70's/80's Monochrome Age and Years of Ektachrome film

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赤塚-水戸 (常磐線) 1966

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自分専用として一眼レフカメラを初めて充てがわれたのは、1966年の夏に帰省していた水戸でのことだった。ある晩、祖父母の家で外出先から戻った親父に新品のNikomatFTを手渡されたのである。日本光学社(現ニコン)定番の金色の箱は眩しく、ボディを取り出す時の動悸は忘れ得ない。
NikonFに対する普及機ながら当時の定価を後年に調べれば30500円とあった。親父の外出は懇意の写真店を訪ねるためであり、おそらくは仕入値に近い金額で入手して来たものだったろう。

NikomatFTは、一眼レフらしく装着レンズを透過した光線による測光、即ちTTL測光を実現し、必然にその露出機構を内蔵したNikon社の最初の機種であった。永年、別途に露出計を使って来た親父には、それの煩わしかったものか翌年にはF用のフォトミックファインダを買い込んでいたものだが、その撮影の姿を眺め続けていた子供の眼には、逆に白い半球の単体露出計での計測が如何にも写真らしくて格好良く見え、使わなくなったそれを貰い受けて以来に現在まで、露出の別途計測は写真のスタイルになっている。
このカメラについては、レンズ装着の度に感度に開放F値を合わせねばならない、その初期の連動方式と共に出版物やWeb上でも多くが語られているので、ここには繰返さない。記述されるインプレッションの多くはそのとおりである。Nikon社の製品であるから質実に作り込まれ、基本性能は十分であったから鉄道の撮影の限りに不自由したことは一度も無い。まだ基本技術も拙く、せいぜい135ミリまでの望遠には、視野率の90パーセント前後と比較的小さく50ミリ装着時で0.86倍とされたファインダも気にならなかったのである。ショックの小さなミラーのクイックリターン機構も子供の手持ち撮影には丁度良く、後年使ったFやF2のそれには驚いたと記憶する。
但し、上記のレンズ交換の度の設定を失念する失敗だけは数知れず、業を煮やした親父は(多分親父もPhotomicTNファインダで同じ目に在っていたものと思う)、まもなくにこれを売却してNikomatFTNを入手して来て、以後F2を(これは自分の稼ぎで)買い入れるまで、貰い下げのNikonFと使っていた。

写真は、待ち切れなかったその翌朝早くに、通っていた水戸市民プール下の常磐線に立った際のカットである。
これが一眼レフカメラによる最初の撮影と云うことになる。
列車は6列車<ゆうづる>。牽いているのは田端区のEF80である。この区間も電気運転となって間もなく、<ゆうづる>は前年秋に急行<北斗>を格上げして設定されたばかりであった。もちろん平まではC62蒸機に引かれていた頃になる。テストのつもりだったネガは疾うに失われて、これは紙起こしである。撮影はもちろん、現像に紙焼きの拙い技術はご勘弁願いたい。

NikomatFTNは初号機ではないけれど、写真を職業とするに至った契機の機材でもあり、Nikonサーヴィスでレストアした完全作動状態で今も防湿庫に在る。
貰い下げのFからD3に至るまで仕事写真は勿論、趣味写真にもフラッグシップと呼ばれる機材を使って来たのだけれど、それは職業写真屋の矜持ではあるものの、自分の腕の悪さを機材に転化せぬための戒めに始めたことでもある。
最近にNikomatFTNにリヴァーサルフィルムを通してみれば、F5での撮影とフィルム上に区別がつかない。ならば、今に至るまでの撮影はこれでも十分に撮れたことだろう。写真は機材では無いとつくづくに思う。

[Data] NikomatFT+P-AutoNikkor5cm/F2 (data unknown) NONfilter NeopanSS  Edit by PhotoshopCC on Mac.

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