣り人には不評を囲っているようだが、例えば上の釣で第五玖珠川橋梁を俯瞰する写真の鉄道屋にも些か物足りなかった。→ 豊後中川-天ケ瀬 (久大本線) 1987

余談ながら「女子畑」なる珍奇な地名に言及すれば、玖珠川左岸山中の台や金迫、漆原などの集落の位置する小盆地を古に「尾長畑」と呼んでいたものが、そこに祀られた「女子幡(おなごはたのかみ)」に読みのいつしか統一されたとの説があるものの、真偽の程は分からない。「畑」は山地での貴重な農作物生産地を示すとの解釈が一般的ではあるけれど、渡来人を祖とする「秦」氏一族の居住に因むとか、「叩く」に通ずる崩壊地名との説、山腹から平地へと続く地形を指す「端」の転化などの諸説がある。

[Data] NikonF3P+AiNikkor180mm/F2.8S 1/500sec@f8 Fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

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日野橋 (名古屋鉄道・美濃町線) 1986

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もう10年を経過するけれど、未だに2004年度末での美濃町線の廃止は腑に落ちないままである。
それに至るまでの経緯や経過などはWeb上に公表された資料も多くが見られるのだが、それらを考察して往く大前提として、美濃町線を運営した名古屋鉄道(以下名鉄)と、そこに並行路線を持っていた岐阜乗合自動車(以下岐阜バス)の関係がいまひとつ解らない。岐阜バスは名古屋鉄道を中核とした同じグループ会社のはずなのに、美濃町線を巡っての2社間には永年に渡り連携や協調の全く見られず、寧ろ敵対していたとすら伺える節があるのだ。
美濃や関から岐阜駅や中心市街地に直結したインターアーバンであり、加えて沿線地域にあれだけの住宅街に団地が所在して人口の張付いていながら、美濃町線ほど活用されなかった路線も珍しいのではなかろうか。本来ならば、交通政策上に日野橋以遠区間に何箇所かのバス交通との結節点を設けて、そこを起点に団地などと結ぶバス路線を再編成すべきだったはずなのだが、岐阜バスは市内直結運行に固執し、朝夕は云うに及ばず昼間帯にも国道156号線にはバスが数珠つなぎとなり、流入する一般車両と共に大渋滞を引き起こしていた。
当然に介入して調整すべき岐阜市当局の対応も不可解であり、同国道の拡輻のままならないのを一部で路盤を共用していた美濃町線に転化する一方、それの活用に新設軌道区間での速度向上を国交省に掛け合うなどのチグハグさを見せてもいたのである。
けれど総じては軌道系交通機関に理解不足は明らかで、永年のそれに業を煮やした名鉄が、2000年3月の鉄道事業法の改正により地元同意を経ずして鉄道事業の廃止の可能となったことを盾に「脅し」を入れ、双方の予断によるボタンの掛け違いから互いに引くに引けぬ状態に陥り、結果的に共に思惑の外れて廃止に至ったのが真相ではないかと思っている。岐阜バスに指導力を発揮出来なかった当事者同士の不信感は根深かったと云うことであろうか。
この顛末に、名鉄は将来経営に寄与したかも知れぬ線路を、岐阜バスは運行効率向上による保有車両の削減機会を、岐阜市は投資を抑制した効果的渋滞解消策を、沿線住民は定時性など利便性の在る交通機関を永久に失ったのである。けれど、何よりも廃止の動きに直面しての沿線住民の動きは極めて鈍く、この線路が住民意識の外にあったことが伺われる。名鉄の「脅し」は既に時遅く、岐阜市の反駁も住民には「遠い異国の出来事」だったのである。

日野橋停留所近く、軒先を走り去る電車。土に埋もれそうな線路は、古に街道上に敷かれた軌道線には当たり前の光景だったろう。京浜急行も阪神電車もそれから始まり高速電車線へと進んだ。ここは市場規模からその機会を逸したと云うことなのだろうが、それは遅れて21世紀にやって来たかも知れないのだ。

[Data] NikonF3P+AiNikkor35mm/F2S 1/250sec@f5.6 Fuji SC48filter NeopanSS Edit by PhotoshopCC on Mac.

豊後中川-天ケ瀬 (久大本線) 1986

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小学校の給食を懐古する風潮の在り、それのレシピを再現したカフェやらレストランの盛況と聞いて仰天したものだった。その体験には地域差や年代差の大きいとは理解しても、個人的には二度と出会いたく無い代物であり、懐古などとんでもないのである。
質の悪いとしか云い様の無いパサついたパンに、栄養価を満たせば良いだけで味付けは二の次だった副食、極めつけにはそれの種別を問わずに付された脱脂粉乳の組合せは思い出しくたくもない食事の筆頭と云える。午前中の三時限目ともなれば調理室から漂う複数の料理の入り交じったえも言われぬ匂いには悪夢の始まりを思ったものだった。
件の再現食堂の料理写真など覗けば、それがいつ頃のどの地域のレシピなのかは分からないけれど、自身の体験よりはマシと見えはするものの、アルマイトの食器に先割れスプーンは、やはり「餌」の域を出るものでは無く、「供食行為」とすれば実に礼を失したものだったと再確認する。
以来に、給食室からバケツに満々と運ばれて来たシチューの類いはどうしても苦手であり、食パンはどんな評判のベイカリーにせよトーストしないと食べられない。この年齢での体験とは後々まで尾を引くものとつくづくに思う。

南方の景観の多くを占める照葉樹や竹林の植生にどうにも馴染めないのも、子供時代にそれをほとんど見ていないからだろう。普段の景色として、また旅なら車窓にしている分には良いのだが、写真機のファインダ越しには違和感が募るのだ。先達諸兄の九州方面などの撮影を誌面に見ていて感じた居心地の悪さがそれと気がついたのは1974年に幾度かの山陰線往きでのことだった。海岸線は松林としても一歩内陸に入れば、そこは照葉樹の景観だったのである。
福岡に仮住いの頃、久大本線ばかりへと何度も通ったのは、そこに客車列車の残存していたことが最大の理由だけれども、ファンダに見る風光に覚えの在ったからにも違いない。

写真は第五玖珠川橋梁上の626列車、鳥栖行き。
山間の盆地である日田は近世から林業と木工産業に栄え、そこへと流れ下る玖珠川の流域も日田杉の産地だった。橋梁背後にもその美林が迫る。これは北で見慣れた光景だ。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/500sec@f4 Fuji SC52 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

天ケ瀬 (久大本線) 1986

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福岡で仮住まいの1年余りは記憶に残る日々だった。航空機での頻繁な東京との往復には倦みもしたが、羽田からモノレール・地下鉄を延々乗継いでの遥かなる都心に比べて、板付の飛行場の中心街天神からの至近が救いだった。九州人、中でも博多の人々のヒコーキ好きは、この身近な空港も要因に違いない。

そこの人間は実にフレンドリィで、拠点を置かせてもらっていた映像制作会社のスタッフ連中に連れられ、あちらこちらで楽しく呑んだ。中州には余り出掛けず、天神西通りから大名、警固、赤坂あたりが縄張りだったと思う。
かの「一風堂」が西通りの路地の小さなラーメン屋だった頃である。
玄界灘を始め九州一円からの肴は豊富で美味しく、しかも何にしろ都内では考えられない程に安いのだった。勿論、呑み屋街の横道の10人も入れないような鮨屋だったけれど、並の握りにビール大瓶で1200円、西鉄福岡駅近くの路上の天婦羅屋台に行けば一巡りに1000円で釣りが来た。大濠公園近くのレゲエ屋台(BGMが皆レゲエ)も、ちょい呑みに最適だった。ここは、一升瓶をボトルキープしておけば500円で呑めた。
桜坂の部屋から歩いた六本松の交差点に行きつけの店を見つけて、福岡に居れば毎日のように立ち寄っては、そこの常連達と別の呑み屋に出撃もしていたものだった。
そして、件の制作会社の連中とは車を出してもらって温泉に出掛けては、また呑んでいた。熊本県下まで遠征することもあったけれど、大抵は近場の久大本線沿線に向かった。玖珠川の広くも無い谷沿いに旅館の建ち並んでいた天ケ瀬温泉も行き先のひとつだった。そのまま一人だけ居残って翌日を撮影に充てたこともある。

天ケ瀬の温泉は動力揚水では無く、自然湧出である。泉温も高い。かつては玖珠川の河原を掘れば湯の湧いたと聞くが、いまでもそこには5箇所の共同露天風呂がある。なにせ河原なので衆目から覆いのかけられた湯舟も在ったが、気持ちの良いのは川の水流近く、増水時には水没前提に設けられたそれだった。さすがに真っ昼間の入浴は憚られたけれど、一日の撮影を終えた夕刻にひと風呂浴びてから列車に乗るのは快いのだった。そして、博多に戻ればまた六本松で呑んだ。
写真は、天ケ瀬温泉街の裏道を往く640列車、日田行き。河岸の共同露天風呂も見える。
久大本線は、玖珠川の谷の最も南側を通過していたのだけれど、その上部に国道210号線の新道が開削されてしまい、駅上空をその橋梁が通過する。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/250sec.@f4 Non filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

豊後中川-天ケ瀬 (久大本線) 1986

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沈下橋である。
地域により幾つかの呼称があるが、大分県域では「沈み橋」と呼ばれて、全国でもそれの架橋例の多い地域と云う。天ケ瀬から豊後中川へだいぶ歩いた久大本線の第5玖珠川橋梁の直下を交差して沈み橋が在って、北海道にはまず例の無いものだけに珍しく眺めたものだった。この玖珠川の流域には他にも架橋のあるようだが、鉄道の無いところへは往かないので実見したのはこれだけである。D60蒸機の走った時代の写真を見ると、杉河内手前の第9玖珠川橋梁近くにもそれが見て取れるものの、この頃には永久橋に架け替えられていた。

当然ながら沈下橋は谷を刻む流れには架橋されない。大分県域に例の多いのは、この区間のように山中の谷間ながらも谷底平地を持ち、そこを流れる河川が幅の在る浅い河床を形成する地形が広く存在することを示している。
加えての石橋も特徴的に思う。木製の沈下橋の地域では「流れ橋」との呼称もあるそうだから、ここでは確かに「沈み橋」なのであろう。それは低く河床に張付くように架設されている。
石橋には、この地域では日田石と呼ばれる安山岩質の石材を産出したから身近な材料だったに違いない。さらには、江戸時代末期からの肥後石工に師事した豊後石工たちの存在もあるように思うが、彼らの技法の主体は眼鏡橋(アーチ橋)だろうから、その技術の発揮されたではなさそうだ。
この橋に限れば、空中写真の確認から架橋は戦後1950年代のことと思われる。

第5玖珠川橋梁上の列車は639D、大分行き。
キハ58に挟まれたキハ40の車体塗色は、この年から国鉄九州総局が管内配属の普通列車向け運用車の標準として採用したもので、白色3号を基本に窓下に青色23号の帯を配していた。それまで青色23号を使用した国鉄車両は存在しなかったのだけれど、双方とも国鉄制定色に違いなく、九州旅客鉄道に引き継がれたこの塗色も国鉄色だろう。

橋梁近傍、上ノ釣集落の住民に聞けば、ここの「沈み橋」は名を持たないようだった。

[Data] NikonF3P+AiNikkor50mm/F1.4S 1/500sec@f5.6 Fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.
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