70's/80's Monochrome Age and Years of Ektachrome film

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前谷地 (石巻線) 1973

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大崎平野を空中写真に眺めれば、さながら海に浮かぶ島の如き丘陵地の散在が見て取れる。北上山地南端の篦岳丘陵や仙南平野とを分ける松島丘陵から樹枝状に連なる丘陵群である。
小牛田から東進する石巻線は、二箇所でこれに行く手を遮られた。格好の俯瞰位置となっていた欠山からの尾根先もそのひとつで、ここはその先端部を辛うじて迂回する線形が選ばれたが、前谷地の手前で松島丘陵が北に張出した旭山から龍ノ口山への標高50メートルから100メートルの高みは避け切れずに、鳥谷坂隧道を穿って通過していた。

前谷地に降りて、その丘陵地へと緩い勾配を上ると旭山へと続く斜面に箱泉寺なる寺院が所在する。800年代初頭から遅くとも870年代までの開基とされる古刹である。おそらくは一つ前の東北地方太平洋沖地震である869年の貞観地震に沿岸への大津波を経験しているだろうし、この災禍や864年の富士山噴火など続く天変地異による世相不安の人心安定に開かれたのかも知れない。
一帯は旭山伏流水の湧水が豊富で、古には流れ出るそれを辿った鬱蒼とした樹林の山中に建立されたものだろう。そして水流の先は江合川の蛇行する一面の湿地が広がっていた。北方民族の言葉を語源に「ヤチ」や「ヤト」と呼ばれた地形であり、箱泉寺の門前のそれが前谷地の謂れである(『風土記御用書出』1780年頃)。
大崎平野には「谷地」地名がそこかしこに残され、かつての広大な低湿地を裏付けている。稲作の適地に違いなく、中世以来に新田開発の進んで近世には既に一大穀倉地帯に姿を変えていた。そこに位置した箱泉寺は伊達藩により手厚く保護されたと記録にある。

旧河南町の役場所在地だった前谷地は、集落規模では隣接の涌谷町の中心市街地に遥かに及ばないものの、停車場は三陸縦貫鉄道の起点となったことで拡張され涌谷を凌いでいた。跨線橋までの設備は、計画時にそれが亜幹線なみの輸送量を想定されていたゆえである。とは云え、当時に柳津までが柳津線として開通したのみの盲腸線は、一日に5往復の運転されるだけの閑散線区であった。
前谷地周辺は、鳥谷坂の隧道区間を除けば取り立てての位置は見つからない。煙を期待するなら駅と云うことになる。
出発して往くのは865列車、石巻港行き。

[Data] NikonF photomicFTN+AutoNikkor50mm/F2 1/500sec@f8 Y48 filter Tri-X(ISO400) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

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女川 (石巻線) 1972

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1980年7月31日まで石巻線には女川を起点に女川港まで1.4キロの貨物支線が存在していた。通称の女川臨港線である。
1954年に『港湾法』に基づく地方港湾に指定され、設置・管理者の宮城県が、1957年までに石浜地区へ水深7.5メートルの商業岸壁に物揚場を完成し、合わせて既存の漁港地区でも物揚場の整備や魚市場の設置を進めた女川港での、その事業と一体の海陸接続線として建設を請願し、建設費全額の同県負担と女川駅貨物扱いの女川港駅移転を条件に国鉄が工事を受託した線路であった。
商業港としては近隣に後に重要港湾に指定される石巻港が所在し、そこでの工業港計画も進めていた宮城県が、女川にも商業岸壁を築造したのは、当時の港湾法下にあっては漁港としてよりも商業港としての整備が国庫補助の容易だった制度による。同県の本音も金華山漁場の活況に水揚げの堅調な漁業基地整備に比重のあったと思われる。
1958年8月11日に開業した女川港駅と臨港線は、港から女川駅までの小運送の省略により鮮魚の鮮度保持に大きく寄与した。

女川港駅に駅長は配されず女川駅の管理駅とされた。女川が頭端駅構造のため構内での分岐線形ではあったが、営業上には延長として扱われ小牛田起点46.3キロの営業キロ程が与えられていた。
運転上からも女川駅の構内扱いであり、女川の場内信号機は旅客乗降場への2線と臨港線への3基が同位置に建植され、女川港着発列車は本線列車として運転された。
連査閉塞施行のこの頃、午前と午後の2往復の着発に運転掛に構内掛の常駐したものかは覚えていない。連査閉塞には閉塞器の操作だけで本線に進出出来たけれど、通票閉塞の当時にはどのような扱いを行っていたものか興味は尽きない。機関車の転向のため構内運転で女川に戻った際に通票を授受していたと推定するのだが、確証は無い。

女川1番線に停まるのは829Dから折返となる832Dの小牛田行き。キハ17+キハ10+キハ16の組成はバス窓車の編成美であろうか。でも、便所が編成に一箇所しかないことになる。
手前に続くのが臨港線の線路である。旅客施設との位置関係がお判りいただけると思う。撮影位置左手に駅本屋が在り、線路は駅前広場の北側をかすめて石浜方向へ延びていた。

[Data] NikonF PhotomicFTN+P-AutoNikkor5cm/F2 1/125sec@f8 Y48filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

佳景山 (石巻線) 1972

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大崎平野には屋敷林を巡らせた集落が点在する。ここでの屋敷林は、時には地吹雪すら巻き起こす栗駒下ろしに備えた居久根(いぐね)と呼ばれる。一戸の農家の持つ居久根林は然程の規模では無いのだけれど、集村を成すこの平野ではそれが一体の居久根となって集落を取り囲む。居久根の点在する平野の景観は、水田に水の満たされる頃など、さながら小島のように水面に浮かぶ。そこに降り立つことは久しく無いけれど、道内へと向かう際の新幹線には今でも楽しみな車窓だ。

居久根林は、当然ながら敷地の北面や西面に植栽され、多くは三層の構造になっている。即ち外側からスギやケヤキなどの高木、シロダモ、ハンノキなどの中木、そして屋敷側にアオキやヤスデなどの低木であり、常緑樹ばかりでなく、季節風の防風には不利とも思われる落葉樹も含むのが特徴である。
居久根の集落に足を踏み入れるとすぐに知れるのだが、居久根林を背景にした母屋南側の前庭には大抵に畑が耕作されている。居久根林は冬の防風林としてばかりでなく、この畑と組み合わされて、それの奨励された藩政時代より稲作農家の敷地内での自給空間に欠かせぬ構成要素でもあった。前庭の畑からは野菜や雑穀の類いを得、居久根の樹木からは果実を得て、それらは加工して保存食ともなったし、年々に伸びる枝は燃料材となり、樹齢を重ねて伐採されれば住宅の建築材としても用いられたのである。また、落ち葉は発酵させて翌年の堆肥として使われた。落葉樹の植えられたのはこのためである。この意味において、平野の只中の農家にとって居久根林とは、そこには無い里山の代替だったのである。

写真は欠山北端の高台からの大崎平野。たかだか比高30メートルばかりに過ぎないけれど、遠く積雪の栗駒連山までも望む気持ちの良い位置であった。列車は7869列車の石巻港行き。
江合川下流域のこの辺りでの居久根林は季節風の到達する東端でもあってか、規模は小さい。それでも耕地の広がりの中には趣のアクセントになってくれた。列車後方の居久根はかつてには小金袋とも呼ばれた笈入集落。きっと収穫豊かな集落だったのだろう。

[Data] NikonF PhotomicFTN+P-AutoNikkor135mm/F2.8 1/250sec@f5.6 Y52filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

鹿又 (石巻線) 1973

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この1973年の撮影メモには、道内や奥羽地域へ上野を仙台行き夜行の<まつしま6号>で発った記録が目につく。いつもの盛岡夜行<いわて3号>でないのは、それを小牛田で捨てる陸羽東線ではなく石巻線に向かったことを意味する。仙台へ<いわて>に数分を先行する<まつしま>からなら仙石線の始発に間に合い、さらに石巻線上りへと乗継げば朝の下り貨物を余裕で捉えられたからである。加えて、この年には翌年春に予定された無煙化に向けて、どちらかと云えば陸東線側に鉄道屋が集中し始めており、それを少しでも避けたものと思う。なので石巻線の撮影カットは、この年のものが多い。

この線区は小牛田から東へ大崎平野を淡々と辿るばかりで、多少の変化を与えていたのは短い鳥谷坂の隧道くらいである。要は田園風景を画角とせざるを得ないのだが、佳景山で線路の麓を巡る丘陵(欠山の低い尾根)が足場になるとは云え、それが唯一でもあった。多少なりとも高い視点の得られる跨線道路橋も、この当時には小牛田-石巻間に三箇所を数えるのみで、平坦な地形には稀少位置ゆえ取り敢えず全てには立っていた。
写真はその内のひとつ、国道45号線の鹿の又跨線橋から見通した画角である。R=200からR=300の急曲線の先、画角奥に鹿又駅がある。線路が跨線橋交差位置にむけて築堤を上るように見えるけれど、ここの勾配は1.5パーミルしかない。実際には左の水田だけが窪地のように低くなっているのである。
列車は午後の871列車、石巻港行き。午前中を欠山の斜面で過ごしてここまで歩いたと当日のメモに読める。

何度か乗り降りした鹿又については、小牛田-石巻間に三駅のみの要員配置の閉塞扱駅だったのだけれど、あまり記憶にない。ただ、駅後側の県立河南高校(現石巻北高校)への通学駅でやたらと学生服姿の目についたのは印象に残っている。

[Data] NikonF photomicFTN+AutoNikkor50mm/F2 1/250sec@f8 Y48 filter Tri-X(ISO400) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

浦宿 (石巻線) 1974

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この1970年代に鉄道の撮影は、皆が鉄道移動に徒歩だったと前に書いた。そして、この頃には鉄道屋ばかりでなく釣り師もまた列車に乗っていたのである。沿線に釣り場のあれば、確かに到達時分に鉄道に利もあった時代である。天王寺から南紀方面へ、ほぼ彼らに独占された夜行列車の在ったことも記憶に新しい。
仙台と石巻線との往き来に乗っていた仙石線でも、大きなクーラボックスの目立つ釣り客を見かけることの多かった。その国電の横型腰掛で隣席となった釣り師のボックスが突然に跳ねて驚いたことがある。それが切っ掛けで自慢げに見せてくれたそこには、体長6・70センチはあろうかと思われる見事なイシガレイが暴れていたのだった。聞けば渡波漁港防波堤での釣果と云う。

幅120メートル程の水道で外海に繋がる万石浦の開口部に位置するのが渡波漁港である。海域としての万石浦とは、渡波漁港佐須浜1号防波堤先端と長浜防波堤先端を結ぶ線より内側とされているから、地理上には石巻湾(仙台湾)に面したこの漁港も万石浦の一部になっている。
干満差による流出入で潮の速い漁港内でのイシガレイ釣りは、今にWeb上を検索しても記事の多々見つかる。閉鎖性海域にてウネリのない万石浦が産卵場所であるらしく、その出入りに漁港内を回遊するものらしい。流速の在る位置であれだけの大物、それが防波堤上から可能なのだから当時より釣人を惹き付けて止まぬのであろう。

石巻線は、沢田から浦宿までの4キロ余りで万石浦の北岸をトレースする。旧金華山軌道の路盤を転用した区間である。周囲を丘陵に囲まれた内海だから当然に俯瞰を意図するのだけれど、国道398号線も並行していて良い足場には恵まれない。ようやくに浦宿から少し戻った大沢集落の裏山に上れそうな位置を見つけたのは無煙化も間近に迫った頃だった。樹木の落葉しなければ見通せないここは、道路も画角から外せる唯一の位置と思う。

写真は朝の斜光線に光る海面を往く1891列車の女川(港)行き。
イシガレイの育つ海である。対岸が指呼に見えるように、ここはそれほど大きな内海ではない。

[Data] NikonF2A+AutoNikkor105mm/F2.5 1/250sec@f5.6 Y52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4on Mac.
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