70's/80's Monochrome Age and Years of Ektachrome film

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大館機関区 (奥羽本線) 1973

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奥羽地域では遅くまで蒸機運転の残り、しかも朝の輸送力列車に客車運用まで在ったと云うのに阿仁合線は撮らず仕舞いだった。鷹ノ巣は幾度も通ったけれど、C11なら会津線や石巻線で散々出会っていたし、何より当の客車列車は鷹ノ巣からの送込みが夜間の上、阿仁合始発の5時16分には現地への宿泊を要して道内との往来途上の立寄りには荷の重過ぎたのだった。けれど、後になって先輩諸兄の作品に見た秋田県北の山間地である比内地域の景観は好ましく、後悔も頻りであった。今でも沿線のそれは変わらないだろうとは思うものの、線路自体が第三セクターの秋田内陸線に移管され、軽量気動車の単行やら2両組成の走るだけには、やはり足は向かない。

写真は大館機関区で整備を受ける阿仁合線仕業のC11である。上野からの<津軽1号>を降り立つとこれの見えたものだから、陣場へ向かう前の駄賃とばかりに訪ねたのだった。
矢立峠越えの補機仕業を主な任務としていた大館機関区は、1971年10月の奥羽本線の電気運転化にともない車両配置の無い乗務員区となっていたけれど、阿仁合線仕業のC11だけは配置区を弘前運転区としながらも引続きここに常駐していたのである。蒸機運転末期には検査周期から煩雑に転属の行われたものだったが、帰京後に調べてみれば、このC11 143は1952年に山形機関区から大館区に転入して以来の同線運用車と知れた。
もともと扇形庫を持たない機関区であったから、電気車両の受入に構内配線の大幅に引き直されたでなく、それの検査庫も1900年代初頭の建築と思われる石造の庫の同位置での改築によっていた。それはまさに改築であって、石積みの側壁を残して、それを基礎に鉄骨を組みスレート構造としたものだった。庫内3線のうち1線に架線を渡さずに蒸機検修線に用いており、それには不釣り合いな庫には違いなかった。
一日に3往復の設定されていた鷹ノ巣との回送は、奥羽線が電気運転となっても変わらずED75に引かれた旅客列車の後部にぶら下がって往き来していた。余談ながら、弘前運転区への配置は3両であり、大館区常駐の2両には定期的に差替の行われ、これも旅客列車の後部連結であった。なので、矢立新線で最後に切替の行われた松原トンネルも蒸機が潜っていたことにはなる。

[Data] NikonF photomicFTN+AutoNikkor50mm/F2 1/250sec.@f5.6 Y48 filter Tri-X(ISO400) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

〔お詫び〕本業が極めて多忙となってしまい、更新の滞り気味です。3月末頃までとご容赦下さいませ。


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北常盤 (奥羽本線) 1981

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東京-鹿児島間を31から32時間、二夜行を要した急行<さつま>には乗ってみたかったものだ。然りとて、1958年10月の改正で消滅(九州島内区間のみに短縮)してしまったから叶ったはずも無い。せめてもと、同区間の<桜島><高千穂>には1975年3月の廃止直前に乗りに往っている。往きを鹿児島線経由で24時間50分を掛けて到達し、28時間を乗り続ける日豊線経由で帰って来た。西鹿児島滞在1時間2分で下り<桜島>から上り<高千穂>へと折返すだけの53時間あまりを乗りっぱなしは10代の鉄道小僧だったからこそだろう。それでも、出発から三日後夕方の東京駅到着には臀部筋肉の緊張は極限だったと書いておく。
1970年代には客車や電車の特急寝台列車がダイヤ改正の度に増発されていたとは云え、長距離急行もまだまだ健在だった時代である。新幹線の博多開業にて東京・関西と九州間はすっかり寂しくなってしまったけれど、上野には多くのそれが発着していたし、大阪-青森間には<きたぐに>が特急寝台<日本海>とは使命を異にして走り続けていた。

羽越線に蒸機を撮りに往けば、ナハ11を連ね食堂車オシ17も組込んでDD51に牽かれる<きたぐに>の姿を幾度も目撃して、その19時間30分を乗り通してみたいと思っていたものの、東京に住む限りには無縁の列車でもあった。1972年11月6日未明に下り列車自らが当事者となった北陸トンネル列車火災事故にてオシ17の外され、翌1973年10月1日改正を以てはスロ62を除く座席車が12系に置替られ、1978年10月2日改正ではそのスロ62の連結も無くなれば、客車急行の風格は全くに失われてしまうのだが、それでも乗りたい列車には違いなかった。それを実現させるのは1970年代も末となってのことで、思いきって北海道周遊券の青森までの乗車経路のひとつ、上越・信越・羽越線回りの新津以南を放棄し、都区内→新大阪→新津の連続乗車券を別途購入したものだった。
当時に下りは青森で2時間余りを浪費するものの、青函27便を介して函館からは夜行<すずらん>に接続しており、翌日を道央の何処かにしておけばスケジュールの無駄も無いのだった。ただし、都内を12時間早くの出発を強いられた。

津軽平野の只中を往く502列車<きたぐに>。大阪まで19時間の旅の先は長い。
大館市内の病院で入院生活を送っていた友人を度々見舞いに訪れていたこの当時、近い将来に新潟打切りの噂も聞かれて、帰京をわざわざ米原回りとして幾度か乗ったものだった。
後位は宮原客車区のオユ10による航送運用[大航21]である。進行方向の変わる新潟以南の基準駅である米原方への連結は、以北区間では逆位置となっていた。郵便扱駅ではホームを端から端まで郵袋を移動することになって、関係者には難儀な列車だったに違いない。

[Data] NikonF3HP+AiNikkor50mm/F1.4S 1/250sec@f4 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

福島 (奥羽本線) 1968

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水戸駅から場外へ進出して往くそれに手を振る幼少時の姿がアルバムに残るけれど、C62の牽いた<はつかり>を知らない。対して、初の特急形気動車の<はつかり>は置替の頃より記憶に鮮明だ。それの1960年あたりが幼児と小児の境と云うことなのか、親父が、おそらくは懇意にしていた国鉄職員より手に入れてくれただろう部内向け(と思われた)パンフレットをすり切れる程に眺めた覚えがある。
当時に東海道線に登場した<こだま>は鉄道絵本から落とせない列車であり、子供にとってあこがれの特急列車であった。それに劣らぬ車体デザインの列車が郷里の水戸を通って北を目指すには多いに興味を刺激された訳である。その先頭車-キハ81の印象的な形態には惹き付けられ、翌1961年に至って札幌にも気動車特急が達した際には、道内のそれがどうして湘南電車(東海道線準急)のような先頭車なのか、子供心にも不満を抱く程であった。
後年には、親にせがんで水戸への帰省に何度か乗車し、そこに滞在中には偕楽園近くの線路端に幾度も出掛けたものだった。
けれど、キハ81の<はつかり>運用は東北本線の全線電気運転までのことで、代替の583系電車の早期落成には10月のダイヤ改正を待たずに、1968年9月9日の下り、翌日の上りを以て最後となり、意外に短命だった8年程の期間は、幹線電化の進展した時代の気動車の宿命と云うべきだろうか。
結果的に1961年度からの通称-2次特急形とは設計思想が異なってしまい、謂わばキハ80系特急形気動車の量産先行車的存在と化していた<はつかり>運用車の転用に際しては、キロ80やキサシ80などには形式間改造を要した他、キハ81は分割併合の無い単独運用に限られ、それには尾久客車区配置のままで1965年10月改正から2往復運転となっていた秋田特急<つばさ>1往復のキハ82からの置替が選ばれたのだった。
80系当時の<つばさ>は福米間の自力走行では特急としての運転時分が確保出来ず、この間を電機に牽かれていたため(1968年10月改正までEF64、以降にはEF71)、自連強度から組成が7両に制限されて、その姿は10両の<はつかり>からは些かの格落ち感は否めなかった。

冬の日差しの西に傾く中、福島駅3番ホームに到着したのは 3D<つばさ2号>。それをどうしても見たくて、札幌からの帰省の際に寄り道した際のカットである。
ホーム上に交替の運転士が待つ。ここから米沢まで無動力とは云え、機関に補機類は回っているので運転士の乗務は要する。
格落ち感を強めていたのは、機関車連結のために常時外されてしまった自連カヴァである。それはキハ81のプロポウションを大きく損なったとして良い。翌年の秋田機関区での<いなほ>転用時に再設置されるものと信じていたのだが、和歌山機関区に転じての<くろしお>運用は勿論のこと、二度とそれを見ることはなかった。
今でも、尾久車両センターの開かずの倉庫奥深くに仕舞い込まれているような気もするのだが、キハ81 3の京都鉄道博物館での展示再開の際には新製してても復活してほしい装備である。

[Data] NikomatFTN+AutoNikkor5cm/F2 1/125sec@f8 Y48filter NeopanSS Edit by PhotoshopLR5on Mac.

院内 (奥羽本線) 1974

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板谷峠に矢立峠と南北に輸送の隘路を抱えた奥羽本線に在っては、秋田・山形県境、雄勝峠の区間もまた院内隧道を頂点に1/55(18.2パーミル)から1/50(20パーミル)の勾配が連続する難所であったのだが、大滝方・院内方ともに真室川(及位からは朴木沢)、雄勝川の谷を直線的に上ってしまい画角の乏しかったものか、あるいは奥羽線内中、最も少ない区間輸送量に知る限りの1960年代以降には補機を要するまでもなかったせいか、蒸機運転当時の先輩諸兄の作品を見かけることもほとんど無い。その米沢機関区や新庄・横手機関区などのC57、D51の運転も1968年10月改正までのことで、所謂蒸機ブームの初期に無煙化の達成されていたのも一因であろうか。

この峠越えが線内での最閑散区間とは云え、首都圏対秋田地区連絡の幹線上には相違なく及位-院内間8.6キロの線路容量の僅か46回は優等列車設定上の隘路ともなり、第三次長期計画にて線増が予算化された。貨物輸送単位の小さいことから勾配の改良を伴わず、延長1356メートル単線断面の(新)院内トンネルを別線で掘削する他は、ほぼ既設線への腹付線増にて計画されたのだが、院内まで4キロあまり、福島起点190.5キロ付近に所在の岩崖隧道を挟む1600メートル区間は、急峻な地形の続くため雄勝川に第一雄勝川橋梁(l=141M)と第二雄勝川橋梁(l=315M)を架橋、両橋梁間に短い岩瀬トンネルを穿って対岸を迂回する別線とされていた。1904年開通の既設線岩崖隧道は1956年から57年に架けて老朽化にともなう改修工事を電化対応の断面改築と併せて行っており、これの下り線としての使用継続が既定方針だったのである。
ところが、1960年代に線路路盤下方斜面で行われた国道13号線の拡輻改修工事の発破作業の影響にて変状を生じ、補強措置を講じて運転を確保したものの抜本的な再改修を要する事態となってしまった。これには前記線増線を急遽複線に設計変更として現況となったものである。
既設線を放棄しての新線への切替は1966年11月に行われ、当初には将来の下り線を使用した単線での開通であった。続いては(新)院内トンネルの完成により全区間を増設線での単線運転として、この間に既設線院内隧道(I=1237M)の改修を施行し、これを上り線とした複線での使用開始は1968年9月29日と記録されている。

この雄勝川と国道13号線を2度交差する新たな鉄道景観の出現には魅力を感じてはいたものの、ようやくに訪問の叶うのは電化柱も建ち並んだ1974年のことだった。紅葉黄葉を当て込んで選んだ11月の半ばは、それを外したばかりか予期せぬ降雪に見舞われた。秋季向けの装備には寒さの堪え、目当ての橋梁下では何やらの工事も行われていて散々だった覚えがある。
岩瀬トンネルから第二雄勝川橋梁に至るのは1D<つばさ1号>である。
ここには翌年の電化開業直前に、冬装備と共に再訪して面目を施したものだった。

[Data] NikonF2A+AutoNikkor105mm/F2.5 1/250sec@f4 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

津軽湯の沢 (奥羽本線) 1969

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日本海縦貫を往来した特急寝台列車<日本海>は1968年10月1日改正を以ての設定であった。旺盛な旅客需要を見せていた1961年10月以来の<白鳥><おおぞら>と結んだ北海道対関西連絡に、従来に急行列車の担っていた本州内を夜行とするチャンネルを加え、その大幅な到達時分短縮の実現を意図してのことである。これを急行<日本海>の格上げ設定とする記述を多々見かけるが、正しくは無い。急行の関西-信越間夜行を奥羽間としたもので、連絡船接続の時間帯設定も異なり、そのスジは純然たる新設であった。
しかしながら、国鉄当局も需要に完全な自信を持ち得なかったものか、編成は当時の特急寝台列車では分併運用を別にすれば最短組成の電源車を含む9両に抑えられていた。しかも、68年10月改正に対応した関西九州間および青森間増発用として1967年度第二次・第三次債務車両計画にて88両もの20系固定編成客車の増備されておきながら、それらは全て品川と向日町の配置とされ、需給は<はくつる>の電車化にともなう尾久から青森への配転車を主体に向日町からの玉突き転出にて賄われたのだった。

1968年当時、日本海縦貫線の電気運転は上越線関連の宮内-新潟間を除けば北陸線が糸魚川に達したのみであり、単線区間が大半であった以北の細い道を東新潟区のDD51が秋田までを、先を秋田区の同型が牽いていた。この頃に20系客車は全車がAREBブレーキ装置の搭載により、それを使用しない運転でも元空気溜の増圧にはMR管の引き通しを持った機関車を要し、それはDD51では1965年製の第5次車にあたる28以降が装備するのだが、それの配置を持たなかった東新潟区へは<日本海>対応として、盛岡区から0番台-2両、釜石区から500番台-6両の配転がなされ、秋田区共に限定運用が組まれていた。当時の実見や誌上に公表の写真からは、0番台と500番台の運用を区分し、500番台を特急牽引を含む仕業に充てていたと推察される。

1年後の1969年10月1日改正では編成の13両への増強が計画され、1968年度第五次債務車両計画にて発注のナハネ20ばかり10両が、今度こそ青森に新製配備される。運転開始から半年を経ない時点での発注を考えれば、営業成績の中々に良好であったと伺われる。現車13両、換算41両で特通客E5の確保には、矢立峠を始め二ツ井-前山間や大釈迦-鶴ケ坂間に介在する勾配区間に補機を要して、秋田-青森間でDD51の重連運用が組まれた。特急仕業でのそれは1968年10月改正で盛岡-青森間から消滅して1年振りの復活でもあった。これには同じく1968年度第五次債務車両計画でそれの1両が秋田区に増備されていた。

第六平川橋梁に差し掛かるのは、峠を下って来た2001列車<日本海>。
速度を落として津軽湯の沢場内へと進入して往く。重連牽引となって間もない頃の撮影である。

[Data] NikomatFTN+P-AutoNikkor135mm/F2.8 1/250sec@f4 Y48filter NeopanSS Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

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