70's/80's Monochrome Age and Years of Ektachrome film

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仙台 (東北本線) 1971

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1971年3月20日より運転を開始した<あおば>には、運転初日の上下列車に乗っている。春休みの渡道に合わせてのことだが、その途上で仙台から秋田を往復したのである。
1968年10月の改正における特急列車の増発と運転速度向上にて、その全国的なネットワークの深度化の図られたとは云え、線路の繋がっていない北海道を除けば、特急列車とは首都圏ないし関西圏あるいは名古屋を起点の設定と云う当時に、地方都市間連絡は1967年10月1日より門司港-西鹿児島間に運転していた<有明>に次ぐ設定であり、これが最初の事例だった北上線のごとき地方支線区への特急運転に興味を抱いた故であった。

上野まですら3時間53分の実現していた当時に、陸東線・北上線・田沢湖線と各線経由の急行列車の在りながら最短でも4時間半強を要していた仙台-秋田間の輸送改善は国鉄東北支社の課題のひとつであった。その中での1970年2月の奥羽線<つばさ>へのキハ181系気動車投入は千載一遇の機会と映ったに違いない。この区間の到達時分短縮に、線路規格の低い奥羽線内や支線区間での運転速度向上は困難ではあるけれど、この高出力機関搭載系列を用いれば、軌道の整備された東北線内を電車並みに走行可能な上に、2往復の<つばさ>は運用上に秋田で丸一日近い滞泊を余儀なくされていたのである。そして北上線経由運転は両駅間を結ぶ最短距離であった。
本社内には一部に残った反対を押し切っての設定は、当初に(毎日運転の)臨時列車であり、<つばさ>編成に中間電源車として組成のキハ181の向きを上り向きに方転して、それを含む下り方の6両使用の全車普通席の編成(この時点でこれを附属編成とした)ではあったけれど、この臨時特急は、4時間を切る運転時分にまずまずの成功を収め、半年後の1971年10月1日改正にて尾久区への増備による<つばさ>編成増強を背景に、同編成上り方の特別車や食堂車を含む6両(基本編成)運用に改められて、特急としての面目を一新したのだった。

写真は仙台駅6番線に入線した8021D<あおば>の一番列車。隣では地元新聞のカメラマンもシャッタを切っていた。
1番ホームからが大半の下り優等列車に、本屋から最も遠く上屋も半分しか覆わない6番ホームは些か寂しいが、仙台運転所からの回送には致し方ないところだろうか。発車に際しては仙台鉄道管理局の吹奏楽隊も参加した出発式が挙行され、途中北上線内の停車駅となった陸中川尻ではホームから溢れんばかりの地元住民の集まる中で、湯田町による歓迎式も行われ、また車内ではここから乗り込んだ観光協会からの記念品の配布もなされたのだった。

秋田では、その近郊で蒸機を撮影して過ごし、なまはげも登場した出発式の行われた夕方の上りにて仙台へと戻っている。
東北支社の力を入れたはずの特急列車にかかわらず、途中停車各駅の構内アナウンスが<あおば>と呼称せずに「臨時特急」と繰返していたのが気になった乗車ではあった。そう云えば、目黒駅で購入したマルス103のV型端末からの特殊指定共通券での発券も、当然に活字棒の準備の無くて別途「特急券」「臨時」と押印されていた。
実は、<あおば>にはその最終運行となった1975年11月24日の上り12Dにも乗りに出掛けている。都内からの到達の関係で陸中川尻での乗車だったけれど、車内は普段と変わらず、特別の車内放送も無しに淡々と仙台に終着したのだった。
編成は秋田に戻ること無く、翌日に尾久へと有火回送された。

[Data] NikonF PhotomicFTN+P-AutoNikkor50mm/F2 (Data unknown) Y48 filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

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藤田 (東北本線) 1979

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前にも書いたと思うのだが、ここで仙台を中心とした地域の記事の多いのは、そこが東北本線のほぼ中間に位置したからである。上野からも青森からも仙台で朝を迎える夜行の設定があり、道内撮影との往きに帰りにの立寄りに利便があったのである。小牛田に降り立つ陸東線や石巻線には往路の、青森から<八甲田>を使う仙台市内や仙山線へは帰路の立寄りが多かったと思う。
東北本線の、この宮城・福島県境の国見峠区間には電化幹線と云うこともあり、それほど熱心に通った訳では無い。福島・会津磐梯特殊用均一周遊乗車券(販売名-ミニ周遊券)の自由周遊区間に白石までが含まれていて、会津行きの際に足を伸ばしたことも在るけれど、大抵は道内からの帰路であった。峠とは云え、歩くのは田園の田舎道ばかりだったし仙台周辺の帰りがけの駄賃と云ったところである。但し、ここへ向かうには<八甲田>を白石か次の福島で降りていた。

日本鉄道が、40分の一勾配(=25‰)を以てしてまで国見峠を経路と選定した経緯は良く分からない。この時代の文献調査の基礎資料である『日本鐵道史』(1921年鉄道省編纂)には、開拓使雇いの鉄道技師ジョセフ・ユーリー・クロフォードに委託した調査にて阿武隈川西岸に沿う経路が示されたとあるものの、これが国見峠を越えて刈田郡内の通過に変更された経緯は記述しない。通説には、それは当時に一大養蚕地帯であった伊具郡内阿武隈川流域住民の強硬な鉄道忌避の結果とされるが、改めて関係地域の市史、町史や村史の当該個所を読んでみると、それぞれの記述のかなり相違しているのが分かる。自治体の正史であるから無理からぬことで、その濃淡から読み解く他に無い。
養蚕を主要産業としていた事情には伊具・刈田の両地域ともに変わりはなく、それぞれに在った、得体の知れぬ「汽車」に対する蚕生育への不安からの強硬な反対運動が書かれている。そして同時に刈田郡の白石・大河原、伊具郡の丸森・角田ともに線路誘致を主張する有力者の存在も記録され、地域史からは双方に反対勢力と積極的な誘致論の併存が読み取れるのである。
委細は省くが、この状況下に経路決定の要因となったのは、大河原の有力者尾形安平の存在に思える。誘致論者の彼は日本鉄道の株式応募を地元素封家に積極的に説いて回り、鉄道用地となり得る広大な土地も私費にて買収しており、鉄道側は反対運動に無縁のこれを評価したものであろう。そこに至る経路での運動には会社発起人のひとりである銀行家渋沢栄一が白石の豪商米竹清右衛門を説得して用地を提供させ落着を図った様子である。
かくして、線路は当時に宮城県南の中心都市角田を外れて、白石-大河原-船岡を経路としたのであった。この伊具郡と刈田郡側の鉄道を巡る確執は、戦後に丸森線の建設と東北本線の電化・複線化に際して再燃するのだが、それは別項に譲る。

国見峠は県境の山稜に開けた低い鞍部を通過する標高190メートルばかりの小さな峠なのだが、それでも福島・白石方ともに比高100メートルを上る難所に違いなく、鉄道には建設規程に許容される限界の25パーミルが連続して、電機運転に至るまで重連の領域であった。この頃には残存していた気動車急行は、それこそ停まりそうな速度でここを越えていたのを思い出す。けれど、軽快に駆け上がる電車特急はそれを感じさせない。
まだ、首都圏とは築館インタまでしか通じていなかった東北道と併走するのは、1009M<ひばり9号>。

[Data] NikonF2A+AiNikkor105mm/F2.5 1/500sec@f5.6 Y48 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

長町機関区 (東北本線) 1972

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東北線の電化が盛岡に達して常磐線の平以北が非電化当時の長町機関区なら、電機と蒸機が同居していて不思議はない。けれど、これは1972年。機関車は有火のC58 328である。

小牛田機関区にC58が健在であった頃、仙台鉄道管理局はそれに仙台発着の団体臨時列車を牽かせたことが幾度がある。勿論、当時の「SLブーム」に便乗した集客手段であった。
早朝に小牛田を出区して単機回送にて仙台運転所に向かい、ここから仙台構内まで客車を回送。機関車は再び単機にて長町機関区に入って転向の後に仙台へ戻り、団臨を牽いて鳴子なり中山平を目指すのである。帰路は、この逆路を辿って長町機関区には二度出入りすることになっていた。
仙台に波動用12系の配備の無いことから、編成は普通列車用旧型客車の予備車が使われ、それでも近代化工事施工のオハ35や46を優先して組成していた。

5月28日のこの日に運転されたのは募集団臨ではなく、在仙のテレビ/ラジオ放送局、東北放送(TBC)が開局20周年の記念行事として視聴者を抽選により招待したもので、車内からの特番中継放送などもあったようだ。機関車には「SL TBC 20号」のヘッドマークが掲げられていた。
定期列車としては無くなっていた陸羽東線内での客車牽引も魅力ではあったが、それは仙台付近で迎えることにして長町機関区の転車台に載る姿を撮るべく、事前に仙台局の広報課を通じて見学許可を申請していたのである。
余談めくが、この時代に公式ルートで許可を請えば、希望日時の変更を求められることのあるにせよ、個人の資格であれ大抵の場合には認められた。指定日時に事務室を訪ね所定の手続きを済ませれば、黄色いヘルメットなり腕章を貸与され、案内人(構内掛りのことが多かったが助役自らの区所も在った)とともに構内を歩くのである。

この日もヘルメットを被り転車台へと案内されると、まもなくにC58 328が到着して構内手による転向作業がはじまる。すると、その汽笛に近所の住人や通行人が続々と構内踏切を渡って集まってくるのだった。孫を抱いたお年寄りに買物カゴの主婦に、犬を連れた散歩人までいる。構内手と挨拶を交わす人もあるから顔見知りなのだろう。
転向を終えて出区線に移動すれば、皆ぞろぞろと付いて往く。
後に思えば、この機関区周辺の住宅は鉄道官舎で住民は職員家族であったのかも知れない。東北線上の大機関区と云えども代々の自分達の機関区意識であろうか。いずれにせよ国鉄の鷹揚な時代である。付記すれば、この集団に同業の写真屋と思しきはひとりも居なかった。

写真は出入区線で本線転線に待機するC58 328を隣線で入区待ちのED75 86のキャブから見ている。
ヘルメット姿の見学者に、構内機関手が乗せてくれたものである。そして、このまま庫内線まで送って貰った。

[Data] NikonF+P-AutoNikkor50mm/F2  1/250sec@f5.6 Y48filter  NeopanSSS  Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

藤田 (東北本線) 1980

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70年代から東北新幹線の開業する1982年6月23日のダイヤ改正までは、東北線特急群の全盛期であったのだが、それを熱心に撮った記憶は無い。
会津行きに使っていた福島・会津磐梯の特殊用均一周遊乗車券の自由周遊区間が白石までを含んでいたから日程の一日を充てるとか、道内でのスケジュールの都合で帰路が<八甲田>になれば白石や福島で、それを降りていたくらいである。それでも行き先は、勝手を知り豊富にコンテを持っていた国見峠区間に決めていた。

今、国見峠と書いたけれど、地図上にこの名称は記されていない。それは福島盆地と白石盆地を遮る山塊に大きく切れ込んだ鞍部を越えるもので、ここでの東北本線の施工基面高196M96は藤田との差ならば100メートル程である。それでも東京起点291K付近から5キロに及ぶR400曲線の介在する25パーミル勾配が続き、蒸機運転時代には北海道連絡ルートを常磐線に譲る要因となっていた。
電化/複線化の成った後には電車列車は軽快に駆け上っていたけれど、数本設定の在った気動車列車は重い機関音と共に這うようにして登り詰め、藤田-越河間の運転時分で電機牽引客車列車の13分に対して15分を要する程であった。貨物列車なら引続き重連の領域である。

この頃に藤田に降り立てば北側に新幹線の高架橋が完成しつつあり、それが蔵王トンネルに吸い込まれる方向に歩くと、道は斜面を登り東北自動車道を越える架道橋上に至る。周囲の斜面には果樹園が広がり、眼下の福島盆地から厚樫山に取り付いてそれを迂回して往く線路が遠く一望出来た。

列車は、1008M<ひばり8号>。仙台運転所の12両組成による[A72]仕業である。
当初76年度に予定していた東北新幹線の開業が78年度にも不可能となり、東北線特急はその年の10月改正にて宇都宮以南区間を平行ダイヤ化して増発が行われ、それは過去最大の運転本数に達していた。この区間に立てば1時間に4本のそれを撮れた頃である。
桃の果樹が強い南風にざわめく。

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.8 1/500sec@f5.6 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR3 on Mac.

長町 (東北本線) 1972

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道内への往還途上で度々仙台に降りていたことは前にも書いた。仙山線への立寄だったり、市内電車の撮影だったりだが、その隣駅長町駅も東側に広い敷地を持っていた長町機関区ともども、苗穂駅との比較で興味深く眺めたりもしていたのだった。

逼迫した輸送需要に対して設備の近代化と改善を図った「第三次長期計画」途上の成果として実施された1968年10月1日改正にて、国鉄は東北本線の全線電化と複線化の完成を喧伝した。電車化された<はつかり>は上野-青森間を8時間15分と云う、当時としては驚異的な到達時分で駆け抜けたのは、その改良された線路設備に依る。
それとは無関係なのだけれど、厳密に云えば、この時点にて東北本線を構成する区間では3箇所に単線区間が残されていた。青森操車場に分岐して桟橋へと向かう貨物運転線を含めれば、確かに複線なのだけれど、旅客線の上下線の合流してしまう青森入駅直前の区間、岩切からの旧線の一部区間である通称-利府線、そして、この長町-東仙台間を宮城野駅を置いて短絡していた通称-宮城野貨物線である。(利府線は非電化でもあったから、全線電化も正確ではなかったことになる)
この内、1960年10月1日の開業時から全線で用地を確保していた宮城野貨物線は、1972年12月18日に長町-宮城野間が、ひと月後の73年1月16日に東仙台まで複線化されるも、残りの2区間は現在もなお単線運転である。

写真は、単線当時の広瀬川橋梁に市内電車撮影の折に立ち寄った際のカットである。煩雑に走る貨物列車に終末期を迎えつつ在ったED71を記録するつもりだったが、やって来たそれはED75を従えた三重連で驚いた記憶がある。長町機関区から宮城野への回送であろうが、全てパンタの上がった有火であるから正真正銘の三重連ではある。

貨物の長町駅は、上下の貨物運転線で広大な操車場と機関区/貨車区を抱込む配線となっていて、下りの貨物列車は長町駅場内信号機で上り本線を横断して東側の貨物着発線に入り、それはこの橋梁に結ばれていたから、長町駅のホームを貨物列車の通過することはなかった。上り貨物線は橋梁東京方で下り線と分かれて操車場の東端を進み、遥か名取川橋梁手前で旅客運転線へ合流していた。運転上は、この間3キロ余りの構内長を持っていたことになる。
宮城野までの複線化に際しては、橋梁青森方に旅客・貨物運転線間の渡り線が新設され、長町構内を本線にて通過する下り貨物列車の例を見るようになった。これは、73年2月2日から78年10月1日まで続けられた、仙台駅での新幹線工事関連の深夜帯旅客列車の貨物線迂回に対応してのことで、それの終了後も永く維持されていたけれど、操車場も機関区も無くなり、旅客施設自体も高架駅となった現在、宮城野貨物線への分岐は旅客ホームを過ぎた高架橋上での配線に改められている。

[Data] NikonF+P-AutoNikkor50mm/F2  1/125sec@f8 Y48filter  NeopanSSS  Edit by PhptpshopCS3 on Mac.
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