70's/80's Monochrome Age and Years of Ektachrome film

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滝谷 (只見線) 1971

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1949年に発足した日本国有鉄道が、多くを抱え込むこととなった非採算線区の運営に線区別経営方式導入に至る経緯については、大湊運転区 (大湊線) 1973 に書いた。
1958年度内に各鉄道管理局管内で少なくとも1線区以上を同方式とするよう求めた同年7月の副総裁通牒に対し、既に仙石線が試行線区となっていた仙台局が選定したひとつが会津線であった。これを受けては当時に会津若松-会津川口間、西若松-会津滝ノ原間の延長118.2キロを管轄する会津線管理所が1959年4月30日付にて会津若松に開設された。
増収の見込めない線区での収支改善とは運営経費の削減の他に無く、鉄道管理局長から大幅な権限委譲を受けた線区別経営体では、線区限りの弾力的な列車設定や運行、現場による用品調達の工夫なども為されたものの、あくまで主体は駅務、運転、保線などの見直しによる要員削減の推進であり、会津線管理所においても設置初年度の1959年度末までに61人の要員を減らしたとある。
しかしながら、損失額の低減は1958年度の395.087千円が386.837千円と僅か800万円ばかりに留まり、営業係数は230から239へと逆に悪化していた。これは奥只見の電源開発事業に1957年12月から運用を開始した通称田子倉線への接続線として会津宮下から会津川口の区間を1956年9月20日に開業し、建設資材輸送の貨物列車運転は在っても旅客収入のほとんど見込めない新線を管轄に加えていたことによる。そして、この貨物列車の運行は線内輸送の客貨分離による合理化策、即ち気動車の導入を遅らせる要因ともなっていたのである。
1963年度に磐越西線運用には気動車の配備されるものの、会津線へは管理所廃止直前の1967年3月20日改正での滝ノ原方列車の一部置替を待たねばならず、全面気動車化も同方面が先行して、川口方には1971年8月29日の只見線としての全通以降も1972年10月2日改正まで蒸機牽引の客車列車の残存を招いたのだった。

滝谷至近の滝谷川橋梁(l=155M)は、当時の撮影者には外せない定番位置だったと記憶する。橋梁は3パーミル勾配なのだが、滝谷の発車直後に加えて原谷トンネルの13パーミルには力行の煙が期待出来たのである。
福島・会津磐梯ミニ周遊券の自由周遊区間に含まれないこともあって余り足を踏み入れなかった只見線なのだが、初めての滝谷下車でこの積雪の光景に出会えていた。これを撮れたので後は会津線側にばかり通ったと云うのが正解かも知れない。客車列車の残存もこの線に遅れて来た撮影者としては誠に幸いと云えたのだった。
列車は425列車の会津川口行き。
今は樹木の成長でこの位置には立てないと聞くが、この当時には右にも左にも回り込めて、橋梁を横側からも撮れたのである。ただ、残念ながらそれがどんな場所だったのか覚えていない。

[Data] NikonF PhotomicFTN+P-AutoNikkor5cm/F2 1/250@f8 Y48 filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

〔お詫び〕3月いっぱいに本業が極めて多忙となってしまい、更新の滞り気味なことご容赦下さい。

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会津西方 (只見線) 1972

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三好達治に良く知られた二行詩がある。

  太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
  次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。

実を云えば、これには「死」のイメイジを抱いていた。
最初には何処で接したものかは覚えていない。国語の教科書か、学校図書館でたまたま手に取ったのだろうと思うけれど、それ以来の印象だ。
「太郎」「次郎」は無名の数多の人々であり、「眠らせ」は棺「屋根」は墓標の暗示と受取っていた。
ただし、寂滅の暗黒な死では無く、清冽な光溢れる黄泉の国のイメイジである。

この二行詩を知って間もない頃だったのか、会津地域を旅していて唐突にそれを思い出していた。撮影地点を探して歩き回れば、至る所に小さな野仏と観音像の菩薩様や道粗神の神々、それに地蔵様がこんもりと雪を被るのが見出せ、小さな集落とあれ寺院も所在して山里の人々の深い信仰を伺わせた。そして、その外れでは先祖代々の墓所がひっそりと雪に埋もれ、降雪の下であれ、陽光に眩しい中であれ、件の二行詩の深閑としたイメイジが具現されていたのである。深い雪にも参る人のいるのだろう、踏分を辿ってそこに立てば杉木立を背景に柔らかな積雪を纏った斜面に続く墓標は、確かに浄土に続くに違いないと思わせるに十分な景観を見せていた。
近親者を順番に「眠らせ」、雪の墓標の下に送ることは、山里で代々の続くことへの感謝でもあろう。雪は祈りをもって降り積むのである。

会津西方近く、第二只見川橋梁を渡って往くのは8460列車。臨時貨物だったけれど、この頃には毎日運転されていたと思う。
会津西方は1941年10月28日に当時の大沼郡西方村に置かれての駅名であったが、西方を名乗る中心集落を下った名入に所在した。戦前期までは対岸の宮下村川井集落との間に小舟の「渡し」が開かれ、川岸まで急坂を降りたところが舟場と呼ばれて船頭小屋が在ったと云う集落である。第二只見川橋梁は只見川に架けられた最初の橋であったから、徒歩での集落間の往き来にも利用され鉄道もそれを黙認したものと思う。
撮影の合間に小さな名入集落を歩けば、ここにも隆昌寺なる寺に観音堂も認め、道端には野仏の姿があった。

[Data] NikonF PhotomicFTN+P-AutoNikkor5cm/F2 1/250sec@f8 Y48filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

会津檜原 (只見線) 1972

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40年前、只見線と名を変えたばかりの線路から降りてみた桧原は、深い谷の只見川右岸に僅かばかり開けた段丘面ともう一段上に耕作地を持つ趣の在る集落だった。融雪の進む雪原に散在する茅葺き屋根の家々には思わず見とれた覚えが在る。
この会津地域には只見川に限らず谷筋の僅かな平地毎に集落が開かれ、山間と云えど道内のごとくに無人地帯が広大に続くではない。12世紀の平家の落人集落との話も耳にするけれど、それにしてもこの山深い地によくも棲み着いたものと思う。古には流路がその里々を行き来する交通路だったろうから、それを伝い越えさえすれば良かったかも知れないが、鉄道の隣駅の所在する中野(滝谷)集落も、名入(西方)の集落もこの1970年代当時まで陸路を採ろうとすればかなりの迂回に峠越えを余儀なくされたのだった。西方の中心集落なぞ川を挟んで指呼の間に見えるに関わらずである。
会津坂下から山間に分け入って建設の線路は、深い谷への架橋も厭わずにこれらの集落を連絡する線形を採ったから、特に道路の閉ざされた積雪期にはそれを通路として歩いた村人も多かったことだろう。

1941年10月28日の会津柳津から会津宮下への延長開業に際し、滝谷と会津西方の4キロばかりの中間に置かれた会津檜原(現会津桧原)停車場は閉塞を扱うまでも無く、開設より要員配置のなされない仮停車場とされた。同年10月24日付でのこの区間開業に関わる鉄道省告示(第223号)には「毎年冬季必要ノ時期ニ限リ旅客ノミヲ取扱ヒ」「開閉期日及ビ取扱區間ハ關係停車場ニ之ヲ掲示ス」とある。とは云え翌1942年6月1日付では正駅に格上げされたから、実際に営業休止の期間は無かったものと思われる。この1972年当時にも、開業に用意されたであろうホーム上の木造待合所の残る駅であった。
ここに降りたのは、只見川沿いに名入対岸の川井集落まで続いていた細道(古の交通路であろう)から第一只見川橋梁を望もうとの目論みだったけれど、それは樹木に邪魔されて脆くも崩れ去ってしまった。仕方なく原谷トンネル出口側で細い流れの深い谷を一跨ぎしていた鉄骨アーチ橋の持奇橋梁に向かうも、ここでも何やら谷底で土工の跡があり落胆したのを覚えている。今は国道252号線の洞門が延々と続いて、その基礎工事だったのだろう。

会津にやって来ると都内ではあまり見かけなくなっていた子守り半纏、所謂「ねんねこ」は日常と知れた。それは別珍の襟の綿入れと相場が決まっていたけれど、この若い母親は羊毛製のケープ状のものを羽織っていた。今に「ママコート」などと呼ばれるそれは、この頃既に商品化されていたのである。確かにミニスカートに綿入れ「ねんねこ」は似合いそうに無い。下り列車でのお出掛け先は宮下の街と見えた。
背中に負ぶわれた赤子ももう40代である。鉄道屋も古びるはずだ。
キハ45を先頭にした3両編成は429D、小出行き。

[Data] NikonFphotomicFTN+AutoNikkor5cm/F1.8 1/125sec@f8 Y48filter NeopanSSS Edit by PhtoshopLR5 on Mac.

会津本郷 (只見線) 1972

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会津にC11を撮りに往くのは会津線の方だった。福島・磐梯の特殊用均一周遊乗車券の自由周遊区間に只見線が含まれなかったからでは無く、川幅のある只見川への多くの上路式トラス橋梁が雄大に過ぎたゆえと思う。使えるレンズも限られたこの頃には、それらの何とも単調な絵柄が気に入らず、画角にまとめるなら上三寄から湯野上で峡谷を刻む大川(阿賀川)沿いの会津線だったのである。
一通り撮ってみて、そう結論していたものだから手元に残る只見線のカットは少ない。

只見線も若松市街地を抜けたところで大川を延長437メートルもの大川橋梁で渡っていた。会津盆地に流れ出てからの大川だから、広い氾濫原を持っているのである。橋脚を連立させての経間の短い22連のプレートガータでの架橋は、1926年10月15日に会津坂下までを開通させた当時の、経費を勘案した架橋技術と云うことなのだろう。
会津本郷からなら至近の距離なのだが、蒸機列車の前後に適当な列車が無くて西若松から歩いたものだった。

期待していなかったロケーションは、足の短い橋脚の低い架橋が開けた周囲に馴染んで意外に面白く感じたものの、やって来た会津坂下までの区間貨物1493列車のあまりに少ない財源には落胆した覚えが在る。以前に見かけた同列車はそれなりの貨車組成だったものだから、画角ももう少し左に振った位置を想定していて、慌てての中途半端は否めない。

会津坂下に転車設備はの無いゆえの機関車運用は、そこまでに勾配はほとんど無いにかかわらずセオリーどおりの下り逆向きであった。軽い財源に列車は思いのほか足早に駆け抜け、それが都市近郊快速運転用とされたこの機関車の本来の姿とは後年に知った。
湯野上あたりでの紅葉黄葉は、まだ盆地まで降りて来ていない。

[Data] NikonF PhotomicFTN+P-AutoNikkor50mm/F2 1/500sec@f5.6 Y48filter  NeopanSSS  Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

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