70's/80's Monochrome Age and Years of Ektachrome film

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野辺地 (大湊線) 1973

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ルーラル地域の線区に一往復なり二往復程度設定されていた貨物列車は、1970年代の前半までならそれなりの財源を持って運行されていた。既に近距離輸送なら道路交通への転移も相当に進んでいたはずではあるが、高速道路の整備途上のこの時代には鉄道に依存する荷主もまた数多かったのである。以来1980年代に向けて機関車に従う貨車の目に見えて減るのは、それの整備進展に加えて度重なった貨物運賃の引上げが荷主の流失を加速したゆえ、と説明されるのだけれど正確では無い。それらを事由に国鉄自らが中小荷主を切り捨てた結果となのである。幹線物流へのトラックの進出により、その即応性には高級貨物が浸食され、やがては大口貨物をも失えば、ヤードを経由した国鉄の車扱輸送は恐ろしくコスト高となり、政策的に低廉に押さえられた運賃には自身が耐えられなかったのである。
国鉄総裁の諮問機関であった貨物経営改善委員会は1969年7月に行った中間報告で、直行・一貫輸送体系の整備に輸送施設の整備を重点項目とし、設備改良の効率化には拠点駅への集中投資の要を説いていた。それは中小貨物扱駅の集約化を意味して、1971年度以降に国鉄はルーラル線区の貨物営業から順次撤退を開始したのだった。各々の線区に拠点駅は残されたから貨物列車の運行自体は確保されたのだけれど、そこまでトラック輸送を強いられた小駅での荷主は鉄道輸送を諦めざるを得ず、線区輸送量は自ずと低下して往ったのである。
来るべき1984年2月改正は1985年度での収支均衡を法的に迫られた国鉄の苦渋の決断との見方もあろうが、既視感ある未来として準備されていたとも云えよう。
大湊線は1972年3月15日改正を以て、海陸連絡荷役に埠頭線まで設備していた下北を拠点に残して線内各駅の貨物扱を廃止、貨物列車の運行は同駅着発で1984年2月改正まで残ったから、それの典型路線ではあった。

1973年の春時点ともなれば、道内と往来した東北線筋に残る蒸機運転は石巻線と大湊線だけになっていた。上野と青森のほぼ中間に位置して双方から早朝に到着できる夜行急行の在った小牛田には、道内との往来の途上に多々降りていたのだけれど、臨貨運転の無ければ撮影チャンスの一日に一本だけと云う大湊線には、なかなかに足の向かなかったのである。それでも、この事態を迎えてはようやくに野辺地へと幾度か降り立つことになった。
けれど、予定した道内撮影スケジュールの往きか帰り、つまりはその日程の最初か最後に臨貨運転の確認出来れば、上野を<八甲田>で発つなり、帰路に青函を深夜便で渡るなりで早朝に野辺地到着として一日を線内で過ごしたのだが、そうでなければ夜行<すずらん>から接続した午前便の連絡船を選び、13時過ぎの野辺地で定期貨物列車を駅撮りしてお茶を濁したものだった。

写真は、野辺地の中線(2番線)から発車して往く783列車。この頃には下北着発貨物だけとは云え、結構な財源を牽いていた。
野辺地には1968年8月5日より、大平トンネルを掘削して新線に切替られた東北本線の千曳からの旧線を借り受けて南部縦貫鉄道が乗入れており、そこのキハ10形内燃車-通称のレイルバス目当て降りた向きも多かろうと思うが、個人的にはそれよりもこちらだったのである。

[Data] NikonF photomicFTN+AutoNikkor50mm/F2 1/250sec.@f8 Y48 filter Tri-X(ISO400) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

〔お詫び〕本業が極めて多忙となってしまい、更新の滞り気味です。3月末頃までとご容赦下さいませ。

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大湊運転区 (大湊線) 1973

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それも織込み済みであったに違いない。自己の地盤構築に有利と見て建主改従を主張していた時の政権党、立憲政友会は第26回帝国議会にて『軽便鉄道法』(1910年4月21日法律第57号)を成立させると、私設鉄道を想定と説明していた同法を拡大解釈し、続く第27回帝国議会に同法に準拠した国有鉄道路線の建設予算700万円を計上し、1911年度より毎年に100万円ずつを拠出する予算案を提出、可決させたのである。これが、以後に続々と低規格の地域交通線が建設される契機であった。
これら線区の戦前期における地域開発への貢献、住民生活への寄与を疑うではないが、その立地からは当然に全てが非採算線区であり、戦後1949年に発足した日本国有鉄道は、早速にその経営に苦慮するところとなった。
これに対しては、発足翌年より特定の閑散線区に特定線区保守方式を導入し、業務の簡素化に要員、経費の節減を進めながら、本社審議室にて支線区経営に関わる研究・検討の行われた結果、線区別経営を妥当として、1953年11月に「線区別経営改善計画について」とした副総裁通牒(依命通達)が地方機関の長宛に出されたのであった。この通牒には「国鉄経営改善のためには、性格を異にする線区ごとにその方策を具体的に検討することが必要と思われるので、下記要領により貴管内線区中より数線区を選び、その徹底的経営改善計画の試案を作成し提出されたし」とあり、提出された中から1954年9月に千葉鉄道管理局管内木原線と久留里線にそれぞれ大原運輸区、木更津運輸区を、翌1955年1月には金沢局管内富山港線に富山運輸区を置き、1956年10月には仙台局の仙石線にそれをさらに進めた仙石線管理所を開設して、それの試行を始めたのであった。
これらが現場の努力もあって経営改善に顕著な効果の認められたことから、国鉄本社はこの管理方式の全国的波及を図るべく、1958年7月に副総裁通牒「非採算線区の経営合理化推進について」を通達し、将来に支線区経営の原則線区別経営を明確とした上で、同年度内に各鉄道管理局管内で少なくとも1線区を同経営方式とするよう求め、同年秋から翌年にかけ全国に続々と線区別経営単位が開設された。それらには上記に加えて管理長なる職制も含まれ、その数は1960年5月までに15運輸区、22管理所、44管理長となり、管理下の線区延長5034キロは全営業キロの24.7パーセントに及び、全職員の7.6パーセントがこれらに所属した。

運輸区・管理所・管理長は、ともに鉄道管理局(新潟・中国・四国は支社)に属した線区経営単位であり、局長(支社長)に直属して当該線区運営に関する権限を移譲されるのは共通したものの、線区の実情により選択され、以下の差異があった。
運輸区は比較的営業キロの短い行き止り線が対象とされて、施設関係を除いた線内の営業・運転の現業機関を統合、従って駅長や区長の廃され、それを上回る権限を付与された運輸区長が直接にこれらを統括したのに対し、管理所は施設を含めた線内の現業機関の職制を統合するものの、駅長を配置した他一部現業機関の存置も認めて、その上位機関に位置づけられた。管理所長には局長より大幅な日常運営の権限が与えられ、線区別経営の基本形態である。
統合される関係現業機関やその方策は線区の実情などにより異なり、運輸区に保線職員の所属することもあれば、管理所においては線区外にも跨がる業務を持つ運転区所や車両区所を含むことが多々あった。
管理長は、当該線区を支社駐在運輸長の所管から分離の上、線内既存現業機関の統廃合を行うこと無く、局長ないし支社長の指揮により総合的に統括管理する非現業職とされた。当初に運輸区を管理のみの非現業機関としていたことを引き継いでの職制である。

当時に年々1億2千万円の欠損を計上していた大湊線大畑線に、盛岡鉄道管理局が大湊大畑線管理所を設置したのは1958年10月20日のことであった。大湊線も1921年9月25日に正に軽便線として開業した線区である。
これに際して、盛岡局は気動車の投入による客貨分離にてこれを支援し、管理所においては駅の要員無配置化、線路保守の特定線路分区への移行、第一種踏切の自動化、駅勤務時や勤務体制の見直し等の合理化により1960年度末までに41名要員を削減、団体募集などの積極的旅客営業に貨物においては列車の弾力的運転により経費削減と繁忙期の増収を図って、1959年度の欠損を8600万円まで圧縮する成果を上げた。
しかしながら、同管理所に限らず、この地域交通線経営策は一定の合理化を達成してしまえば、存続に意味のなくなって1970年代前半までには姿を消して往く。当該区所の職員には相当の努力を強いるものだったが、本社の狙いは当初より労組の強い影響力下での合理化推進にあったと見て良かろう。大湊大畑線管理所の廃止は1972年10月20日で、14年間丁度の存続であった。

大湊の機関車検修施設は管理所廃止に際して機関区には復帰せず、気動車/客貨車を含めた運転区とされていた。その設備は管理所時代を通じて機関区当時と変わらない。
写真は給炭線に佇むC11224。扇形庫と気動車庫(旧客車庫)との中間、乗降場から至近の位置に在った。
背景は釜臥山。

[Data] NikonF photomicFTN+P-Auto Nikkor135mm/F2.8 1/250sec@f8 Y48filter Tri-X(ISO400) Edit by PhoyoshopLR5 on Mac.

大湊運転区 (大湊線) 1973

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現在も、大湊線営業所が置かれるように、大湊はこの線が大湊軽便線として1921年9月25日に全通して以来の拠点である。開業と同時に機関車の給炭/給水などの駐泊施設が設置され、それは1939年12月6日には大湊機関区となって、本線上の野辺地に逆に支区が開かれた。

大湊線は、戦後復興する国鉄路線の中に在って既に非採算線区に位置づけられたらしく、1956年10月1日から仙石線にて試行し経営改善効果の認められた「管理所」方式の導入が図られ、1958年10月20日付にて1939年に開業していた大畑線を含めて線区内の駅や機関区、車掌区に保線区などの現業機関を統合した大湊・大畑線管理所が大湊に置かれた。
その上で、所長に鉄道管理局長権限を大幅に委譲し、あたかも独立線区のように総合的に現業管理を行わせるのは現在の地域鉄道部や営業所と同じ発想である。以来四半世紀に渡ってこの管理機構は存続したから一定の経営効果のあったものなのだろうが、増収が目的ではなかったから経営合理化を極限に達成してしまえば存在意義のなくなって、1972年10月20日付にて廃止されたのだった。
その際に運転検修区所は機関区では無く、大湊運転区として再設置され、この1973年当時にはC11の3両に、キハ22-7両、キハユニ26-3両の営業車両と救援車オエ61が配置されていた。
運転区に統合されたとは云え、施設の配置は引き継がれたから、転車台と小さな扇形庫の機関庫は場内信号機手前の本線脇に、2線の庫内線を持つ木造の検修庫と庫外線の2線に洗浄線1線を有する気動車区所が乗降場を通り過ぎた構内の奥に置かれていた。検修庫には貨車も停められており、施設自体が客貨車区からの転用だったのだろう。機関車への給炭・給水の設備は機関庫から構内を横切る小荒川を挟んだ乗降場脇に在った。

ここの転車台は、回りを野の花や草に囲まれたロケーションで、輸送現場としての機関庫らしくは無いのだった。
今、東日本旅客鉄道のJR大湊寮の建つ位置である。

[Data] NikonFphotomicFTN+AutoNikkor50mm/F2 1/125sec@f8 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

下北 (大湊線) 1973

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大湊線は、この年の10月改正で内燃機の導入が決まっていたから、その直前の道内行きでも途上に組み込んでいた。東北線の終着間近の野辺地なら、上野を19時過ぎの<八甲田>で翌朝5時半には到着し、すぐに大湊線の始発に乗り継げた。

むつ市は、藩政時代から南部藩の代官所が置かれ下北地域の中心であった田名部町と、戦前には帝国海軍の軍港を擁する軍事都市として発展し、戦後も海上自衛隊大湊地方隊の主要部隊の配備された大湊町が1959年に合併して成立している。1939年の大畑線開通以降は、この市域に三つの拠点駅が存在して役割を分担していたのが面白い。市街地中心部に位置して玄関口として機能していた田名部(開業時には本田名部)、大湊線終端で運転区や車掌区支区の置かれた大湊、そして両駅の貨物扱いを集約した形になっていた下北である。
大畑線の下北交通転換後には線路が分断され、旧大畑線本線を転用した専用乗降場に発着していた同線であるが、国鉄当時には全列車が大湊に直通しており、8往復の設定は大湊線と同等で内3往復は野辺地発着であった。これは偏に田名部駅の存在ゆえと思われる。

この当時の下北は、田名部川河口の関根浜埋立地に隣接して、島式乗降場を挟む大湊/大畑両本線の他、駅本屋野辺地方に2線の貨物積卸場を、海側にも2本の貨物側線を持ち、そこからは埋立地先端に向かって専用線も伸びていた。その先には、放射能の漏出事故で動くことのままならなかった原子力船「むつ」の船影を認めたものである。
線内貨物列車は下北発着にて設定され、機関車のみが配置区の大湊まで出入りしていた。

写真は、田名部川を廃しての放水路、新田名部川を渡る臨時貨物8782列車。
発車直後なので力行してくれるが、釜臥山はその煙に隠されてしまう。

大湊線は、この数日後に襲った集中豪雨の被害により長期運休を余儀なくされ、大湊運転区の3両のC11はそのまま火を落としたのだった。

[Data] NikonF photomicFTN+AutoNikkor50mm/F2 1/500sec@f5.6 Y48filter Tri-X(ISO320) Edit by CaptureOne5 on Mac.

吹越 (大湊線) 1973

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その半島の恐山山系を陸繋島に例えれば、基部は巨大な砂州に見える。
実際に、そこは陸奥湾から太平洋岸へ起伏の少ない緩やかな地形が続き、かつて運河開削の計画が論じられたこともある(*)。

大湊線は、ここを陸奥湾岸に沿って、ほぼ直線の線形にて北上している。その設計は、迂回すべき地形も立ち寄るべき集落も無かったことを物語る。1921年の大湊までの全通時の中間駅は僅か4駅であった。
その後に、その駅間を埋める新駅の設置は在るものの、それでも有戸-吹越間の13K380Mは内地線区と見れば格段に長い。
陸奥湾岸とは言え、海岸線に接近する区間は、同駅間の野辺地町/横浜町の町境を越えた起点17K付近からの約4キロメートルに限られ、これは吹越から歩いた方が近い。国道279号線も並行していたけれど、やや間隔の空いていて、線路歩きしか到達手段は無いのだった。

写真は、起点20K付近からの783列車。
この当時の観光ガイドブックにも「ハマナスの咲く海岸」の記述があって、それを期待していたのだけれど、そこに浸食の激しい荒涼とした光景が広がるのみであった。背後に低いハイマツの続く海岸線は北海道ならば知床であろう。
C11は、大湊線管理所に3両の配置が在り、1両使用/2両予備で運用されていた。

(*) - 青森県の地方紙「東奥日報」の主筆であった成田鉄四郎が、1894年に刊行の『陸奥湾之将来』で提唱したと云う。
出典 : 河西英通『東北-つくられた異境』 2001年 中央公論社

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