70's/80's Monochrome Age and Years of Ektachrome film

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前田屋敷 (黒石線) 1979

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黒石線は、1912年8月15日に鐵道院による黒石軽便線として開業している。それは、この津軽地域において1894年に弘前まで、翌年より大鰐方面へ延長された後の奥羽本線に次ぐ鉄道路線であった。その経路から外れた商都黒石を奥羽本線に、そして弘前への連絡を意図した鉄道であり、鐵道院が法定線に依らず、軽便鉄道法(1910年4月23日法律第57号)を国有鉄道線の「高規格を必要としない路線で、地元に起業者がいないか将来的に有望な路線」にまで拡大解釈しての建設は、そこに余程の政治的有力者の存在したのだろうか。
当初には、弘前への接続を計画したのだが、速成を意図して最短距離の川部を起点に変更の結果、予算の30万円が13万円余りにて開通と当時の新聞(東京朝日新聞1912年8月15日)は伝えている。同記事は、剰余金で川部-五所川原間を建設しての津軽横断線実現を地元が要請し、鐵道院も調査の上で内定とも書くけれど、それは私設鉄道の陸奥鉄道が1918年に開通させている。その経緯は調べてはいない。これも1927年に鉄道省に買収され、以降に黒石線(1922年9月2日改称)はその五所川原線(後の五能線)と一体に経営されて往く。
1935年4月15日より奥羽本線の大鰐から川部を経て五能線五所川原の区間にて開始された弘前地区におけるガソリン動車運転もこの線区を含んで、6.6キロの線内に唯一の中間停車場の前田屋敷は、その際に設けられた所謂ガソリンカー駅であった。

速成と予算低廉化を意図しての川部接続は、1927年9月7日に弘前から津軽尾上までを開業していた弘南鉄道が、戦後の1950年7月1日に弘南黒石に達するに及んで裏目に出る。弘南鉄道は当初より黒石延長を目論むものの、戦前には鉄道行政を掌握していた鉄道省が、旅客・貨物の転移は明らかと見て実質的にそれを阻んでいたが、国鉄の公共企業体となれば運輸省も免許を付与しない訳には往かぬのであった。
斯くして赤字運営の地域交通線となった黒石線を、その34年後に当の弘南鉄道が経営委譲を得たのは、自治体参加の第三セクタ化された場合の利便性向上からの逆流失を恐れて、それの安楽死を意図しての行動だったと思えてならない。

その線路には礼を失するが、ここは撮ろうとして訪れたのでは無いと白状しておく。奥羽本線撮影の折、川部に黒石行きの停車していたものだから往復のつもりで乗る内に、途中2時間を待つつもりで前田屋敷に降りてみたに過ぎない。稲作地帯に林檎果樹の散在はここでの特徴的景観かも知れないが、取り立てての変哲の無い沿線が淡々と続いていた。せめての救いは、収穫の季節に林立する穂仁王(ほにょ)だったろうか。
列車は132D、川部行き。
この頃には、弘前への直通も、運用の都合からの鯵ヶ沢行きも在った。

[Data] NikonF2A+AiNikkor105mm/F2.5 1/250sec@f5.6 Y52 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.
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