70's/80's Monochrome Age and Years of Ektachrome film

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日野橋 (名古屋鉄道・美濃町線) 1986

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もう10年を経過するけれど、未だに2004年度末での美濃町線の廃止は腑に落ちないままである。
それに至るまでの経緯や経過などはWeb上に公表された資料も多くが見られるのだが、それらを考察して往く大前提として、美濃町線を運営した名古屋鉄道(以下名鉄)と、そこに並行路線を持っていた岐阜乗合自動車(以下岐阜バス)の関係がいまひとつ解らない。岐阜バスは名古屋鉄道を中核とした同じグループ会社のはずなのに、美濃町線を巡っての2社間には永年に渡り連携や協調の全く見られず、寧ろ敵対していたとすら伺える節があるのだ。
美濃や関から岐阜駅や中心市街地に直結したインターアーバンであり、加えて沿線地域にあれだけの住宅街に団地が所在して人口の張付いていながら、美濃町線ほど活用されなかった路線も珍しいのではなかろうか。本来ならば、交通政策上に日野橋以遠区間に何箇所かのバス交通との結節点を設けて、そこを起点に団地などと結ぶバス路線を再編成すべきだったはずなのだが、岐阜バスは市内直結運行に固執し、朝夕は云うに及ばず昼間帯にも国道156号線にはバスが数珠つなぎとなり、流入する一般車両と共に大渋滞を引き起こしていた。
当然に介入して調整すべき岐阜市当局の対応も不可解であり、同国道の拡輻のままならないのを一部で路盤を共用していた美濃町線に転化する一方、それの活用に新設軌道区間での速度向上を国交省に掛け合うなどのチグハグさを見せてもいたのである。
けれど総じては軌道系交通機関に理解不足は明らかで、永年のそれに業を煮やした名鉄が、2000年3月の鉄道事業法の改正により地元同意を経ずして鉄道事業の廃止の可能となったことを盾に「脅し」を入れ、双方の予断によるボタンの掛け違いから互いに引くに引けぬ状態に陥り、結果的に共に思惑の外れて廃止に至ったのが真相ではないかと思っている。岐阜バスに指導力を発揮出来なかった当事者同士の不信感は根深かったと云うことであろうか。
この顛末に、名鉄は将来経営に寄与したかも知れぬ線路を、岐阜バスは運行効率向上による保有車両の削減機会を、岐阜市は投資を抑制した効果的渋滞解消策を、沿線住民は定時性など利便性の在る交通機関を永久に失ったのである。けれど、何よりも廃止の動きに直面しての沿線住民の動きは極めて鈍く、この線路が住民意識の外にあったことが伺われる。名鉄の「脅し」は既に時遅く、岐阜市の反駁も住民には「遠い異国の出来事」だったのである。

日野橋停留所近く、軒先を走り去る電車。土に埋もれそうな線路は、古に街道上に敷かれた軌道線には当たり前の光景だったろう。京浜急行も阪神電車もそれから始まり高速電車線へと進んだ。ここは市場規模からその機会を逸したと云うことなのだろうが、それは遅れて21世紀にやって来たかも知れないのだ。

[Data] NikonF3P+AiNikkor35mm/F2S 1/250sec@f5.6 Fuji SC48filter NeopanSS Edit by PhotoshopCC on Mac.

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上芥見-白金 (名古屋鉄道・美濃町線) 1987

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上芥見 (名古屋鉄道・美濃町線) 1986 に書いた、道路傍らを往く併用区間には、間に合わなかった花巻電鉄や福島交通の溜飲の下がる想いのしたものの、それらの廃止直後にここを知っていれば、その道路はまだ未舗装の田舎道だったから悔やみもする美濃町線である。
それでも、軌道線の低い乗降台には不釣り合いな鉄道駅然とした美濃や新関の駅舎(そこでは、かつてには手・小荷物や貨物も扱ったことだろう)や、通票(スタフ)授受の運転要員一人だけが常駐していた併用軌道区間の競輪場前、野一色に日野橋の小さな詰所、かつては各停留場に存在したであろう乗車券販売窓口や待合所の名残など、このようなルーラル鉄道をほとんど撮っていなかった身には、どれもこれも物珍しく見えたのだった。狭い路盤に玉砂利だけの薄い道床、木製の門形架線柱は70余年前の美濃電気軌道とさほどに変わらぬと思えた。

この1980年代半ばには、沿線での団地や宅地開発の進んでいたけれど、それも下芥見あたりまでのことで、そこから国道156号線を新設軌道区間に回り込めば、まだまだ穏やかな農村風景が広がっていた。
白金を過ぎて少しだけ県道287号線を走るところや、神光寺から美濃へ勾配区間も愛おしく思えたものの、白眉とするのは、やはり上芥見付近だろうか。しかも、ここでは白金に向けて併用軌道を離れると、44パーミルもの勾配で築堤を上りながら90度転回して津保川を渡っていた。この線区で最長の津保川橋梁である。軽い車両ばかりの小さな負担力にて設計の鈑桁橋梁は、とても華奢に見えたものだが、それには似合いの好ましいプロファイルだった。
堤防をしばらく歩いて振り返ると、傾いた茜空に枯れ野の川筋が見えた。
橋梁を渡るモ600型は、新関行き。

[Data] NikonF3P+AiNikkor50mm/F1.4S 1/125sec@f5.6 Fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCC on Mac.

琴塚 (名古屋鉄道・美濃町線) 1984

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私鉄路線に関わる資料をほとんど持っていないものだから、この名古屋鉄道美濃町線の野一色から日野橋を経て下芥見への区間が、1911年の美濃電気軌道による開通以来の新設軌道だったのか、後に県道92号線となる道路上への敷設(即ち併用軌道)が、それの拡幅等の事由にて独立の軌道敷にパーティションされたものかは調べ得なかった。
県道と路盤を共有しているに違いは無いゆえ併用軌道とも思えるのだが、北一色-野一色間には併用・新設軌道の境界標が建植されていて、ここは書類上は新設軌道なのだった。但し、軌道法では併用軌道以外の線路を新規敷設、既設の如何を問わずに「新設軌道」と呼ぶ。

沿革はともあれ、専用の交通路を確保しながらも延々と道路と併行する例を他に知らず、美濃町線ならではの景観ではあった。1975年6月25日の田神線の新設により新岐阜発着が本線系統となって以来、徹明町からの系統は日野橋折返しともなっていたから、その意味でも岐阜市内線の延長のような区間でもあり、この当時には路面電車型低床車体のモ580や590型に札幌市交通局から転籍の連接車モ870型も日野橋以遠区間には運用されなかった。
独立の交通路とは云っても道路の一部には違いなく、民家の軒先に軌道の敷設され、それを掠めて電車の走り去る光景も独特の鉄道風景であり、この線区への何度かの訪問はそれに惹かれてのことである。前にも書いたけれど、それは廃線に間に合わなかった花巻電鉄線や福島交通軌道線の、その写真に見るばかりだった光景のささやかな追体験にもなっていた。

沿線に多数の宅地開発地に複数の大規模団地が立地するなどの沿線人口を抱え、かつ新岐阜への直通の利便性を保持していたゆえ、この日野橋付近に郊外ターミナルを設けての団地バス路線再編成などが考えられたはずだが、永年にわたる利用者の漸減を事由とした2004年度限りでの廃線は、同じ名鉄資本下にかかわらず基幹路線の県道92号線路線に固執する岐阜バスの企業エゴを背景に行政との取引に出た名鉄経営陣に対し、岐阜市当局が適切な交通ヴィジョンを示した上でのインフラ補助を含む指導力を発揮出来なかった結果であろう。
そこには、東海地区に特に顕著な自動車交通優先思想を思う。行政もさることながら、沿線住民は県道の渋滞に左右されず早く快適で定時性を保った交通機関を永久に失うのだが、その廃止提案に対する反対運動は実に盛り上がりを欠くものであった。

写真は、琴塚停留所に接近するモ870の徹明町行き。2000年に複電圧対応改造を受けるまでは徹明町-日野橋間系統に専用されていた。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/125sec@f5.6 Fuji SC48filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

上芥見 (名古屋鉄道・美濃町線) 1986

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その昔、水戸の市内電車を兼ねた茨城交通水浜線と云う軌道線があった。水戸市のメインストリートの路面を走る姿には記憶があったのだが、或る夏の日、帰省した母方の実家で従兄弟達と彼らの通う学校の校庭でのこと、甲高いタイフォンに気がつけば、その脇をあの市内電車が通り過ぎて往くのだった。驚いて近づいてみると、そこには路面ではなく鉄道と同じ線路が敷かれていた。上水戸と公園口間に存在していた軌道法で云うところの新設軌道である。札幌には無かった普通の鉄道線路の路面電車には強烈な印象を受け、以後永く記憶することになる。ここは1965年6月に廃止されてしまい撮影はしていない。

そして、福島交通の福島郊外への軌道線群である。『鉄道ファン』誌だったと思うが、福島駅前の路面から郊外に出れば田舎道の片側に敷かれた軌道を砂埃を捲き上げて走る姿に強く惹かれたのだった。道内行きの途上での立寄を計画していながら、1971年4月の全線廃止は寝耳に水で間に合わなかった。

さらには、東北本線列車の車窓に認めた花巻電鉄があった。山側の一段高いところに在った社線花巻駅の低いホームに停まる、同じく鉄道線路の路面電車然とした車両が印象的であった。メインの鉛線は1969年に廃されて、眺めたのはその頃には岩手中央バスの傘下入りしていた花巻温泉線なのだが、まもなくそれに代替されて、これも撮らず仕舞いだった。

この美濃町線は、動機は異なるにせよ多くの人々がそうであるように、それらの雪辱戦なのである。岐阜市内の路面中央部から野一色で道路端の軌道敷へ、岩田付近から美濃町への新設軌道区間とこの時期に揃って撮れたのは、この線区くらいだった。
国道を外れた上芥見付近は、新設軌道区間に挟まれて長良川沿いの田舎道の片側に軌道敷を設けた併用軌道で、川側には住宅の建ち始めていたものの線路敷の在る山側には滋味のある風景が続いていた。

写真は、新関止まりのモ600型。
田神線を経由しての各務原線新岐阜乗入れのため、同線規格の鉄道線ホームに対応した高床車だけれど、形態は十分に路面電車のそれである。
背景を良く見れば、かつては何処にでも在った消防の半鐘の下げられた火の見櫓が泣かせてくれる。この頃でも無用の長物だったから老朽化とともに解体されて、今ではすっかり見かけない。
この線区は岐阜からも美濃太田からもアプローチが利いたから、高山線行きのスケジュールに組み入れば良かった。

[Data] NikonF3P+AiNikkor105mm/F1.8S 1/250sec@f8 Fuji SC52filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopCS3 on Mac.

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