70's/80's Monochrome Age and Years of Ektachrome film

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真鶴 (東海道本線) 1999

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2014年7月25日のこと、国土交通省運輸安全委員会は2012年4月26日に江差線釜谷付近にて発生した貨物列車脱線事故の原因について、コンテナ内積荷の重量偏差に起因すると結論した。当該コンテナ車に五個のコンテナの内、後部寄りに搭載の2個に印刷用トナー原料が左右で大きな重量差をもって積まれた結果、脱線位置とされた半径300メートルの曲線通過時の横圧にて車輪の浮き上がって脱線に至ったのだった。(鉄道事故調査報告書RA2014-7)
実はこの種の積載不良による事故は、国鉄当時から悩ましい問題だったのである。この報道に接して思い起こしたのは今を去ること30数年前、1977年5月27日に東海道本線真鶴構内で発生した脱線事故、通称の真鶴事故である。
この日、13時44分頃、時速43kmにて真鶴場内に進入した3150列車の20両目に組成のトキ25000が半径500メートルの曲線を通過中に脱線、前後の組成車の脱線を誘発して結果的に16両に及び、内当該車を含め9両が横転すると云う事故であった。これも原因はトキに積まれたルッペ(直径10ミリ程度の鉄粒)輸送の鉄製容器が固定不良にて曲線通過時の遠心力で移動し積載の重量バランスを崩しての脱線であった。
貨物の積載方は鉄道の責であり、国鉄は貨物営業管理規程や同基準規程に準拠した積載標準を示し、実際の作業者たる通運業者に対して監督・指導して来たのだが、積付け不良に過積載は後を絶たなかったのである。対しては、例え列車に組成されて輸送(運行)中であっても不適切な積載の発見されれば、直ちに臨時停車させてでも手直しや、それの叶わなければ車両解放の措置が取られた。けれど、封緘のされた貨車を開扉しての検査の出来るで無く、真鶴事故の原因車たる無蓋車であっても見逃しは生じざるを得ないのだった。
これは時代の進んでコンテナでも同様なのではあるけれど、コンテナなだけに要求される荷役機械に検知センサが行き渡れば、少なくとも過積載に重量偏差だけは事前に検知可能となるだろう。とは云え、それの叶うまでには相当の時間を要しようか。

真鶴から旧線の長坂山隧道へと向かう列車の俯瞰は古の鉄道雑誌に見ていた。最新のドライブウェイとして開通間もない真鶴道路と併行して直下の山裾を巻いて往く複線電化の大幹線は、当時にそれを知らない北国暮らしの子供の眼には眩しく印象に残っていたのである。
線路は真鶴トンネル経由の新線に切替えられて久しいけれど、その抗口は長坂山隧道と隣接するからトンネルまでの路盤は変わらない。それを眼下にする立ち位置は真鶴道路から付近の蜜柑畑斜面を上ったあたりとの目星に五万図に当れば、棚子下へ続く道路が斜面を横切っていた。岩海岸から谷を詰めながら斜面へと取り付くその道は真鶴道路より以前から通じていたものだろう。

写真は真鶴トンネルへと向かう958列車。
斜面に白くガードレールも見えてはいたのだけれど、いざそれを辿ってみれば好ましい画角の見つからず抗口の直上あたりまで上ってしまった。30数年前の先達の位置にも立てはしたものの、山裾の樹木が成長して見通しは困難だった。

[Data] NikonF5+AiAFNikkor ED180mm/F2.8D 1/250sec@f4+2/3 C-PL filter Ektachrome Professional E100SW [ISO160/0.5EVpush] Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

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湯河原 (東海道本線) 1998

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鍛冶屋のカーブと云えば、往年の名撮影地である。
EF60 500番台牽引の九州特急にモハ80の湘南準急、EH10に牽かれたワキ1000の小口扱い急行貨物などが、密柑山を背景に端正な築堤の曲線を旋回する姿は鉄道雑誌に定番のように掲載されており、幼少の頃に機関車絵本に見たEF58の<つばめ>も、ここでの撮影を下絵にしていたと思う。
この築堤の曲線には、叔母夫婦がその地でみかん農園を営んでいたこともあって、それを訪ねた折には自ら線路端に立ってもいた。彼方には新幹線が矢のように走り過ぎるのも見えたから1965年のことと思う。→ 飯井 (山陰本線) 1974 当時の新崎(にいさき)川の谷は、線路山側の旧鍛冶屋村の中心集落の他は水田とまばらな農家の見られるばかりで、そこを横切る築堤は周囲の開けたロケーションに所在して、すっきりとした列車写真を楽しめたのである。
以来に40年近くを経れば、高度成長期以降に進んだ市街地化により、いつしか築堤は街並に埋もれ、現在にも築堤上の線路端からかつての画角の再現は可能だけれど、周囲に背景は様変わりして撮れたものでは無くなっている。

替わっての画角は陣場の沢の対岸、嵯峨沢の斜面からの遠望だろうか。海面は望めないけれど、築堤のお陰で辛うじて家並みに隠されずに編成を捉えられた。
そこに最適の光線は太陽が城山の方向に低く沈まんとする夕刻なのだけれど、目当ての上り九州特急は朝の通過なものだから、ここでは丸一日を過ごすことになっていた。新幹線の高架まで降り、瑞應寺の境内から墓所を抜けての農道から一本松トンネルへの画角などにも飽きれば、その真上にあった日帰り温泉施設で過ごし夕方を待ったものである。食事にも困らない温泉付はここでの楽しみでもあった。空腹に厳寒の原野に過ごす地点もあるなら、これは極楽であろうか。それには幾度も通う地点だった。

列車は2列車<富士>。<みずほ>は失われたけれど、<さくら><はやぶさ>とも単独運用で健在な頃の撮影。
よって、これは全編成が熊本運転所の24系25形による[熊2]運用である。
機関車列車と云えど幹線特急はさすがに速く、この画角・距離でも1/250秒のシャッタ速度では横方向の移動に微細に振れた。

[Data] NikonF5+AiAFNikkor ED180mm/F2.8D 1/500sec@f4+1/3 C-PL filter Ektachrome Professional E100SW [ISO160/0.5EVpush] Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

菊川 (東海道本線) 1997

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静岡県は酒呑みには垂涎の酒造地域と知られる。1980年代半ばに劇的に酒質が向上して以来のことで、当時に静岡県の工業試験場醸造課での研究開発にて産み出された多様な「静岡酵母」によるところが大きい。林檎様、梨様、マスカット様などの香りを多成し、爽快な吞み口を実現した吟醸酒や純米酒が嗜好の変化していた酒呑みに注目されたのである。アルコール度数15度換算での年間出荷量が1000石に満たぬ小蔵の大半ながら、かつてに地元、旧志太郡大井川町を中心に存在していた酒造集団志太杜氏もいなくなり、南部に山内、越後、能登と各地から杜氏を呼び寄せるか、或は蔵元自らが醸造を手がけざるを得ない中での酒造りの姿勢や、この酵母を得ての戦略も見逃せない。

東海道本線の菊川詣では、駅から至近に在る蔵元、森本酒造の醸す「小夜衣」が目的半分と白状しておく。それは生産量から、地元を中心に県下を出ることの無い酒なのである。80年代の終わり頃だったか、浜松出身の知り合いから土産に貰った五百万石を50パーセントに磨いた吟醸酒の、ほのかに立ち上がる吟醸香に緻密なキレの味には驚き、モノクロのコピィ出力を手切り・手貼りしたボトルのラベルも少量生産を伺わせて、大変な酒に巡り合ったとの思いを持ったものだった。しかも、呑み仲間の間では、焼津の「磯自慢」や大東町の「開運」など静岡酒は話題になってはいたけれど、これは全くにノーマークであった。
酒は買いに出向くものとの信条を頑なにしていた頃で、新幹線に掛川の開業していたものの、そのためだけの往復にも気が引けていたゆえ、撮影を肴に滅多に撮ることのなかった電化幹線との抱き合わせを思いついたのである。

金谷から菊川の牧ノ原台地越えは、かつてには閉塞区分の友田信号場(所)が置かれ、補機を要した大幹線の難所であり、下倉沢集落の菊川沿い東京起点218キロ付近の曲線区間が古から撮影地に知られていた。先輩諸氏の時代に比すれば集落の大きくなり住宅の建て込んで、それのフレイムアウトするポジション選定には些か苦労する。
西日の斜光線を旋回するのは1062列車。
この後を追って来るEF65PFの牽く776列車までをここで過ごしてから、森本酒造に立寄り酒を仕入れるのを定番にしていた。帰りは急ぐでなければ静岡に出て、そこを始発の<ながら>編成送込みの366Mである。その横浜まで2時間余りで、取り敢えずの四合瓶一本は空いたものだった。

[Data] NikonF3P+AiNikkorED300mm/F2.8S 1/250sec@f5.6+1/2 C-PL+Fuji CC10M filter PKR [1EV push] Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

名古屋 (東海道本線) 1981

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特急寝台や新幹線で何度か通過してはいた名古屋駅を初めて市内へと降り立ったのは1981年のことである。その際の「カツ丼」の一件は先日に書いた。(→戸田小浜 (山陰本線) 1974)
その後には仕事でも幾度か向かうことになり、思い出すこともあったので続けたい。
そこでの「カツライス」が、とんかつ定食の様式なのは良いにせよ、それに味噌ダレのかけられているには些か驚いたものだった。カツライスと呼ばぬ店でも、カツ定食はほぼ例外無く味噌ダレである。ここでの味噌とは勿論地場産の八丁味噌を指す。当初には物珍しさもあったのだけれど、まもなくにその甘いタレには飽きてしまった。そうなる頃には慣れたもので、テーブルに付けば「カツ定食味噌抜きソース付き」と注文していた。これで、普通のカツ定食が食べれた。
それにしても、名古屋の人は味噌好きである。呑み屋でのシメに「焼きおにぎり」に「みそ汁」を頼もうものなら、それはほぼ例外なく味噌焼きに赤出しだったし、この地域に特有と思われた喫茶店でのモーニングサーヴィスに味噌トーストと云う店さえあった。ジャム替わりにバターと混じった味噌は美味しかったけれど、これは反則の部類だろう。
独特の豆味噌である八丁味噌を嫌っていた訳では無い。固い太麺の「味噌煮込みうどん」にはすっかり嵌ってしまい、当地に赴く度に、あの角棒のような箸は使いこなせずに居たものの伏見に在った「山本屋総本家」の本店に上がり込んでいた。
この味噌煮込みと云い、もつひとつお気に入りだった「風来坊」(比較的空いていた矢場町店が定番だった)の「手羽先揚げ」と云い、濃いめの味付けの料理があるかと思えば、一方には「きしめん」である。九州特急の5分の停車時分に、在来線ホーム東京方端に在った立食いスタンドに走った向きも多かろうと思う。東京を夕方に出ての4時間半は、丁度就寝前の夜食時間だったのである。
あの北の方の出身者には物足りなさ過ぎるツユも名古屋とすれば、どうにも輪郭の掴み難かった地域とは書いておく。名古屋駅を始め美濃太田や下呂の駅蕎麦は同じく透き通ったツユだったけれど、市中の蕎麦屋のそれは鰹出汁とも記憶する。

写真は名古屋駅頭での13M<しらさぎ13号>金沢行き。発車前のスナップである。
上野からの東北特急で乗り馴れ、見慣れもしていた485系特急だけれど、車内のリネンなど装備品に食堂車の食器などに差異のあって、かつて「(鉄道)管理局が異なれば異国も同じ」と聞いたのを妙に納得したりしていた。天下の東海道本線だけれど、そこの関ヶ原越えも東北線内の十三本木越えと異なりゴトゴトと走った。

[Data] NikonF3HP+AiNikkor105mm/F1.8S  1/30sec@f1.8  NONfilter  Tri-X(ISO320)  Edit by PhotoshopCC on Mac.

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