70's/80's Monochrome Age and Years of Ektachrome film

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黒沢 (北上線) 1975

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北上線は、奥羽地域の中心都市である仙台と同地域日本海岸の秋田とを結び、特急列車も運転される主要経路であった。その営業キロ程の267.2キロは仙台-盛岡間東北本線上を起点とする4本の横断線経由の中で最短距離であり、それらに設定されていた同区間直通急行列車でも陸羽東線や田沢湖線経由の5時間を越える所要時分に対して1時間を短縮しており、特急に至っては東北線内での120km/h運転により3時間50分台を実現していた。両地区間の貨物輸送においても多くの列車が通過した重要線区に違いなかった。

現状での同線の零落は82年11月15日に盛岡までの全面開業を迎えた東北新幹線からの秋田への接続線とされなかったことによる。距離・所要時分とも優位であったにも拘わらずの田沢湖線の選択は、60年代の建設であった同線の県境区間に介在する長大トンネルが電化断面を採用しており、盤下げを要する隧道延長の短かいことが事由とされたのだが、盛岡までの新幹線乗車による料金面や北上線に比して43.6キロを増加する運賃などの収入増が勘案されたのも違いあるまい。
電化接続線が標準軌直通線に進展した今、北上線経由であれば東京-秋田間所要時分がより短縮されたのは確かであり、長期的視野では如何な選択だったのだろうか。

仙台-秋田間を最初に直通した優等列車は、1959年12月1日に設定され、翌60年3月15日より定期列車となった準急<たざわ>であり、それの陸羽東線経由が先行した。
北上線(当時には横黒線)経由での設定は1962年7月15日から運転の急行<あけぼの>だが、所要時分を4時間40分に短縮していたものの、奥羽北線区間の都市間連絡も兼ねた仙台-青森間設定のため仙台-秋田間の用務旅客には相応しい時間帯設定ではなかった。<あけぼの>の愛称は66年の横黒線から北上線への線名改称を受けて、68年10月改正にて<きたかみ>に改められる。
その改正以降、同じ東北本線上の仙台と福島、盛岡、青森は特急列車の頻発運転がなされ、山形も奥羽山脈を越えるとは云え仙山/奥羽本線にて60キロばかりの距離にある中で、唯一取り残された秋田との用務向け列車の設定が喫緊の課題であった国鉄仙台駐在理事室は、69年度末から奥羽線<つばさ>に運用していたキハ181系気動車編成の秋田における長時間間合いを活用し、毎日運転の臨時列車ながら1971年3月20日より北上線経由の特急<あおば>の運転を開始する。
そして、翌72年3月15日改正にてそれを定期列車とすると同時に、逆時間帯へ秋田基準の<きたかみ>を増発、北上線経由優等列車を3往復としたのだった。

<きたかみ>は、西日本地区に対して非冷房車ばかりだった奥羽地域の気動車急行の中で、優先して冷房化が進められた秋田鉄道管理局の看板急行であった(*)。けれど、それの間合い運用では決して冷房を使用しない「殿様」振りも見せていたのである。
写真は、通票授受に速度を落として通過する702D<きたかみ1号>。
この直後にノッチを投入してエギゾーストとともに加速して往くのは、見ていても乗っていても気動車らしく楽しい瞬間だった。

(*) - その事由は、仙台-青森間列車が秋田以北で全車冷房化のなされた金沢所運用の<しらゆき>と併結したことによる

[Data] NikonF2A+AiNikkor50mm/F1.8S 1/125sec.@f8 Y48 filter Tri-X(ISO320) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

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陸中川尻 (北上線) 1974

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奥羽本線の上野-秋田間特急<つばさ>にキハ181系の投入されたのは、1970年2月のことであった。
尾久客車区に50両を新製配置してのそれは、68年10月改正での中央西線<しなの>に続くもので、キハ80系気動車からの置替では最初の事例となった。機関の出力不足から板谷峠区間をEF71の牽引とされ7両に制限を受けていた編成組成が、高出力機関による自力走行化にて増結可能なこと、最高速度120km/hにて運転する東北本線区間の長く到達時分の短縮が望めることなどが、その事由として挙げられていた。
置替後の<つばさ>は10両組成に輸送力が増強され、最大で40分もの到達時分短縮を実現したのだけれど、所定編成を12両化した71年の7月頃から、福米間運転時の機関への高負荷に起因する故障の多発するようになり、翌年春には予備車の確保から編成の減車を余儀なくされるまでに至った。このため、遂には72年12月29日を以て、今度はEF71を補機とした協調運転が施行され、再び同機との連結編成が見られるようになったのだった。
それでも問題の根絶されたで無く、走行機関関連の不調は共通運用の<あおば>運用時に生ずることも勿論あった。

この日、11D<あおば>は、仙台を出て間もない塩釜-松島間にて逆転器の不調から走行不能となり、前途の運行を打切って、編成は所定経路の北上線にて秋田へと戻された。気動車設備の無い仙台運転所での処置が困難なためであろう。
実は、秋の道内撮影の途上、上野から<十和田2号>で北上線へと入り、第二和賀川橋梁にて<あおば>を待ったのだけれど定刻を過ぎても一向に現れず、2時間後の急行<きたかみ>にて代用してから、情報を取りに陸中川尻まで戻ったのだった。情報端末など無い時代ゆえ、駅間に居たのではそれは得られぬのである。
聞けば、まもなくその秋田運転区への回送が通ると云う。あわてて駅至近の第一和賀川橋梁へ引き返しての撮影が、このカットである。

やって来たそれは、DD51の重連に牽かれた無動力回送運転であった。サーヴィス電源も非稼働で車内照明が落とされた中、食堂車乗務員だけが手持ち無沙汰に見えた。
<あおば>の定刻からだと5時間余りの遅れである。

[Data] NikonF2A+AutoNikkor105mm/F2.5 1/500sec@f8 Y48filter Tri-X(ISO400) Edit by CaptureOne5 on Mac.

黒沢 (北上線) 1972

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北上線の無煙化は68年には達成されていて、この当時のターゲットは、専ら71年3月から毎日運転の臨時特急として仙台-秋田間に運転を開始した、181系気動車による<あおば>であった。
この設定は、国鉄東北支社の強い要望にて実現したもので、尾久客車区による<つばさ>運用の秋田における長時間滞泊の間合いを利用していた。当時、北海道と四国島内を除けば首都圏なり関西圏を発着地としない特急の設定は珍しく、他には門司港-西鹿児島の<有明>に金沢-新潟間<北越>の例を見る程度なのだった。
運転開始当初は、<つばさ>編成の5号車に組成のキハ181を上野向きに方転し、10号車までの6両を付属編成としての運転であったが、71年の7月の<つばさ>編成の増強以降は、臨時列車のままながら特別車/食堂車を含む基本編成の7両とされ、翌年3月改正にて定期列車に昇格していた。

道内への旅の途上での立寄は、東北線からの支線ゆえ容易く、上野を21時前の夜行で発ち早暁の北上に降り立てば良かった。
前途は、72年3月改正までなら北上を20時の昼行<十和田>があって、そのまま青函の深夜便に接続したけれど、改正以降はこれが特急に格上げされてしまい、盛岡まで電車急行を使って、そこから特定特急券を別払いしてそれに乗らざるを得なかった。

初冬のこの日、早朝の北上での雨は標高が200メートルを越える錦秋湖岸から雪模様となり、岩手湯田から先は本格的な降雪となっていた。
写真は、黒沢から3キロ程戻った、この線のサミット付近での11D<あおば>である。
閑散期に10両へ減車された<つばさ>編成は、週末/休日等には付属編成を解放せずに<あおば>に運用されることが多々あった。

[Data] NikonF+P-AutoNikkor50mm/F2  1/500sec@f5.6 Y48filter  NeopanSSS  Edit by PhptpshopCS3 on Mac.

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