70's/80's Monochrome Age and Years of Ektachrome film

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米沢機関区 (米坂線) 1971

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米沢機関区の庫での時間は記憶に鮮やかだ。足早にスナップして歩く程度のカットしか撮れないことの多い機関区詣の中で、1968年10月改正以降に残った米坂線と長井線の支線区運用には深夜の出入区の無くなっていたここでは、その時間帯を選べば庫内でじっくりと機関車と向き合えた上、米沢の待合室で駅寝の身には頗る好都合でもあった。

駅前から凍り付いた雪道に足を取られながら南側の踏切へと迂回すれば10分程で機関区の正門に到達し、当直の保火番が詰める事務室で許可を請う。備え付けの帳面に住所氏名を記入しての口頭での注意事項は、夜間ゆえに庫外での撮影禁止であった。
この頃、同じような体験をなされた向きも多かろうとは思うが、あの情景を何と表現すれば良いのだろうか。巨大な生物の眠る住処に迷い込んだとでも云うのは、些か物語に過ぎる気もする。けれど、うす暗い庫の中では何杯もの缶罐がまさに寝息を立てていたのである。深とした静けさに耳を澄ませば、まるで薬缶のように沸々と湯の上がる音に、どこからとも知れぬ蒸気の吐息、そして缶圧の変化にボイラの軋みが聴こえ来るのである。それはそれで賑やかとして良いかも知れない。庫内は保火の石炭の匂いと水蒸気に満ちて、ほの灯りはまるでステージ照明のごとくに機関車を浮かび上がらせてくれるのだった。
この光景を眼前にしては、短いバルブの間、カメラはレリーズの先の三脚の上と云うのに思わずに息を止めていたのを思い出す。

9634の経歴についてはWeb上にも記述の多いので繰返さない。この頃には蒸気機関車の物理的命数と云われた車齢60年に至らんとしていたけれど、調子の良い個体だったのか峠では本当に良く出逢った。かつて装備していた集煙装置に化粧煙突を切り詰められるなど、決してプロポウションの良い機関車では無かったにかかわらず、当時に通例だった若番機人気から1972年3月14日を以ての無煙化に際して、惜別記念列車となった125列車を79606と重連で坂町までを牽き、米沢へは130列車を59634との牽引にて帰区して、翌日には火を落としたと聞いた。この時、小国で見送った130列車は 小国 (米坂線) 1972 に書いている。
9600形式のテンダは新製時の差異やその後の改造、振替などにより多様な形状の混在しているのは周知の通りである。9634は石炭増量の改造を受けたものと思われ、本来の古風な二段型形状は失われていた。これも同機のプロポウションを崩す一因だったろう。
後面に付された[450立方呎]のプレイトは1910年代、鐵道院の時代からの炭水車容量表示であり、9600のそれは6-13型であった。

[Data] NikonF PhotomicFTN+P-AutoNikkor5cm/F2 Bulb@f8 NON filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

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手ノ子 (米坂線) 1971

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飯豊町の手ノ子は標高の260メートルばかりを上がるのだけれど、広い白川の川底平野に里の景観だった。駅からの道は、辛うじて集落内は舗装されていた小国街道(国道113号線)を越え、川辺ヘ向けて緩やかに傾斜して往き、両側には樹木を背景に雪囲いをした民家が続いて雪国の風情を見せていたと記憶する。北の育ちにはそれの無い東京を物足りなくも思っていたから、長い蒸機列車の合間には懐かしくも眺めたのだった。この頃、内地に転居して知り合った人々の多くがこのような里の風景を寒々と感ずるらしいことを知り、実は衝撃を覚えていた。北国育ちは、それにストーヴの焚かれた室内での温々とした冬の暮らしを思うのである。

長井盆地に特徴的な屋敷林を伴った散居村の景観は川底平野にも続いて、川岸から振り返れば、まとまった集落をなしていた手ノ子も民家と集落の屋敷林が混交した美しい姿と記憶している。最近の衛星写真に見れば集落は一回りも二回りも小さくなった印象である。そこの家屋構造の変化や農業を取巻く環境の変化は屋敷林を不要とするに至り、住民の高齢化も加わって手を入れられなくなった例も多いと聞く。久しく通過すらしていない手ノ子はどう姿を変えたものだろうか。

このブームと呼ばれた蒸機運転末期の手ノ子駅の様子は、以前の記事 手ノ子 (米坂線) 1971 に書いた。
この日も、米沢発の一番列車からは多くの撮影者が下車してごった返す待合室には、些か嫌気の差して峠を避けて反対方向の羽前椿方に歩いたのだった。県道の中郷橋あたりまで戻ると掘割状の切取り区間の在ることを思い出したからである。案の定、他に撮影者の見当たらずに風景を広く取り入れられた。
朝の斜光線に、思いがけず9634を本務に重連でやって来たのは123列車、坂町行き。客車組成に増結は無かったから次位機は上りに関わる送込仕業であったろう。緩い勾配にはブラスト高らかに駆け抜けて往った。

[Data] NikonF PhotomicFTN+P-AutoNikkor50mm/F2 1/250sec@f5.6 Y48 filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

越後金丸 (米坂線) 1971

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越後金丸には鉄道雑誌に見ていた先輩諸兄による写真に惹かれて下車した。
ここの荒川は1961年に竣工した堤高30.2メートルの岩船ダムにより渓谷は失われていたけれど、代わりに上路式ワーレントラスの第一荒川橋梁(l=124M)が湖面に姿を落とす景観がそれには見て取れ、1968年に坂町から乗った車窓で対岸断崖上の国道からの撮影とも承知していたからである。1967年8月28日にこの地を襲った「羽越水害」から復旧のまもない頃で、鉄橋に国道の健在を確認して安堵したものだった。
けれど、これと同一設計のトラス橋の架けられていた、その先の第二荒川に玉川口前後の第三・第四荒川は川幅の狭まった屈曲部への架橋が災いしてか流失したものらしく、下路式トラスへの架替を確認したのも、このロケハンだった。加えては、全てを流された越後金丸がその地には不釣り合いな大きさの鉄筋コンクリート構造に建替えられていたのが印象に残っている。

上路から下路トラスへの選択は、水害を教訓に増水時の水面からの空頭確保を意図したものだろう。第三橋梁が1967年11月1日、第二が同じく12月7日と記録される復旧は驚くべき早さである。おそらく被災直後には設計と製作の始められたものと思う。発注先は石川島播磨重工であった。第四橋梁の復旧には東海道本線の旧上り線大井川橋梁に架設されていた1911年American Bridge社製作のピン結合下路単純Schwedlderトラスの一連が転用され、廃用の19世紀末のCooper-Schneider設計の歴史的トラスが偶然にも再用されたのだった。
これにて米坂線に1931年鉄道省標準設計のワーレントラスは第一荒川を残すのみとなって現在に至る。当然に水没はしたであろうこれの流失の免れたのは、ダム貯水域に在って水勢の弱められたゆえだろうか。

この日、第二橋梁の上路トラスの失われたことは承知で歩き始めたものの、それに並行して国道新道の建設工事が始められており、歩を進めれば目当ての第一荒川橋梁に並んでは手前側に巨大な下路トラスの構築が遠目にも見て取れ、これには大いに落胆せざるを得なかった。
この国道113号線の改良は水害とは無関係に計画の存在していたのだろうが、それを契機に進展したと思われた。鉄道が敢えて避けた左岸の断崖を通過していた旧道の拡輻を困難と見て、これを荒川に架橋しての右岸付替には、ほぼ鉄道と同線形となって第一荒川橋梁の景観が失われたのである。
目論みの外れれば代替を探す他に無い。持参の五万分の一地形図には八ツ口集落前後の上ノ沢と下ノ沢に短い架橋が記され、現地で新道工事箇所とは距離の在る下ノ沢橋梁と決めて、その上流側に見えた雪の急斜面を登ったのだった。深い積雪は表層の締まる融雪期ゆえに這い上がれたものと思われ、降雪期なら困難だったろう。

列車は混合125列車。
下り勾配に期待していなかった白煙を引いて現れたのは良いのだが、お陰でこれも予想外の重連がそれと見えない。

[Data] NikomatFTN+AutoNikkor105mm/F2.5 1/500sec@f5.6 Y48 filter Tri-X(ISO400) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

小国 (米坂線) 1972

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30年を過ぎて再びの「SLブーム」と云う。1976年の大井川鉄道に始まり、1979年からの山口線に波及した動態保存車による展示運転は、国鉄の分割・民営化直後から民鉄も含めて静態保管車の動態復元が続いて、運転線区を加えたばかりか、それ以外で運転される機会も増えて全国各地に煙を上げているような錯覚すら覚える。この2014年には釜石線でさらに1両が走り出す。
2000年代を迎えて、もはや鉄道自体がノスタルジィの対象と成り果てたところに、ディジタル写真の爆発的普及も手伝い、再びに人々の群がってのブーム化であろう。

ブーム故のことか、それが呼び込んだものか、山口線運転当初に在った動態運転による産業遺産保存の意識は希薄となり、民間資本による蒸機列車の運行は今や観光資源である。電気暖房の14系客車に積まれた石炭ストーブなど笑えない冗談はさておき、山口線に磐越西線の12系も別に蒸機に牽かれなくとも良さそうな観光仕様がなされている。機関車自体にも非営業の動態復元車に空気圧で可動させるなど玩具扱いの展示まで出現する始末であり、観光対象として厭きられれば打ち捨てられるのではと危惧する。
営業線上の営業列車ではあるが、単独で採算の採れるはずもなく、それにて有形無形の恩恵を被る沿線自治体の直接間接の資金協力を含め、北海道旅客鉄道による季節を変えての各線運行は札幌からのパック旅行に組まれ、東日本旅客鉃道の磐越西線運行も、2014年からの釜石線運行も新幹線利用を促進してこそであるから、将来にそのメリットの失われても運行は継続されるのだろうか。自治体の協力も、客足の低下すれば期待出来まい。観光資源として顧みられなくなれば、運行経費はもとより、法定の検査経費や修繕経費は何処の誰が負担するのだろうか。営利企業にそのインセンティヴは無い。

動態運転の本義は産業遺産の保存にある。観光需要に迎合した趣向では無く、隧道に入れば車内に煙の充満し、客窓を開けて旅すれば顔は煤に汚れ、それをホームの洗面台で洗い流す追体験の出来てこそに思う。
その理想とも思えた北海道鉄道文化協議会による函館本線運行や日本ナショナルトラストの大井川鉄道運行の挫折は、欧米での事例に範を求めながらも歴史遺産に対する日本人意識の落差を改めて認識させる出来事であった。本来ならば国家事業であるべきそれの保存が寄付や募金で充足せぬとなれば、運行側も運転区所等での催事の有料化は勿論のこと、河川での入漁料宜しく沿線の特定位置からの撮影への課金も考えねばなるまい。輸送手段には既に不要となった運転の再現である。将来に煙を絶やさぬにも、撮影者の意識が問われよう。繰返すが、それの全てを資本に委ねるのは危険である。

蛇足乍ら、安易に交わされる「SL=エスエル」なる言葉について言及しておきたい。
Steam Locomotiveの頭文字を取ったSLとは、本来にそれまでは蒸気機関車だけだった機関車に電気や内燃動力車が入り込んで来た動力近代化の時代に、国鉄部内でそれを区別する必要からの記号であった。それゆえ技術用語として蒸機の直訳であるSteam Locomotiveの略号が使われたのである。
なので、これはネイティブの英語圏(特に英国とその連邦諸国)においては少しも一般的では無い。半ば和製英語と考えた方が良く、そこでは単にSteam若しくはSteam Engineである。
ちなみに、電車はElectric Railcarだし、客車はCoachあるいはPassenger Wagonと呼ばれるから、PC・EC・DCも国鉄部内の区別記号に過ぎない。
このような記号を敢えて部外者の用いる必要は無いと考えるが、「SL」を多用されるなら、これをご理解の上でと願う次第である。

蒸機ブームの最中、1972年3月14日のここでの蒸機最終運転となった130列車。惜別列車の混合125列車を重連で牽いた9634の帰区を兼ねて、こちらも重連運行であった。9634+59634は偶然なのか、意図的だったのか。
降雪の中、鉄道屋よりも多くの地元住民に送られて出発して往った。

[Data] NikonFphotomicFTN+AutoNikkor5cm/F1.8 1/60sec@f4 Y48filter NeopanSSS Edit by PhtoshopLR4on Mac.

羽前沼沢 (米坂線) 1971

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戦後の道路整備は1952年制定の道路法(1952年6月10日法律第180号)により進められた。ここでは、国道は1級と2級路線に区分され、国土を縦貫ないし横断する基幹路線である1級国道の40路線と、これに接続して幹線道路網を構成する2級国道の144路線が政令にて指定された。
当時に国道とは云え、それは1960年代に至るまで基幹道路と認定された程の意味しか持たず、一部を除けば未舗装の砂利道に過ぎなかった。記憶を辿れば、国民車と云われたトヨタ「パブリカ」での遠出に走った国道5号線は、市街地や集落内こそアスファルト舗装の進んでいたものの、そこを一歩離れれば砂利に土埃の舞う田舎道が続いたものだった。
道路の事情に詳しいでは無いが、これのバイパス建設を含む曲線や幅員の改良の進展の見られるのは60年代後半からで、1965年の道路法改正で1・2級が統合されていたとは云え、当然に旧1級国道区間から手の付けられ、当時の経済成長を背景にした旧2級路線への着手は多くの路線で70年代に入ってのことである。

この米坂線とともに荒川水系流域を遡り宇津峠を越えて置賜平野に達する旧2級国道であった国道113号線の改良工事は、1967年8月にこの地域を襲った「羽越水害」からの復興を兼ねて、関川村域や小国町西部区間が先行して施工されたものの、1971年当時に宇津峠区間には一部区間に着手されたばかりであり、宇津峠にトンネルこそ開通していたけれど、前後には農道然とした砂利道も残されていたのだった。
特に、羽前沼沢から伊佐領へは、代替のトンネルが県道として開通していた子子見、綱取の半洞門区間までは細道の国道で、それを駅前から30分ばかり辿ると左手に現れたのが明沢橋梁(l=65M)であった。この半径200メートルの曲線上の橋梁は、明沢川と桜川の合流点に架橋されて橋梁周囲が開けていたから、この細道の国道上に多くの鉄道屋を集めていた。伊佐領方向に進むと明沢の上流側を巻いて、その右岸の段丘上に達して格好の俯瞰位置も在ったのだが、峠を下る列車を撮ることになって当時にここに立つ人は疎らだった。

写真は、その位置から見下ろした611D<あさひ1号>。気動車急行なら勾配は無視して良い。
仙山線・米坂線経由で仙台と新潟を連絡していた2往復の内、この611Dと上りの614Dは多層建てを基本とした東北地域の気動車急行群にあって、珍しく始発から終着まで解結の無い運転であった。但し、共通運用の関係で順位は新潟方から7-11号車とされていた。
座席指定車には、当時新潟運転所に4両の配置の在ったキロ25格下げのキハ26 400番台が所定だったのだが、この日は何故か組成が無い。

[Data] NikonF PhotomicFTN+P-AutoNikkor50mm/F2 1/500sec@f5.6 Y48 filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

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