70's/80's Monochrome Age and Years of Ektachrome film

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下小川 (水郡線) 1979

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夏中、鮎の釣り人の姿が絶えない久慈川だけれど、落ち鮎の頃になると鮭の遡上が始まる。久慈川の流れる那珂郡山方村辰ノ口に生まれ育った祖母の話には、村人が網ですくって捕獲した話が語られ、それは面白いように獲れたと云う。そしてそれは、軒下に吊り下げて八溝山地から吹き下ろす寒風に晒す「干し鮭」となって貯蔵された。
もちろん1900年生まれの祖母が幼少の時分のことであり、現在に茨城県は資源保護から永年に渡り一部漁業者を除き県内河川での鮭採捕を禁止している。それは各河川とも孵化・稚魚放流を事業として行っておらず、自然繁殖に任されている事情からだろう。茨城県は自然遡上の見られる太平洋側の南限にあたる。

余談だが、稚魚の種苗法流により回帰に成功した遡上の南限は、千葉県九十九里浜に注ぐ栗山川である。ここでは1976年から千葉県水産試験場がそれを繰り返した結果、回帰が定着し、近年には300から800尾を採捕しての種苗生産が地元自治体を中心に行われている。
また、ここでの放流稚魚や東京湾多摩川での民間によるそれの「迷い鮭」であろうと推測される魚体の遡上目撃が、最近に神奈川県下の河川にて相次ぐが、回帰定着には至っていない。

久慈川の鮭は、流域に幾つか存在する取水堰堤への魚道整備などにて保護され、近年にはそこに注ぐ多くの細い流れの小さな堰も、遡上時期が渇水期でもあることから開放されて、産卵環境の良いかなりの上流まで泳ぎ入っている様子である。
これを背景に茨城県・県水産試験場では、将来の資源活用のテストケイスとして一般公募による「久慈川サケ資源有効利用調査」を2012年より実施している。遡上時期の数日間のみ、下流域の指定河岸でルアー釣りを、中流域でフライフィッシングを定員を限って許可する試みは、要するにはサケ釣り大会である。あくまで調査名目だから釣り人は採捕従事調査員とされ、釣果の魚体に関わる報告書提出など要するのだが、3尾までは持ち帰りも許され、何よりフライでの釣上げは全国的に許可事例の無く、一日あたり6000円と云う高額な施設利用料(つまりは遊漁料)にもかかわらず大変な人気と聞く。

ワム車を連ねて久慈川右岸を往くのは1350列車。
この当時に水郡線内の貨物扱駅は、砕石出荷の西金を除けば常陸大子が残されるのみとなっており、水戸との間に1往復の貨物列車が設定されていた。荷主は知らぬのだが、いつに見てもワムにワラの有蓋貨車ばかりの結構な財源のそれは、何かしらの定形輸送だったと思われる。
手前の沈下橋は、下小川 (水郡線) 1980 に書いた平山橋である。

[Data] NikonF2A+AiNikkor105mm/F1.8S 1/125sec@f5.6 Y48 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

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西金 (水郡線) 1982

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道内撮影からの帰路に思いつきで立ち寄った水郡線は、その後の数年間、実家への帰省の度に撮っていた。特に惹かれるところの在ったでは無いのだが、強いて云えばそこは水戸から至近の非電化線だったからである。
その核心区間は、やはり久慈川が八溝山地に蛇行を繰返す山方宿から矢祭山の奥久慈渓谷であろう。矢祭山北方の高い橋脚の第九久慈川橋梁や袋田の第五久慈川なども気にはなったけれど、中でも足場の多く取れそうな西金に降りるのを定番にしていた。

西金は吾妻線小野上と並んで関東地域一円の線路道床に用いられる砕石の出荷駅であることは、ご承知のことと思う。
ここで採取事業を行う関東商工株式会社によれば、久慈川対岸の山中での採取は1941年からと云うから、戦時下での開発は主には建設資材の調達目的であったろう。当然に西金には鉄道での移出設備が整備されたに違いなく、戦後の1946年に事業自体を同社が引き継いだとある。
1962年11月17日付での水戸鉄道管理局による水郡線貨物営業の見直しに際して、西金の貨物扱いは廃止されたのだが、その1962年日本国有鉄道公示第557号には「接続専用線発着車扱貨物に限り取り扱う」との但書きがなされ、この当時に積込設備は専用線だったことが知れる。道床用ばかりではなかった砕石輸送は国鉄の貨物営業に組み込まれていたのである。けれど、ここに幾度か降り立った1980年代前半時期に、水郡線貨物列車廃止前にもその搬出は工臨列車に依っていたと記憶する。使われていた貨車もバラスト散布装置を備えたホキ800形式にて、既に国鉄の事業用途しか輸送の無かったことになり、関東商工の国鉄納入品以外はトラック運送に切替えられていたのだろうか。専用線だった施設を国鉄が編入したものかなど、経緯は興味深いのだけれども手元資料の限りには調べ得なかった。

この1980年代当時に採取地から西金構内隣接の野積場への久慈川を越える運搬には索道が用いられており、それは予備知識無しでの初訪問後に入手の五万分の一地形図にも記入されていた。索道分野は不勉強なのだが、対岸山上と比高30メートル程に150メートル程の延長にて4本の鋼索が渡され、索道は2本と見て取れた。それぞれにバケット型の搬器1台が吊り下がり、野積場で下部を開放し砕石を落下させては山上へ戻って積込みを行う動作を繰り返す単純な循環式である。搬器2台の往復式としないのは支柱の区間両端のみの構造には荷重がそれで精一杯だったのだろう。日がな一日、ガラガラとした音を山峡に響かせていたものだった。
野積場での積替やホキ800形式貨車への積込はベルトコンベヤにより、山上側でのステイションまでの搬送にバケット積込も同様であったと思われる。

駅前から国道118号線の新道に出て西金大橋へ向かう手前で、湯沢川の細い流れを見下ろせる。山清水を集めて久慈川へと注ぐ無数の流れのひとつであるが、河川名称のあればそれは大きい方に属しようか。その先には短い湯沢川橋梁に築堤も見えて陽光に照り返す澄んだ水流に画角を採れば、ここでも竹林が覆い被さるのだった。
札幌にはなかったこれの苦手なことは、これまでにも何度か書いた。もっさりとした植生がどうにも納得できないのである。南方系の照葉樹の枝葉の広がった様も同様で、蒸機撮影の当時、当然に九州への旅を計画したのだけれど、出発直前に日豊線霧島神宮付近での先達のカットを目にして急遽いつもの道内行きに変更した覚えもある。
列車は普通343D。この旧盆期など多客期運転の9413D<奥久慈51号>は水郡線を定期普通列車のスジに乗っていた。つまり、その期間だけ343Dはキハ58/28の冷房編成と化すのである。

[Data] NikonF3P+AiNikkor28mm/F2.8S 1/500sec@f5.6 Fuji SC48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

水戸 (水郡線) 1981

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1969年度に量産先行車の出場したオハ12系急行形客車は、国鉄が1950年代後半に製作した軽量客車の一群以来の座席客車であった。1970年の大阪千里丘陵での万国博覧会開催と云う動機は在ったにせよ、10年余りを経ての客車の新製を、当時の国鉄は低廉な製作費からの波動用等稼働率の低い運用への優位性を事由としていた。貨物列車や特急寝台列車運転に多くの機関車の保有が前提であり、国鉄を引き継いだ今の民営会社には、そのインセンティヴは無い。

類似の事由にて、気動車化されたルーラル線区と云えども通勤・通学輸送の集中した線区・区間には、1980年代前半まではその運転に客車運用が残存していた。朝夕の長編成を要する輸送力列車のみを客車運転として、気動車の需給を抑えていたのである。1977年度以降にはオハ50系列に置替られた例も多い。
1980年の時点で俯瞰すれば、そもそも需要の小さい道内線区では江差線のみだが、内地ならば本線が客車運用主体であった東北地域や北陸、中国山陰地区、北九州線区などに多くの事例があった。
機関車屋とすれば、もっと撮っておけばと悔やむところだが、朝夕だけの運転は撮影にも効率の悪く、加えて早朝だったり夕方の列車は日没後だったりで撮り難い列車群でも在ったのだ。

水郡線の水戸口には、常磐線にも多くの運用を持っていた水戸客貨車区による[水21][水22][水付21]の3運用が組まれて、朝間に常陸太田への1往復と常陸大子からの上り1本、夕刻に常陸大子への下り2本が運転されていた。最大組成は朝の常陸大子からの2342列車で[水21][水22]の併結による9両であった。
水戸機関区にDE10の配備される1974年まではDD13に牽かれ、冬期には暖房車を要して機関区にはホヌ30にホヌ34の4両が待機していたものである(* )。
1985年3月14日改正での常磐線普通列車の全面電車化による水戸客貨車区の運用全廃と運命を共にして過去帳入りしたのだった。
ここの運転に限らず、1982年11月改正以降にオハ50系列に置替られたものを含めて気動車化が進むのは、当時に続いた特定地方交通線の廃止により、それの需給に余裕の生じたためである。ルーラル線区客車列車の淘汰は、ルーラル線区の消滅と軌を一にしていた。
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(* ) 暖房車は客車区所の配置ではあるが、ボイラを運用する関係から実際の配備先は機関区所が通例であった。

写真は夕刻に常陸大子へ向かう2343列車。[水22]の5両組成であったこの下りは、水戸を18時過ぎの発車で夏場でないと撮れなかった。
隣接する草蒸した線路は、1890年11月26日開通の那珂川へ1.1キロの貨物支線。ここの路盤に敷設されたのはこちらの方が先である。この頃には既に使用されていなかった。
背景に目立つ建物は当時に完工したばかりの茨城県産業会館。

[Data] NikonF3HP+AiNikkor50mm/F1.4S 1/125sec@f4 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

下小川-西金 (水郡線) 1981

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久慈川は茨城・栃木・福島県が境を接する八溝山を水源に棚倉盆地へ向けて北東へ下った後に八溝山地と阿武隈高地間を南流する河川である。その中流域の矢祭山付近から常陸大宮付近までは山地狭窄部に陥入・蛇行を繰返す峡谷をなしており、奥久慈渓谷と呼ばれている。

ここは清流としても知られ、内水面漁業における鮎の漁獲は那珂川の年間880tには及ばないが、395tは全国で第三位の漁獲量である。(2004年農林水産省漁業・養殖業生産統計年鑑による)
水が良ければ、流域はその伏流水を利用した酒造地帯でもあり、奥久慈地域では山地を隔てて同じく南流する支流である山田川や里川の流域も加えて、この1980年当時には12もの酒造場が稼働していた。(福島県側の3場を含む)
何れも年間の石高は最大の大子町の家久長本店でも2000石程、後は1000石に満たない小蔵ではあるけれど、それぞれに味わい在る酒を造って来た。
袋田の滝を上流の大野川に辿ると大子町内大野に珂北酒造がある。石高は500石に達しないと思われる小蔵で、それこそ現地に向かわなければ入手困難な酒である。その「常陽旭桜」は蔵付酵母で発酵する。
蒸米と麹に水を加えて酵母を培養する酒母の工程においては、生酛にせよ山卸廃止酛にせよ、何処からともなく進入する野生酵母に対しては、日本醸造協会の頒布する優良な清酒酵母を大量投与してこれを淘汰するのだが、1896年に前身の斉藤酒造店の創業以来のこの蔵には酒造に適した酵母が棲み付いて、酛摺りの酒母に入り込むのである。
野生酵母の類いは、醸造が科学的に説明される前の時代には腐造を引き起こす元凶であり、仕込みに年間の収益を注ぎ込む酒造家には恐れられた事態であった。蔵に住む野生酵母が酒造に適していたとは、誠に幸運と云わざるを得ない。
蔵元は「(野生酵母ゆえ)酸が出てしまう」と云うが、その酸度1.5ないし1.6がここの酒の特徴でもある。飯米を用い65%に抑えた精米にて引き出した米の甘みとの整合に利の在る純米酒が旨い。

2013年の現在、塙町の家満寿美、旧里美村の東魁酒造、常陸太田市の平山酒造は廃業してしまっている。それでも、奥久慈地域での9場の稼働は、酒の置かれた現状を思えば酒呑みには有り難いことこの上ない。

写真は、国道118号線大内野橋からの4311D<奥久慈1号>。後追いである。
上野から1411D<ときわ7号>に水戸まで併結され、常陸大子からは普通333Dとなって郡山まで直通していた。<ときわ7号>は水戸止まりだったから、実質的には<奥久慈>の水戸回転編成とも云えた。
当時の水戸機関区の急行用気動車には非冷房車も残存して、それの混用時には冷房搭載車でも使用しないのが通例であった。
奥久慈に定番の水の風景。

[Data] NikonF3HP+AiNikkor105mm/F1.8S  1/125sec@f8  Y52 filter  Tri-X(ISO320)  Edit by CaptureOne5 on Mac.
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下小川 (水郡線) 1980

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その通路面が河川敷と同高位に河川の低水路部にのみ架された橋が沈下橋である。出水時に水面下に没することと引替に最小限の延長と桁流失時の復旧を容易とする簡易構造から建設費低減を得る架橋形式である。架橋の原初形態のひとつであり、近代では主に山間僻地など人口希薄域の交通路確保に採用されて来た。
全国的に見られたけれど、流水部に或る程度の幅のあり、架橋前後の河川敷が避溢部となることが条件ゆえ、河川と流域は限られる。関東では荒川や小貝川、相模川などの平野部に、そしてこの久慈川中流域に架橋例が多かった。永久橋(沈下橋の対語なら水抜橋)への架替えが進行しており、今では比較的多くが残る四万十川流域が高名である。

水郡線下小川駅の所在する山方町(現常陸大宮市)平山集落と久慈川対岸の家和楽(やわら)地区に架橋された、この平山橋もそのひとつで、橋脚はコンクリートに鋼管によるものだが、橋桁部は低い欄干を含めて全て木造であった。上流側に斜めに付された構築物は「流木避け」と呼ばれるもので、出水時に橋脚を保護するためそれ毎に設けられていた。

この区間での撮影では格好の素材に違いなかったのだが、鉄道線路と直交方向の架橋のため、それを取り込む画角は限られてしまうのだった。
列車は348D。常陸大子からの水戸行きである。
ルーラル輸送の線区とは云え比較的利用の多く、昼間帯でも一部を除き4両組成が基本と記憶している。気動車は全て水戸機関区の運用である。

平山橋は、この当時に更新架替の終わったばかりで、以来30年余り度々の出水にも桁の流されることも無く、写真の状態で健在である。ただ、木板であった通路面は2001年にコンクリートに舗装されている。
鮎で高名な久慈川だけれど、この川岸の釣り人に聞けば、この澱みでの獲物はフナ/ウグイにコイと教えられた。

[Data] NikonF3HP+AiNikkor50mm/F1.4S 1/250sec@f5.6 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.
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