70's/80's Monochrome Age and Years of Ektachrome film

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身延 (身延線) 1998

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身延は1960年代には身延線管理長も置かれた線区運営の拠点であり、1982年2月26日付でのCTC制御施行に際しては指令所が設置され、それの静岡センタへの統合後の現在も十島-鰍沢口間各駅を管理する駅長配置駅である。しかしながら、身延山久遠寺の門前町から発展した身延町の旧市街地は富士川対岸身延川の谷に位置し、北東へ直線で3キロあまり、県道9号市川三郷身延線を辿れば徒歩で60分近くを要する。
富士川を渡河しなかった富士身延鉄道による建設はその東岸を北上し、1920年5月18日の甲斐大島からの延伸により開業のこの駅も、そこに達すること無く対岸正面の大河内村丸滝地内に開かれたゆえである。
「身延町誌」(1970年身延町誌編纂審議会)は、それを富士身延鉄道の当初の身延市街に直結する富士川西岸線計画が同地域住民の鉄道忌避により東岸に変更された結果と書くけれど、資金零細なこの鉄道に富士川への架橋はどのみち困難であったに違いない。
鉄道橋は無理であっても吊り橋ならば然程でもない。1923年8月に渡船に替えて丸滝から対岸に架橋したのは当の富士身延鉄道であった。現在の県道9号線「身延橋」の前身である。経営の苦しい会社は、自社の運んだ参詣客相手に延長233m、14mの主塔を持ち「東洋一」と自称したこの吊り橋からも徒歩での往復に10銭の通行料を徴収したと町誌に在る。

現在も身延駅周辺には駅前の県道10号富士川身延線沿いに土産物店の建ち並ぶものの市街地の形成されるに至っていない。旅程の短い身延線行きに油断したものか持ち合わせの乏しくなってしまいATM設備の銀行なりコンビニを探したものの、どちらも見つからずに駅の観光案内所に尋ねれば「お山に往けば在る」と答えられて些か混乱したのだが、ここでは対岸の久遠寺ばかりでなく門前の旧市街地を含めてそう呼ぶらしかった。仕方なく駅前からの山梨交通バスで川を渡り教えられた停留所にて下車したのだけれど、そこは旧市街でもなく手前側の農地を近年に転用したらしきところで、市街地とするには疎らに過ぎる中に目指す銀行やら郵便局に官署などが建ち、寺に依存する以上でも以下でもない町の有様を見たような気がしたものだった。

富士川沿いを辿る身延線ではあるけれど、それを背景と出来る画角は意外と見つからない。県道10号線を大島方に辿って越える小さな峠はその数少ない位置であった。
和田トンネルに向かうのは4008M<ふじかわ8号>。
背景に1972年に永久橋に架け替えられた身延橋と日本軽金属富士川第一発電所への取水堰堤が写り込む。

[Data] NikonF5+AiNikkor105mm/F1.8S 1/125sec@f5.6+1/3 NONfilter EktachromeProfessional E100SW [ISO160/0.5EVpush] Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

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甲斐常葉 (身延線) 1997

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2004年以降には身延町常葉と云われても、どうにも落ち着かないのだが、かつての富里村を構成した巨摩郡11村のひとつ常盤村であり、それの町制施行にて下部町と改められてからも役場の所在した中心集落だったのが常葉地区である。然したる集落規模ではないものの、古の駿州往還の脇道である東河内路沿いに発達したゆえか古い街並も残り趣を感じさせる。そこでの古びた酒屋(酒販店)でのことは以前に書いた。
ここに身延から延伸の富士身延鉄道が達して甲斐常葉停車場の開かれたのは1927年12月17日であり、それは3ヶ月あまり後の翌年3月30日に省線の甲府に接続した。

山梨県はそれを待ち兼ねたかのように、県有林からの木材の搬出にこれを利用すべく、沿線に幾つかの林用軌道を建設した。山梨県域に国有林はほとんど存在せず、山林の大半は県有林だったため、ここでの林用軌道は農林省山林局に非ずして県の所管する県営軌道だったのである。鉄道屋でもその方面は門外漢にて全貌を知り得るではないが、最盛期にその総延長は300キロを超えていたと云うから、山間部の多くの地域に敷設されたものであろう。
この甲斐常葉にも栃代川(とじろがわ)沿いに杉山羽前場(はまえば)までの10.159キロに軌間762ミリの富里軌道が1928年3月に接続していた。動力はおそらく畜力(牛)と思われる。その運用終了を調べ得てはいないが、1960年代半ばには軌道の撤去され、林道(自動車通行路)への転換が進められていたと云う。ただし、数少ない情報をWebに拾えば、今も山間部には多くの遺構が残されている様子である。
甲斐常葉の現在にも残る上下別に副本線を持つ配線は貨物列車の着発に入換に対応したものであろうし、不釣り合いに広い駅前広場は、そこが林用軌道起点の土場を転用したゆえだろう。そこでの貨物積卸線の有効長も長かったことが伺える。

草薮と化している旧土場の奥を越えて杉の木トンネル近くに立つと緩くS字状に曲線を描く構内を見通せる。そのような形状の構内は珍しくは無いのかも知れないが、余り低規格のルーラル鉄道を撮っていないファインダには新鮮だ。試してみるのは一つしか無い。カメラ位置を成る丈低くして後追いのテイルランプを待つのである。ここは背景の斜面に人家や工場が散在して、それの暗黒に落ちないのが少しばかり惜しい。
速度を落として通過して往く光跡は4009M<ふじかわ9号>である。

[Data] NikonF4s+AiAFNikkor ED180mm/F2.8D Bulb@f16 Fuji CC35M+06B filters Ektachrome DynaEX [ISO160/0.5EVpush] Edit by PhotoshopCC & LR5 on Mac.

落居 (身延線) 1996

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甲斐岩間からの線路は富士川支流の山田川を遡り落居の先に割石隧道を穿って、同じく富士川へと注ぐ新川の谷に出る。この割石峠越えは古の駿州往還に、1680年代(天和年間)に富士川右岸へそれの遷移してからは東河内路と呼ばれた街道上に位置した峠である。戦乱の16世紀には大門から岩間へは帯那峠越えであった経路を、富士川の水運の開かれて西寄りに付替られて以来とされる。
これにて、筏士などの帰路にはあまりの迂回となり、しかも標高650メートルまで上った人馬の難所は解消したけれど、最高所の400メートル程に下がりこそすれ同じく峠越え選ばざるを得なかったのは、笛吹川と釜無川が合流し富士川と名を変えて甲府盆地を流れ出る水流が鰍沢から狭い峡谷を曲流するゆえであろう。
その開削は頂上付近で岩を割っての難工事と伝えられ、割石峠の名の由来となっている。近代に至り、1911年にその峠道直下に開通した県道の割石隧道も開削に12年の歳月を要したとある。

1927年12月17日に身延から市川大門を開通した富士身延鉄道も、波高島から下部、常葉集落に立ち寄るための迂回を勝坂隧道(かんざかと読む-現下部トンネル)の掘削までして富士川流域に戻りながら、再度の峠越えは古くからの街道沿いに集落の発達したのに加え、やはり岩間からの富士川の険しい地形を避けたものだろう。割石峠も延長840メートルの割石隧道にて難なく通過している。

前記の県道が旧道と化して上部を巻いているのを五万分の一地形図に確認の上で、車窓にロケハンして現地を歩いては見たものの、ここの線路は峠道にはほど遠い、あっさりとした線形や沿線風景には些か拍子抜けしたものだった。それでも落居から峠まで比高100メートルの機材を背負っての急坂に、徒歩交通時代の難所の片鱗を感じたものである。
列車は4001M<ふじかわ1号>。
旧道割石隧道の南側で分岐して神有集落に至る道から、なんとか峠道らしい画角を探し出した。線路が並行する新道から離れるのは、この区間くらいしか無い。

[Data] NikonF4s+AFNikkorED180mm/F2.8D  1/125sec.@f4+1/2   C-PL filter   PRP  Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

甲斐大島 (身延線) 1996

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トンネルよりも小学校が先だったのである。
富士川沿いの田園風景を撮るつもりで甲斐大島に降り、和津の伊勢神明宮に向けて宮の下踏切(起点39K874M)まで歩くと彼方の大島トンネル上部に平坦な土地が見えた。集落を抜けてやがては坂道となる田舎道を辿れば、建てられた記念碑にてそこがかつての小学校跡地と知れた。

此処に在った大河内小学校大和分校は、1902年1月に創設された大河内村の大和尋常小学校をその直接の前身としていた。1955年2月11日付にて身延町と合併した大河内村は、かつての身延町の富士川対岸に大島地域から帯金地域に至って所在した自治体である。その南部の大島地区と和田地区には1875年に相次いで教習所が開かれ、それぞれ大島学校、和田学校と称していた。これが1884年に合併して大和学校を名乗り、やがては大和尋常小学校へと改組されるのである。お判りの通り「大和」は地区名の合造であり、本来なら「おおわ」とするべきだろうが「やまと」と読んだ。
この大島トンネル上の敷地へ校舎を新築しての移転は1904年9月と記録される。大島と和田のほぼ中間、大島字的場の山腹斜面を削る大規模な土木工事は、学校が地域/地区の象徴的存在だった当時に、その校舎を両地区から見通せ、また子供らに自分達の地域をそして富士川を校庭より見下ろす視点を与えたかったものだろう。

1919年4月8日に甲斐大島までを開通し、翌年5月18日に身延へ延長の富士身延鉄道は富士川左岸まで山稜の張出したこの地点を隧道で通過する他には無く、ここに大島隧道が建設された。余り類例の無い学校敷地下の隧道である。
1970年代の末、北区赤羽台地内の東北新幹線通過に際し星美学園敷地へのトンネル建設には、散々揉めた挙げ句に多額の賃借料にて決着した事件が記憶に新しいけれど、ここは待望の鉄道路線であり、電気運転にて煙に燻されることもなかったから、寧ろ学校のシンボルとして歓迎されたに違いない。

写真は、その校庭跡地から見下ろした4001M<ふじかわ1号>。
ここは和津集落からトンネルに向かって気持ちの良い盛土区間が続いていた。

戦後の大河内村立(→身延町立)大和小学校は、1972年に帯金小学校と併合されて大河内小学校大和分校となり、翌73年には本校の身延町丸滝への移転に際してそれに統合、廃校となったのだった。『身延町誌』(1970年身延町誌編集委員会編)には1934年の台風被災にて建替えられたと云う好ましい木造校舎が示されている。健在な当時には良い添景となってくれたことだろう。

[Data] NikonF4s+AFNikkorED180mm/F2.8D  1/250sec.@f5.6+1/3 PLfilter Ektachrome Professional E100S [ISO160/0.5EVpush] Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

甲斐常葉 (身延線) 1996

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甲斐常葉は、富士身延鉃道が1927年12月27日に身延から市川大門までを延長した際、下部町(当時)の中心集落常葉に開かれた停車場である。用地を集落とは常葉川を挟んだ対岸に求め、地形の関係からか小さな構内にかかわらず対向曲線上に位置して、好ましい佇まいを見せていた。しかも上り方は杉の木トンネルの出口抗口に接する。構内がエス字線形の事例は国鉄線にそれほど多いとも思われず、出自の地域交通線たる私設鉄道の現れとも云えようか。
この鉄道の建設が準拠した地方鉄道建設規程(1919年8月13日閣令第11号)も当時の国有鉄道の鉄道建設規程(1900年8月10日逓信省令第33号)も反向曲線上への停車場設置を禁じていた訳ではないが、ここのような構内延長の短い場合なら鐵道院や鐵道省の建設線では余程の制約でもない限りは避けられていたものである。しかも、ここは上下にそれぞれ待避線をともなって、それもエス字状であるから、構内有効長より判断するに長編成列車はなかったにせよ、上り方の貨物積卸線が稼働していた時分の入換作業では見通しに難儀したことと思う。これを見ていれば、辺境の天北線や名寄本線はやはり本来の幹線と納得してしまい、永年そのような線区ばかりを撮っていた身には新鮮に映るのだった。

散策に出た常葉の集落は然程に大きいでは無いのだが、そこの酒屋では沿線の地酒、鰍沢口から遠くないところに在る酒蔵である萬屋酒造店の春鶯囀(しゅんのうてん)を売っていた。しかもエントリィクラスの本醸造酒ぱかりでなく純米も吟醸酒も置かれて驚喜したのだった。それは酒呑みの間では、なかなかの人気銘柄なのである。地元とは云え、このような集落規模の酒販店の多くが地酒の在ってもせいぜい普通酒(* )で、それとは名ばかりの食料品店と化す中では珍しく、以来その四合瓶を土産に持ち帰るのは常態になっていた。いつも、ここでの撮影をその日の最後としており、持ち帰りの重さも気にならなかったのである。(* ) 萬屋酒造は全てが特定名称酒で普通酒は生産していない

身延の近辺で撮っていれば夕刻には必ずこの駅へと移動していたのは、走行撮影が国難なその時間帯に、ここで上下の<ふじかわ>が離合していたからである。件の酒屋で酒を買い込み、駅前の食堂で飯としながら夕闇を待ったものだった。
写真は、運転停車の8082M(右)とゆっくりと通過する4007M。エス字線形の構内がお分かりと思う。
撮影位置はヤブ蚊のとんでもなく多いものだから、忌避剤をたっぷりと塗り込んで踏み入っている。

[Data] NikonF4s+AFNikkorED180mm/F2.8D  1sec.@f32 Fuji LBA2filter Ektachrome Professional E100S [ISO160/0.5EVpush] Edit by PhotoshopLR5 on Mac.
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