70's/80's Monochrome Age and Years of Ektachrome film

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

岩村 (明知線) 1973

iwamura_01-Edit.jpg

明知線は、三河と境を接する東濃への山中に点在する小さな盆地を連絡する線形が選ばれていた。その盆地ごとに集落の開かれていたから地方開発線としては当然であろう。この地域は平安期の古より遠山荘(庄)と呼ばれた荘園であり、鎌倉幕府成立後の1195年頃(1185年説もあり)に地頭を拝命した遠山氏が居城を置いた岩村が、その中心地であった。城は当初には現在の岩村町富田地区への平城と推測されているが、時代の戦国へと遷移する1400年代末期に岩村川右岸の山稜に築城して要害堅固な山城とした。本丸の標高は717メートル(721メートル説もあり)に位置し、麓との比高は180メートル余りに達した。後年に「岩村城」とはこれを指す。

その後も富田地区に残った城下は女城主の伝説を産んだ戦乱にて焼き払われ、現在の岩村市街地は江戸期に松平家の支配下で発展したものであろう。それは城山を正面に仰ぐ緩い坂道の街路沿いに、現在の本町あたりから次第に西側へと形成されたものと思われ、その両側には趣の在る古い街並が続いて、1787年創業と伝えられる「恵那乃誉」の酒蔵もそこの一角に所在した。
岩村醸造の近年の酒銘「女城主」に出会ったのは都内某百貨店の酒売り場だった。飛騨地域は勿論のこと西濃の酒には親しんでいたけれど東濃地方の産は初めてで、それが木曽地域の酒質とどのように繋がるのか興味を惹かれたのである。岐阜県酒らしく「ひだほまれ」の50パーセント精米の純米吟醸は、やや酸味の立てながら軽くしまった味わいに深く感じ入る酒であった。

1972年から73年の幾度かの中央西線往き以来、久しく忘れていた明知線に乗ったのは20年余りを経過した94年のことだった。仕事先の名古屋でスケジュールの空いてしまい、この蔵への訪問を思い立ったのである。線路は既に明知鉄道の経営に移って久しかったけれど、岩村の駅は記憶とほぼ同じ姿で存在していた。そこまで運んでくれた富士重工製のLE-Carの安っぽい造りは些か興醒めとしても、中部地域で最後と云われた通票閉塞に梃子扱いの腕木式信号機が維持されていたから尚更にそう感じたのかも知れない。

訪ねた岩村醸造の蔵は、地方の素封家らしい屋敷をともなって如何にも美味い酒の醸されそうな趣であった。かつては、このような酒蔵や味噌蔵、醤油蔵には良く設備されていたトロッコ軌道が、ここでは格子戸を開けた店先から奥の醸造蔵までの100メートル程に現役当時のままに残されて、よく見ると店頭の陳列台に使われていたのはその台車であり、未だに稼働可能と聞いた。鉄道屋とすれば。ますますに感じ入らざるを得ない蔵なのだった。

写真は、岩村の貨物側線から出発して往く464列車。2往復の設定されていた貨物列車の午後の上りである。いつも、ここで貨車1両を拾っていたのだが、定形出荷の積荷は何だったのだろうか。
岩村城に修理夫人こと女城主の伝説については、恵那市岩村町のポータルサイトに簡潔に記されている。

[Data] NikonF photomicFTN+AutoNikkor50mm/F2 1/125sec@f5.6 Non filter Kodak unknown film(ISO100) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.
スポンサーサイト

阿木-飯羽間 (明知線) 1972

agi_01-Edit.jpg

鉄道省が1932年に、国有鉄道簡易線建設規程(1932年5月27日鉄道省令第8号)を制定して、それまでの国有鉄道建設規程(1929年7月15日鉄道省令第2号)に規定の甲乙丙各線の線路種別に簡易線規格を追加したのは、ニューヨーク証券取引所における1929年10月24日からの株式の大暴落を引き金に世界的に波及した経済不況を背景としている。これによる客貨の減少に加えて、自動車運送の普及による輸送量の低下が営業収入減をもたらし、幹線網は完成してルーラル地域が中心となっていた新線建設や既設線の改良・保守計画を見直さざるを得なくなったのである。それまでの建設規程によらない簡易線規格を設けることにより、丙線で計画されていた新線を簡易線として建設費を低廉化した他、同時に国有鉄道建設規程も荷重制限の規格基準を緩和する改正(1932年5月27日鉄道省令第7号による)を行い既設線の線路種別の格下げも可能として保守経費の低減をも図ったものである。

この施策により、鉄道省はおよそ3000万円(当時)の予算を圧縮したとされており、これを転用して1930年代から製作の開始されたのが、それら丙線や簡易線での運転を用途としたC10に始まるタンク式機関車の一群なのである。それまで、許容軸重が13tと規定の丙線規格に適合する機関車は古典機関車の淘汰以来存在せず、速度制限を課して9600や8620が入線していた事情があり、早急に代替機の要求されていたのである。また、不況期の増収策に都市近郊での快速列車の頻発運転用としての需要も存在していた。試作的要素の在ったC10を引き継いでK-13の丙線用に量産されたのがC11であり、簡易線向けにK-11で製作されたのがC12である。

1933年から翌年にかけて全通した明知線は、丙線規格での計画を制定されたばかりの簡易線に変更して建設され、岐阜県恵那地方の山間に散在する小さな盆地を連絡する経路から、随所に簡易線に許容された35パーミルに近い30から33パーミル勾配が連続していた。丙線としてならば、想定される需要からそれらの特認無くして建設の困難であったと思われる。その設計荷重にて開通当初よりC12が投入された模様だが、その輸入古典機関車と同等の火床面積に軽い軸重には過酷な仕業であったに違いない。牽引定数も相当に制限を受けたと思われ、輸送量の減少していたこの当時でも、ここの貨物列車は午前と午後の2往復設定があった。

中津川市と岩村町(現恵那市)を隔てる低い丘陵の鞍部を越えるこの区間も、その中間のここまで阿木から32パーミルが連続していた。C12の貨物列車はそれこそ止まりそうな速度で登って来る。
モノクロブログに、この頃までモノクロと併用していたカラーネガでの撮影をご容赦頂きたい。

=参考文献=
土木学会誌 第25巻第5号 (1939年5月) - 土木図書館ディジタルアーカイブ収蔵資料
C56/C12形機関車明細図 鉄道史料保存会 (1991年)

[Data] NikonF PhotomicFTN+P-AutoNikkor50mm/F2 1/125sec@f5.6 Non filter  SakuraColor100  Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

FC2Ad

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。