70's/80's Monochrome Age and Years of Ektachrome film

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用土 (八高線) 1996

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八高線での撮影には四半世紀を遅れて参入したものだから、既にCTC制御が導入されて駅の要員は引上げられていた上に、沿線には宅地開発の押し寄せて金子坂あたりの武蔵野台地の情景も失われ、竹沢から寄居に架けての比企丘陵の里山風景くらいしか残されていなかった。関東平野の西端に降りてしまう寄居以北ともなれば、ここにも広がる農地には住宅に商業施設の目について、めぼしい地点は見つからないのだった。
けれど、機関車に牽かれたセメント輸送列車はこの区間にも設定されていたから、その珍しい駅名に用土には降りていた。中世に武蔵國榛沢郡用土郷と呼ばれた地域であり、近世には集落の成立しての用土村が薩長中央政権による1889年の町村制施行下に引継がれて、1933年1月25日に到達した鉄道の停車場名に採られたのである。ただし、1月20日付での鉄道省による開業の告示ではその所在地は大里郡用土村字用土に隣接した字下宿となっている。
乏しい学生時代の記憶を辿れば、用土地とは荘園領主や地頭など地方豪族の屋敷周辺の自作農地を指したはずであり、確かに平安期から鎌倉幕府の時代、小田原北条氏の支配下へと遺跡も散在して早くから開けたことを伺わせる。おそらく後の用土村は荘園中心地だったのだろう。

1990年代の半ば、窓口の塞がれてしまった開業以来の木造駅舎を出ると、商店1軒だけの駅前から背後には古くからの近郊農村の、何の変哲も無い風景の続いていたものだった。空腹に食堂の類いを探したのだけれど、周囲にそれらしきの見当たらなかったのを覚えている。
用土をゆっくりと通過して往くのは5293列車。
1985年2月のCTC制御施行に伴う棒線化に下り線の撤去されていたものの、乗降場はそのままに放棄されていた頃である。賑わった時代の片鱗をと傷みの目立つ駅本屋を画角にするのだけれど、この年3月改正からのキハ110系列導入で始まったワンマン運転用のミラーが邪魔をする。

[Data] NikonF4s+AiAFNikkor ED180mm/F2.8D 1/250sec.@f5.6+1/2  NON filter PKR Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

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竹沢 (八高線) 1996

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竹沢に降りて駅前の国道254号線に突き当たると、その向こうに兜川の流れがある。
秩父郡との郡境稜線直下を共に水源とする木呂子川と西浦川の合流から小川町中心市街地東方の中の島で槻川左岸に達するまで、流域全てが小川町内で完結する小河川である。
小川盆地から西に比企丘陵へと伸びる谷底を蛇行するこの河川は、荒川水系の一級河川に指定されながら前記合流地点から延長の僅か7キロに過ぎないのだが、北の金勝山、南の官ノ倉山から流れ出る小さな流れを集めて支流の多いことで知られ、小川町から竹沢への八高線には短径間の橋梁が連続している。
平安の古に始まり江戸期に産業として成立したと云われている、この地域での細川紙と呼ばれる和紙生産はこれら豊かな水流によるところと納得する。古くからの養蚕地帯でもあれば、同じクワ科植物のコウゾもまた山野に自生していたのだろう。後に竹沢村となる靱負村、木部村、勝呂村、木呂子村はその生産中心のひとつと伝わる。

竹沢は八王子と倉賀野から建設の始まった八高線の最後の開通区間となった小川町-寄居間の中間駅として、1934年10月6日の全通と共に開業している。当時に農家の散在するだけの農村地帯には、鉄道省工務局による「小停車場本屋標準図」(1930年10月6日工達第875号)に示された[一号型]に準拠の小さな駅舎が選ばれた。最近まで残されていた間口15メートルのそれは、建築を簡素化したものか戦後の質素な公営住宅然としていたものだった。入口横に設置の飲料自動販売機さえなければ、おそらくは開駅時に植樹され大木に成長した桜と共に作品として撮り残したい佇まいではあった。

写真は陽の傾き始めた竹沢を通過する5263列車と退避した230Dの高麗川行き。
櫻の名所は紅葉の名所でもある例えに従い、ここの秋景も楽しめた。2007年度末に駅舎は失われてしまうが、この櫻の残されたのは幸いと云えよう。

[Data] NikonF4s+AiNikkorED300mm/F2.8S 1/250sec@f8+⅓ NONfilter Ektachrome Professional E100S [ISO160/0.5EVpush] Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

折原-寄居 (八高線) 1996

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幅の狭い乗降場にブロックを積み上げた小さな待合所のあるだけの棒線駅、折原に降りて、線路沿いに荒川の河岸段丘崖上へと至る田舎道を辿って往くと、両側には民家を散在させながら一面の桑畑が広がる。それは云うまでも無く、この一帯が養蚕地帯であることを意味する。
古来よりの養蚕は、特に近代以降には土地の少ない中山間地の農村にとって現金収入に直結した重要産業であり、北海道を含めた全国の至る所で行われ、かつての地形図には桑畑に独自の記号が付与されていた程である。父方の祖母の出身地である茨城県那珂郡山方村(町を経て現在は常陸大宮市の一部)を訪ねた折、大叔父宅の蚕部屋で桑を食むその大群には子供心に腰の引けた覚えもある。
近年に絹製品は中国本土やインド、ブラジルなどからの廉価な輸入品や代替製品が出回り、国内産業は衰退したものだから、葉のすっかり刈り取られて背の低い幹だけが林立する、一種異様とも見える桑畑の光景は久し振りに目にしたのだった。
調べてみれば、埼玉県はなかなかの養蚕県である。2003年度の資料には70.9トンの繭生産高と在り、群馬県の343.7トンにはとても及ばないけれど、それは全国生産の9.1パーセントを占める。生産の中心は秩父地方であり、寄居町には30戸の生産農家が所在して9.3トンの繭を出荷と記されていた。寄居町北側の児玉郡美里町も16戸が7.6トンを出荷していて、確かに八高線の北部では桑畑を随分と見かけた。
なお、1996年を最後に県内の製糸工場が操業を停止したため、以降には繭は山形県酒田市の松岡製糸場に送られていると云う。

秩父鉄道大野原からの積車を寄居で継送した上り列車は、荒川橋梁を渡ると河畔の下郷地区内を築堤で高度を上げながら河岸段丘崖への登坂に取り付き、それを横切って段丘上の折原へと向かう。ここには18.8パーミルが介在して換算45車(450t)を越える列車には重連仕業の組まれる所以となっていた。それは積車セメント車なら現車で8両を越える組成となる。
河岸段丘崖上には埼玉県の農業研修施設が建てられ、その敷地縁からは線路を見下ろせた。けれど、そこには踏切(和田踏切61K864M)とその前後に柵が設けられていて画角から排除するのに工夫を要する位置でもあった。
写真は夕暮れにこの坂を上っていた5268列車、八王子行き。
そこで先に5264列車で到着していた編成と併結、5471列車となって信越本線線川中島の秩父セメントデポに向かっていた。

[Data] NikonF4s+AiAFNikkor ED180mm/F2.8D 1/250sec@f4+1/2 NON filter Ektachrome Dyna100EX(EB+2) [ISO160/0.5EVpush] Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

折原 (八高線) 1997

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DD51形式内燃機に付された「本線用大型機」との区分は、あくまで「入換機」に対してのことと承知していても、古い鉄道屋には蒸機のそれに従った「幹線機」を指すものと聞こえてしまう。実際に量産開始当初には盛岡や東新潟、長野に鳥栖など地方幹線上の要衝に配備されて、そこの最優等列車から優先的に置替られたのだった。勿論吹田第一区のように大都市内線区の無煙化用途もあるが、そこでも長大編成貨物列車の先頭に立っていた。
1970年代半ばまでに、それら地方幹線に電気運転が及ぶと、幹線機らしい運転は北海道内に見られるだけとなるが、釜石や秋田、東新潟、郡山、佐倉、稲沢第一、亀山、福知山、米子、岡山、厚狭、直方などの配置車が亜幹線の客貨牽引に稼働し、中には山陰線での特急仕業も含まれた。

けれど、1970年2月から配備の行われた高崎第一機関区の仕業線区である八高線は全くのルーラル線区であった。
関東平野の西縁で中央本線と高崎線を短絡するに過ぎないこの線区の特殊性は、秩父山系での石灰石産出にともなう沿線でのセメント製造所の存在による。1925年より操業の秩父セメント秩父工場からの出荷は1934年10月6日の八高線全通後には寄居から八王子方面に運ばれ、戦後の1946年以降には氷川の奥多摩工業からの石灰石輸送も加わったこととは思うが、セメント輸送の本格化するのは1956年に大野原へ大規模な秩父セメント秩父第二工場が、1955年に高麗川へ日本セメント埼玉工場が建設されて以降のことである。
戦後には高崎に八王子のC58が客貨を牽き、重量のある貨物には9600が使われていたのだが、これに際しての機関車一台運転による定数450の実現には、より強力な大型蒸機を要して、関東近郊のルーラル線区には珍しいD51の運転線区となっていたのである。したがって1970年10月改正にともなう無煙化は、高崎第一機関区へのDE10では無くDD51-14両の投入にて行われたのだった。

丙線規格の八高線への動軸重15tのD51の入線は橋梁負担力や軌道強化をともなったとしても、当然に速度制限を要するが、低速度の重量貨物列車の仕業には問題のないと判断されたものだろう。それを引き継いだDD51も実にゆっくりとこの線路を走っていた。おそらくは同機の定期運用線区では最も低規格線であったと思われ、その姿は、函館線を18両組成-900tのコンテナ編成を率いて疾走するのと同じ機関車とは思えなかったものである。
竹沢から折原へ抜ける丘陵地、強烈な照り返しと草いきれの線路を往くのは5263列車。八王子で信越線川中島からの5470列車を分割したセメントホッパ車の返空列車である。

[Data] NikonF4s+AiNikkorED300mm/F2.8S 1/500sec@f5.6 NON filter Ektachrome Professional E100S [ISO160 / 0.5EV push] Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

寄居 (八高線) 1996

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宗像神社と聞けば、やはり玄界灘に接する筑前の宗像大社を思い浮かべるが、この寄居の社もそれが総本社である。701年の創建と云うからかなり古い。古代からの交通路ながら暴れ川だった荒川の鎮めに、その分霊を勧請したのは道主貴(みちぬしのむち)たる水上交通の守護神ゆえのことだろう。
819年にこの地を訪れた弘法大師が荒川断崖の象ヶ鼻を霊地と見て聖天像を残すと、神仏混淆の時代にそれは象ヶ鼻を上宮、宗像神社を下宮に配祀した聖天宮として祀られ、以後には永くその名が残ることになった。けれど、その時代に在っても上宮を沖津宮、境内社の弁天社を中津宮、そして下宮を辺津宮としたのは宗像大社に擬えてのことだろう。ここが再び宗像神社と呼称されるのは、1868年の神仏分離令以降である。
いずれにせよ、秩父街道の宿場として、また鉢形城の城下町としても発達した寄居の鎮守で在り続け、現在に、本町/中町/栄町/武町/茅町/花町/宮本/常木/菅原の九つとされる氏子地域は寄居町の旧市街地にあたる。

現在に11月初めの秋季大祭では、本町/中町/栄町/武町が年番で設営する仮宮との渡御・環御に氏子町内からの7台の山車が牽き回される。江戸時代後期の製作であるらしいそれらも見事だけれど、その保管庫たる背の高い山車蔵の佇まいも年に一度の祭りの賑わいを秘めるようで好ましい。
社の鎮座する現在の藤田地区、古くは六供とも呼ばれた宮本町の山車蔵は神社に隣接して所在した。高山線からの帰り道に寄居へ初めて降り立って、荒川橋梁への道すがらにこの景観に出会うと、それの南北方向への架橋には祭りの秋の低い光線を想ったものだった。ここでの紅葉黄葉は大祭を過ぎた11月の中旬にやって来る。

山車蔵の在る風景。列車は5261列車。信越本線川中島に在った秩父セメントデポの専用線発5470を、八高線内定数の関係から八王子で5261と続行の5263に分割したセメントホッパ車の返空回送列車であった。財源が少なければ5263は運休となる。寄居へ7時前の到着は、この景観には理想的な光線と云えた。

[Data] NikonF4s+AFNikkorED180mm/F2.8D  1/125sec.@f4 NON filter Ektachrome Professional E100S [ISO200/1EVpush] Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

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