70's/80's Monochrome Age and Years of Ektachrome film

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焼石 (高山本線) 1996

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律令制に基づく東山道飛騨国の国府と云うから、奈良や平安の時代とあってはとても偲べるような古ではない。事実、それの正確な所在位置も確定出来ぬらしい。
とにかくに、それの置かれたことで中央(近江)とを連絡する官道が東山道の方県駅(現在の岐阜市長良)より分岐する支路として開かれ、駅路は方県駅-武義駅-加茂駅-菅田駅-下留駅-上留駅-石浦駅と経て国府に至ったと推定されている。基本的には木曽川から飛騨川の谷を遡る経路なのだが、それの山峡に激流を刻む区間は山中の峠を越えて迂回せざるを得ず、菅田駅(現在の下呂市金山町)から下留駅(現在の下呂市下呂)までも、今に中山七里と呼ばれる峡谷を避けて、火打峠・執幣(しっぺ)峠・久野川峠・竹原峠・初矢峠の五つの峠を越えていたのだった。
律令国家は、太宰府および五畿七道の全ての国府を連絡する交通路の整備に熱心であり、官道は最小でも6メートル程の幅員を規定していたらしく、切り立った峡谷斜面にそれを開くのは技術的工期的に困難であったのだろう。もっとも、初矢峠には鎌倉期には存在したとされる石畳が残るけれど、それの幅は2メートル程である。最小6メートルとは里道区間に限ってのことかも知れぬ。
この飛騨官道は謂わば支線区であったから、各国府とを往来する駅使の通行頻度から区分の大路、中路、小路では当然に後者であり、駅家(うまや)に繋がれた馬は五疋と推定されている。駅使は天皇より下賜の駅鈴に刻まれた刻印の数だけ、それと駅子(=駅家の掛員である)の徴用を許され、駅家から駅家へと旅したのだった。

金山町福来から比高300メートルばかりの火打峠を越えて下るのが門和佐川の谷である。東濃加子母村との境界を成す標高1000メートル程の稜線西斜面を水源に流れ下るこの河川は、山間を曲流して「和佐」の地名が生まれたのだろう。ワサはワザ、ワセとも云い、狭隘な谷の地形を指していた。
近年に開花期には照明のなされ、下呂温泉の旅館からは見学バスも走ると云う「苗代桜」は、この和佐集落の一角に所在する。Web上に開花状況が連日に速報されるほどで、それで気がついたのだけれど、この桜は高山線の第五飛騨川橋梁周辺のそれ →焼石-少ヶ野信号場 (高山本線) 1998 とほぼ同様の推移をする。線路の無いところへは往かない鉄道屋なので、門和佐川の谷を遡ったことはないし、和佐の暦櫻にも興味は無いのだけれど、同所での撮影スケジュール決定には毎年参考にさせてもらっていた。

門和佐川は、せいぜいに飛騨川へと注ぐ地点で透き通った水面を眺めた程度である。下原ダム貯水湖の湛水域がそこまで及んで、緩やかに流れる。
その位置には鉄道の門和佐川橋梁に並んで吊り橋の架けられていた。今は上流側の永久橋に替えて廃されたのだが、ついこの間の1980年代半ばまでは現役だった覚えがある。行者山の裾を回って線路へと続くだけの細道なのだけれど、かつてには焼石の集落を飛騨川対岸の益田街道に繋いでいたものと思う。
門和佐川橋梁を駆け抜けるのは1031D<ひだ11号>。

[Data] NikonF5+AiAFNikkor 50mm/F1.4D 1/250sec@f2.8+1/2 NONfilter EktachromeProfessional E100SW [ISO160/0.5EVpush] Edit by PhotoshopCC on Mac.

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杉原 (高山本線) 1996

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子供時代を札幌近郊で過ごしたので小学校での冬の体育科目はスキーだった。校庭には雪を積上げた斜面の造られていたし、荒井山へのスキー遠足も定例の行事となっていた。スキー板は運動具店ばかりでなく、靴屋は勿論、荒物屋に雑貨屋に、果ては学校前の文具店でも売られており、何より私道まで除雪の行き届かない新興住宅地に、それは通学手段でもあった。
日常の履物には特にスキー場まで出掛けて往く、と云う意識も薄かったから、内地に転じては自然と遠ざかっていた中で、おそらく二十代後半の頃だったと思うけれど、誘われてゲレンデに立てば、十数年振りのスキー板には難なく乗れたものだった。さらに二十年を経た四十代後半の時にも身体は覚えており、きっと今でもすぐに滑れるだろう。ただ、生憎と永年に混雑したゲレンデに出掛ける気にはなれず、それを趣味に楽しんだことは無い。けれど、降雪の頃となればスキーやスキー場のことは気には掛けていた。

日本生産性本部による「レジャー白書」に見れば、日本のスキー人口は1993年度に1770万人で過去最高を記録して以来に長期低落傾向に在り、2013年には480万人まで減じている。1997年より統計に現れるボード人口を加えても770万人である。しかも、ひとりのスキーヤーのシーズンにおける「平均参加回数」も1990年代前半の6回から2000年代には4回へ減少したとされている。
この事態は当然ながらスキー産業全体に影響を及ぼして、2000年代半ばに至れば中小スキー場の休廃業の目立つところとなっている。

宮川村(2004年から飛騨市宮川町)杉原に所在の「白木ヶ峰スキー場」も呷りを受けたひとつである。2008年度に年間入込み客数を3900人まで減らしたところで、経営する宮川スキー場開発株式会社(*1)は2009年度を週末に祝日だけの営業とし、続く2010年度の全面休止を経て、2011年12月12日付にて廃業・閉鎖を告知したのだった。
腰掛部を取り外された延長476mと572mの二基の特殊索道(*2)は積雪に埋もれ、夏期には錆びた姿を晒していたのだが、2013年春から解体工事の始まり6月にはすっかりと取り払われてしまった。
スキー人口が、まだ300万人台だった1972年12月24日の開業と記録されるここは、将来のそれの伸長を見込んでの地元資本による建設であり、近年の国道360号線新道である宮川細入道路の開通まで鉄道に限られた積雪期の富山側との往来には、開設期間中に金沢・富山着発の急行列車が杉原に臨時停車してスキー客を送込んでいた。勿論に名古屋方面からの入込みにも利用されたことだろう。それは、急行が特急列車に格上げされて以降の2002年度シーズンまで続いた。多くのスキー客の姿を認めた待合室には要員無配置化以降もストーブの焚かれていたものだった。
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(*1) 実質的に宮川村
(*2) 1980年1月に288mの一基を増設

峡谷を刻む宮川沿いの僅かばかりの緩斜面に開けた杉原の集落は、飛騨地域独特の屋根裏部屋を持つ切妻様式の家々の並ぶ景観に趣の在った。北側の牧花トンネル上部から眺める構内はそれを背景にした好きな画角で、季節や天候を変えて幾度も撮っていた。
散漫になるので画角からは排除しているけれど、此処に立てば白木ヶ峰スキー場の斜面が良く見える。
列車は828Dを待たせて通過する1021D<ひだ1号>。西日本旅客鉄道のキハ120が高山まで入っていた頃である。

[Data] NikonF5+AiAFNikkor ED180mm/F2.8D 1/250sec.@f5.6 C-PL filter Ektachrome Professional E100SW [ISO160/0.5EVpush] Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

角川 (高山本線) 1997

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角川なら玉屋である。ここに多々降りるようになった頃には食堂は止めてしまっていて食料・雑貨の営業だけだったけれど、食料(と云っても菓子パンの類いだが)に飲料の補給には欠かせない店だった。おそらく半月に一度程度だったろうパンの仕入れ(配送)には賞味期限ギリギリのパサつき加減だったものの、徒歩の鉄道屋には有り難い存在だったのである。
ここでの乗車券類簡易委託販売の受託先でもあり、丸めがねの恰幅良いご婦人が窓口に座っていたのをご記憶の方もあろうかと思う。あれが玉屋のおばちゃんで、撮影の度に世間話などから情報を仕入れさせていただいたものだった。

2004年10月にこの地を襲った台風23号の水害にて飛騨古川-猪谷間が長期不通となった高山本線は、翌2005年10月1日に角川までが復旧し、終端の代行バス乗継ぎ駅となった角川は列車の折返し運転に際して、下り本線の使用を停止して駅舎側の上り線のみにて扱いの行われた。これについては当面の終端駅でもあり、鉄道雑誌などで情報も得ていたのだけれど、玉屋への簡易委託契約の打切りは、2007年9月8日の全線開通後となった再訪にて知るところだった。
久し振りに再会したおばちゃんは、足腰を痛めていたこともあって列車時刻毎の駅通いの無くなって清々したとの弁ではあったものの、些かに張りを無くしたのも確かな様子に見えた。飛騨古川駅からの委託廃止の話しは2005年の春と聞いたから、それは復旧工事に関わり無く東海旅客鉃道の既定方針だったのだろう。
全線復旧の暁には使用再開と思っていた下り線も、被災前ダイヤでの夜間に一度のみの列車行違いには不要と判断されたものか、それを廃して棒線化されてしまったのだった。

写真は、上り線をゆっくりと通過して往く1026D<ひだ6号>の後ろ姿。
背景が山稜斜面へと抜けるこのホーム上からの画角では、季節や時間毎にそのスクリーンを楽しめた。そこまでのある程度の距離には、その空気感も写り込んでくれるので好きな場所だった。後追いが予定調和するような画角にはあまり出会えない。これは紅葉黄葉の始まりの頃である。
玉屋のおばちゃんは切符売りの傍らホームの清掃もしていて、この時は画角左側で落ち葉を掃き出していたものだから、特急が来たらホームに出ないようお願いした覚えの在る。
今は下り列車もやって来る画角なのだが、旧下り線の軌道撤去跡に荒れた乗降場も入り込むのには絵にならなくなった。
棒線化で用済みの跨線橋ばかりでなく、開業以来の木造駅舎も2010年秋までには取り壊され、翌年3月には小さな待合所に取って代わられた。最近に降りると、玉屋の店はひっそりと閉じられ、新聞の取り次ぎ販売も止めてしまったものか、その看板類も全てが取り払われていた。訪ねれば、おばちゃんの顔を出すとは思いもしたが、少しばかり躊躇する佇まいだった。

[Data] NikonF5+AiAFNikkor ED180mm/F2.8D 1/250sec.@f4 C-PL filter Ektachrome Professional E100SW [ISO160/0.5EVpush] Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

〔お詫び〕3月いっぱいに本業が極めて多忙となってしまい、更新の滞り気味なことご容赦下さい。

飛騨一ノ宮 (高山本線) 1998

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1934年10月25日の全通と記録される高山本線の建設目的は、岐阜-富山間で米原回りに比して60キロ余りを短縮する中京地区と北陸地区との短絡に在った。沿線に主要都市を持たなかったから旅客輸送には地域輸送が主体と考えられた様子で、5往復の普通列車と岐阜-高山間に準急1往復の運転されたのみであったが、こと貨物輸送においては両地域間の物流促進が期待され、実際に戦前期には伊勢湾岸に富山湾岸の工業地帯への原料輸送に製品出荷、沿線鉱産物の両港湾への搬出に寄与したのであった。
ただし、丙線規格での建設には最急曲線のR=250Mに最急勾配の20‰が介在し、特に高山以北区間でKS12で構築の橋梁負担力には9600形蒸機の入線が限界であり、それの飛騨金山以北での定数は37と輸送力には乏しかった。
戦時下に戦略物資輸送の幹線として重軌条化や信号場設置など北陸本線への投資が進めば、中京-北陸間と云えど輸送力の主体は移行して往ったのだけれど、戦後の復興期から経済成長期への一時期、爆発的に増加した関西方面と北陸間の貨物需要に対して、溢れる貨物の代替輸送路として再びに高山本線の注目された経緯がある。関西と富山以東直江津方面との連絡においても、高山本線は米原-富山間で北陸本線より10キロを短縮していたのである。

1958年当時のことである。北陸本線は敦賀の前後に存在し輸送の隘路となっていた急勾配区間の解消に、別線新線による複線電化工事に着手していたが、それには深谷トンネルや北陸トンネルを含んで、まだ4年の工期が想定されており、増え続ける関西対裏縦貫線の輸送需要に加え、輸送力の小さい高山本線より溢れた中京-北陸間貨物も米原へと迂回して、その容量をより逼迫させていた。吹田や稲沢の操車場には抑留車の累積する有様だったのである。この状況に対して、本来の中京-北陸間輸送を高山本線経由に戻し、併せては北陸線通過貨物の一部をも同線経由とさせる案が国鉄部内で検討されるに至った。
考えられたのは、牽引定数の向上を狙っての機関車の大型化、即ち岐阜-飛騨金山間のC58、飛騨金山-富山間の9600に替えて全線へのD51若しくはDF50内燃機の投入であった。いずれも列車設定を現行と仮定しても輸送量の増加は収益率も押し上げてC58/9600の使用に対して有利とされるも、両機の経済比較では新製を要するDF50は投下資本とその利子負担からも北陸線電化後には捻出もある手戻りには退けられ、D51の美濃太田機関区、高山機関区への配転案が採用された。これにより、飛騨金山以北を重連運転とすれば全線で900t牽引(定数90)が実現するのだった。
ただし、それを阻むのが丙線の低い線路規格と短い停車場有効長であった。D51の軸重14tは乙線規格を要したし、900トン列車のワム車換算45車の列車長は重連の機関車なら400メートルに達したのである。全線を乙線とする線路改修だけでも当時に10億円を超える投資には当然に見送られ、最高運転速度の50km/h以下制限を前提の軌道、橋梁負担力の強化が約1億1500万円と見積もられていた。加えては低速での運転に線路容量の不足する焼石-少ヶ野貨物扱所間に信号場の設置が2000万円を要するとされた。

この高山線輸送力増強計画は結局のところ、飛騨金山-高山間の軌道強化だけに終わってしまい、高山機関区には4両のD51が転属して1959年4月より同区間のみに運用された。高山以南区間については、丙線規格ながら幸いにも橋梁のみは活荷重KS15で設計されており、投下経費も少額で済んだことだろう。これで岐阜-高山間は通しで定数45となり(岐阜-飛騨金山間はC58でも定数65を確保)、捻出の9600を定数37のままの高山以北区間での貨物列車増発に振向ければ、線区全体の輸送力を向上可能と踏んだものと思われる。これでも、貨物運転の収益率は24.7パーセントを改善と試算されており、要員の増加は4名に留まっていた。

写真は、一ノ宮盆地から宮トンネルに取り付く築堤を上る4712D<たかやま>。この700メートル余りのR=250M曲線の築堤は20パーミル勾配の連続にほぼ半円形を描いて高度を稼いでいる。勾配は18パーミルで宮トンネル内を、その入口(久々野側抗口)の施工基面高714M10まで続き、標準勾配の19.9パーミルは飛騨小坂-渚間の同20パーミルと並んでD51導入を要した所以であった。
その時代には築堤全体を俯瞰する立ち位置のあったことが先達の撮影に知れるのだが、そこは歳月の経過に杉の樹林と化し、せめて洞上集落の道筋からとでも歩いても築堤の直近には倉庫らしきが建てられてしまい、それも叶わない。

[Data] NikonF5+AiAFNikkor 85mm/F1.8D 1/500sec@f2.8+1/2 C-PLfilter EktachromeProfessional E100SW [ISO160/0.5EVpush] Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

下油井 (高山本線) 1997

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高山へは大抵、横浜から大垣夜行に乗っていた。それの<ムーンライトながら>となってからも同じなのだが、「18きっぷ」のシーズンと重なれば、熱海から自由席客の乗り込む混雑に、深夜帯に入っても減光しない車内(375系にはその機能が無かったのだろう)、何より夜行慣れしない同乗客達のざわめきに閉口したものだった。今の185系での臨時運転は知らぬけれど、あまり変わらないだろう。鉄道の旅好きが多いはずの乗客には、静かでないと夜行の旅は味わえぬと申し上げたい。もっとも、減光もしないあれは昼行列車の延長のような列車だったのかも知れない。

岐阜に6時38分に到着して高山線ホームに向かえば、そこにはその日の<ひだ>全列車の編成表が掲げられていて、増結も多くて日毎に異なった編成長を確認出来るのが有り難かった。折り返しで停まっているキハ11の223Cは6時58分の発車で、これから美濃太田でキハ48-2両組成の229Dに乗継いで、時間的に高山以南に決めていた第一日目の撮影地点に向かったのだった。
229Dは下油井で高山を7時17分だった22D<ひだ2号>との交換に10分余りを停車して、その間にはホームに降りて駅の佇まいを眺めていた。CTC制御の導入が1968年9月と早く、それを線区経営の合理化とリンクさせるテストケイスでもあった高山線では、駅からの全ての要員引上げに際して構内通路によっていた上下乗降場間の連絡に律儀にも対象全駅に跨線橋を設置した。1920年代から30年代の開業時以来の姿を留めていた構内に時代の異なる異質の構築物の進入はその鉄道景観に馴染まず、違和感を覚えずにはいられないのだが、積雪地帯の壁面に屋根を伴った従来の跨線橋の範疇は良いとしても、それの少ない地域の各駅の道路横断歩道橋設計を流用した構造は古い駅舎に実に不似合いであり、山脚の斜面の迫る飛騨川沿いに曲線を描いた趣在る下油井でもそれを台無しにしていたのだった。
さらに付け加えれば、東海旅客鉃道は1997年までに管轄全駅の乗降場に白く塗られたパイプ、若しくは網状フェンスによる進入防止柵を設置した。高山本線も例外でない。この全くにその目的を果たしていない設備は、その冬の積雪で飴のように歪んでしまえば放置されるなど、その設置意図が分からぬのだが、一節には同時に施工の視覚障害者誘導用ブロックと共に、株式の上場の前にした同社が市場に全駅への安全対策施工をアピールする小道具だったと云われている。
これもまた、小駅構内の良い雰囲気をぶち壊してくれたいたのである。幸いにも、下油井の鷲原方には従来からの鉄柵の在って、設置は避けられていた。

下油井場内にゆっくりと進入するのは1027D<ひだ7号>。高速化工事の対象区間とは云え、ここは線形からもスルー化は見送られ通過列車は65km/hの制限を受ける。
富山行きの高山までの8両編成は所定での最長組成であり、特急列車の3両とか5両組成が当たり前と化した時代には十分に長編成に見えた。それの後部までを障害物なく画角にする位置を選んでいる。
画角には駅前の小さな集落が些か邪魔をするけれど、それも含めて曲線の構内に山脚の迫る背景も風趣である。せっかくに、後方の大銀杏が黄色に染まる時期を選んだのと云うのに、数日前の風雨に葉の散ってしまっていた。

[Data] NikonF5+AiAFNikkor ED180mm/F2.8D 1/250sec.@f4 C-PL filter Ektachrome Professional E100SW [ISO160/0.5EVpush] Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

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