70's/80's Monochrome Age and Years of Ektachrome film

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龍ケ森 (花輪線) 1971

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1970年代前半の蒸機ブーム末期に、盛岡鉄道管理局はそれを増収策と捉えてか、撮影者を集めてのイヴェント開催に熱心だった。8620の三重連運転で名を馳せた花輪線でのことである。
手元の記録にあるだけでも、それは1970年8月9日と10月11日、そして内燃機への置替も間近に迫った1971年9月25・26日に開催され、龍ケ森の見学者ノートに住所氏名を記入していたせいか、事前に同駅から案内の葉書までが届いたものだった。
今時と異なり、盛岡等近隣からは自動車でやって来る撮影者も居たけれど、首都圏や仙台方面からはほぼ全てが鉄道利用であり、それを織込むならば確かに相当の増収をもたらしたはずである。
盛岡から始発での龍ケ森入りを狙って前日の<八甲田>に乗ったのだけれど、仙台以南区間への最終列車でもあり、青森に6時過ぎと云う時間帯の良さからも週末には普段から行楽客や山行客の利用の多いこの列車は、まるで盆暮れのような賑わいを見せたものだった。確かに銀箱に三脚の一群が余計だったことになる。途中仙台からもそれを加えて、通路まで身動きの取れぬまま到着した深夜の盛岡駅待合室は、先着組を含めて龍ケ森を目指す撮影者達で溢れ返っていたのを思い出す。未明からのこれだけの集客までは読んでいなかったものか、始発の大館行き気動車はいつもの3両編成で、これも龍ケ森組で満員であった。

「SL三重連撮影会」と銘打ったこれの目玉は、勿論その頃に後機後々機の三台運転は在っても69年を最後に定期運用では無くなっていた前機前々機の三重連の復活にあるのだが、71年の開催では、一方の補機解結駅岩手松尾に転車台のないことから逆向き後機しかあり得なかった上りにもそれの運転されるのが特別なのだった。関連運用の補機解結を好摩に変更、機関車は云うに及ばず乗務員から構内作業員ダイヤまで変更してのことである。
また、70年には盛岡との間に(回送で荒屋新町着発)<竜ヶ森高原号>のトレインマークを付けた重連牽引の送客列車の運転も特筆されよう。
当然ながら大場谷地峠の沿線には至る所に撮影者の貼り付き、それの排除にはコンテに思い描いた画角など困難だったのは云うまでも無い。70年はまだしも、おろらくそれの倍は集客したであろう71年には、加えての飛び交う罵声に嫌気の差して二日目には峠を敬遠したものだった。→ 赤坂田-小屋の畑 (花輪線) 1971

写真は、おそらく最初で最後だった上りの正向き三重連、966列車。
ただシャッタを押しただけに終わってしまい、これ以後にはイヴェントの類いには近づかなくなった。

[Data] NikonF PhotomicFTN+P-AutoNikkor50mm/F2 1/250sec@f4 Y48 filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

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龍ヶ森 (花輪線) 1975

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岩手県岩手郡松尾村に所在する標高679メートルの龍ヶ森がスキー適地として衆目を集めるのは戦後のことである。1926年11月10日に、ここへ鉄道の開通し龍ヶ森信号場が置かれた以降には、当時に普及しつつあったスキーの実践者に、その車窓に見えた広大な斜面は注目されたであろうが、戦前の岩手県のスキー場案内に沿線の田山は記されても龍ヶ森の名は無い。

戦後の1952年(*1)にこの信号場の廃止されてしまい到達手段も無くなっていた中で、1957年1月3日の信号場跡地への乗降場開設は、盛岡からも手近であり、列車で到着すれば眼前が滑降地と云う龍ヶ森斜面への誘客を図ってのことである。当時より盛岡鉄道管理局はスキー客誘致に熱心で、1952年には松尾村寄木に山の家「もみ山山荘」(*2)も設置していた。
ここでの乗降は、1959年(*3)の信号場の再設置以降も勿論そこの客扱いとして継続されていた。
この国鉄の措置により来訪者を増やしつつあった龍ヶ森スキー場に、地元松尾村は当時に不可欠の設備とされつつあった特殊索道(現乙種索道-スキーリフト)の導入を決め、1961年12月28日より運用を開始とした。同日を以ての信号場の正駅格上げは、これを受けてのことである。
旅客フロントを持つ新本屋を設置するでなく、旅客扱いの実態に変わりないのだが、待合室に替えては当時に用途廃止の進んでいたオハ31形5両の車体を連ねたヒュッテを構内に開設したのだった。「山の家」の簡易ヴァージョンとも云え、国鉄が直営した。1962年シーズンからは、同年より運転を開始した準急列車の臨時停車も行われていた。
ここへ8620形蒸機の三台運転を目当てに初めて降り立った1968年は、この現状の時期であった。夏期とあってヒュッテの営業はなされていなかったけれど、休憩室とされた1両は車内が開放されていたと記憶する。鉄道屋ばかりでなく、ここへやって来る登山・ハイキング客を意識してのことに思えた。
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(*1) 8月5日付での廃止とされるが、確証が無い。
(*2) 1970年まで営業し、後に国鉄は解体跡地へ「八幡平リゾートホテル」を建設・運営した。
(*3) 月日付名。鉄道公報に記載がなく、おそらく盛岡局の局長達によると推定。

ここでの蒸機撮影の狂乱は別項に譲るとして、写真は喧噪の去った1975年に再訪した際の撮影である。標高500メートル の初秋は深々と冷え、虫の音に響く閉塞器の電鈴は二度と聴くことの出来ない駅の情景である。
客車ヒュッテ側から撮っているのだが、それが据え替えられたオハ46の車体であったかの記憶はない。
光跡を残して通過するのは、914D<よねしろ2号>盛岡行き。19時10分通過だが、ここを通る上りの最終である。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.8 Bulb@f5.6 NonFilter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

龍ヶ森 (花輪線) 1968

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まだ札幌に住んでいた頃、1968年から70年まで毎年に写真の師である親父のお供で北東北へ遠征していた。行き先は羽越本線今川に奥羽本線矢立峠、それに花輪線は龍ヶ森であった。1968年の夏と云えば東北本線に大型蒸機も健在だったけれど、この年5月16日に発生した十勝沖地震の被災からの復旧にて遅延するかと思いきや、既に全区間で電車線路の架設を終わり、通電も近いと伝え聞いて諦めたものだった。
龍ヶ森へは1971年の無煙化間近に行われた三重連の復活運転に再訪しているが、この時がそれに接した最初の機会だった。
なにより、8620なる機関車は、当時の道内では札幌から離れた名寄に池田、そして釧路に少数が残るのみだったから実機を見るのも始めてである。苗穂にも居た9600と同時代の旅客用機との知識どおりに、それに比べてかなり細身の華奢な印象で、かつて東海道線で優等列車を牽いたとも知っていたから、このルーラル線区の急勾配を3台運転をしてまで貨物を牽く姿には一抹の侘しさを感じもしていた。
それでも、細いボイラに似合いのやや甲高いブラストが三重連ともなると、時に同期し時にバラけてそれを波のようなウネリのリズムに繰返しながら、ゆっくりと勾配を近づいて来る様にはすっかりと魅了されたのだった。それは岩手松尾を発車して間もなくから、この標高500メートル余りの峠まで途切れ途切れに届いていたと覚えている。
ここでの補機は、一方の解結駅の岩手松尾に転車台を設備しないため常に荒屋新町方を正位として運用されていた。したがって上り列車には逆向きとなって後機・後々機を定位とし、前機・前々機は下り列車に限られたのだが、補機連結順位は松尾での構内作業ダイヤにて決まり、多くは後機、後機・後々機、あるいは前機に後機の運転となって、この時期に三重連運転は昼過ぎに1本だけだったと記憶する。
蒸気機関車がブームと呼ばれ始めて、定番の位置であったこの腰の森隧道からのR302曲線区間は多くの撮影者を集めた。けれど、この1968年の夏休み期間中の一日に数えたのは5人に満たない。これは函館本線の上目名とて同様で後々の狂乱はまったく想像出来なかった。
付け加えさせていただけば、この当時に撮影に出て御同輩に出会うこと自体、あまりない体験でもあったのだ。

このBlogの表題の範疇を外れてしまうのだが、この68年からの内地撮影も今後に加えさせて頂く。
列車は前機と前々機の三重連運転の965列車。この頃に大場谷地峠で撮影可能な蒸機列車は昼間に6本があった。38688は荒屋新町区の配置で、ほぼ補機に専用された機関車である。

[Data] NikomatFT+P-AutoNikkor135mm/F2 1/250sec@f5.6 Y48filter NeopanSS  Edit by CaptureOne5 on Mac.

赤坂田-小屋の畑 (花輪線) 1971

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内地に転居して、そこから北海道へ通うようになった頃、青函を渡る前の地域の蒸機運転は終末期を迎えていた。
この花輪線も1971年の秋にはDE10の投入が予定されていて、それを前に幾度か実施されたファンスペシャルに<八甲田>の客となったのだった。
この特別運行は、この頃には定期仕業で無くなっていた下り列車での前々補機、すなわち三重連を再現するばかりでなく、岩手松尾に転車台設備の無く、新町向きを定位としていた関係から後補機に限定された上り列車でも、それを施行するものであった。このためには機関車/乗務員/構内作業員の運用に大幅な変更を要して、盛岡鉄道管理局の大盤振る舞いである。

梅雨の季節にもかかわらず、午前4時前に到着した盛岡では大勢の下車があり、その待合室には一見してそれとわかる駅寝の姿も見られて、大館行きの始発列車は岩手松尾や龍ケ森を目指しての撮影者で満員の有様であった。龍ケ森に降り立てば、定番の腰の森トンネル出口側のR302曲線区間と云い、龍ケ森トンネルを赤坂田側に抜けた区間と云い、沿線には人々の貼り付いて、とても画角の選べるものでは無かった。人出のある現場は、函館線の上目名で経験済みではあったけれど、ここはその比ではなく無秩序で罵声の飛び交う様には呆れたものだった。
この光景は、まもなく各地で再現されることとなり、それは大半が鉄道屋とは云えぬ俄参入者によるものと思う。

この大場谷地峠区間の喧噪に嫌気の差し、翌日には、そこから下った里の区間にロケハンして、安比川橋梁近くに稲架掛け(はさがけ)の木組みのある景色を見つけた。
列車は、966列車。前述したように通常なら見られない上りの三重連運転である。
まもなく差し掛かる22.7パーミル勾配に備えて力行してくれたのが有り難かった。

[Data] NikonF+P-AutoNikkor50mm/F2 1/250sec@f5.6 Y48 filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

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