70's/80's Monochrome Age and Years of Ektachrome film

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湯野上 (会津線) 1973

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国内に唯一の事例だそうである。1920年代から30年代に駅舎建築に優れた意匠を残した鉄道省も、中央本線日野のように農家を模した例はあるにせよ、さすがに屋根を萱で葺くことはしなかったのだけれど、この会津線が福島県と本店を福島市に置く地方銀行の東邦銀行を公共・民間それぞれの筆頭株主とする第三セクター経営の会津鉄道に承継されて以降の1987年12月に建替られた、湯野上の駅本屋は茅葺き屋根を戴くのである。
それを知らずにいたものだから、単なる観光旅行でほぼ20年振りにここへ降りた際には些か面食らったものだった。
観察すれば、深い寄せ棟に切妻屋根を十字に配して向拝までも設けた、木造漆喰壁の本格的民家建築であり、内部(内装)も古民家風に設えられ、萱の維持に不可欠の囲炉裏も置かれて実際に屋根を燻している。重要伝統的建造物群保存地区である下野街道大内宿のゲイトウェイを意識しての観光駅舎に違いないが、近年に見られる「なんちゃって建築」とは一線を画しており、周期的にやって来る葺き替えを含む維持・管理からも、この第三セクター鉄道単独ではなく、地元下郷町との観光フロントを兼ねての共同事業であろう。乗車券類の販売ばかりでなく、日常の管理も下郷町が受託している様子であった。

観光フロントと思えば茅葺き・囲炉裏にも納得も往き、古民家の再現に手抜きをしなかった当事者の姿勢も評価されて然るべきだが、ことさらに「駅舎」を強調されると鉄道屋には違和感も残る。R=700からR=350で緩く曲線を描いた構内に上下乗降場が往時の姿を留めているだけに尚更の感が強い。特に乗降場に林立する幟旗には興醒めした、と書いておく。
こじんまりと端正にまとまって、乗降場側へ入母屋風に回された庇も好ましく、鉄道省による「小停車場駅本屋標準図」(1930年10月6日工務局達第875号)に示された1号型図面に準拠したと思われる、それこそ山間のルーラル鉄道に相応しい赤い屋根の本屋を知る身には、駅舎に板敷きの小上がり風フロアの囲炉裏端は、やはりそこが駅とは思い難いのだった。

下り線に停車するのは1391列車。ここで対向の324Dを待つ。
画角を邪魔する、使われなくなった通票授け器のマル印は、次駅桑原方の通票第一種の確認用表記である。
春浅い3月。櫻の蕾もまだまだ固く、それに集まる乗客達の皆の長靴姿は融雪に山間の道が泥濘むのだろう。

[Data] NikonF photpmicFTn+P-Auto Nikkor105mm/F2.5 1/250sec@f4 Y48filter Tri-X(ISO400) Edit by PhotoshopLR5 on Mac.
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湯野上 (会津線) 1973

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大川ダム湖(若郷湖)に沈んだ桑原駅は、西若松からの上り勾配が舟子を頂点に一旦下り込んだ位置にあり、ここからは再び会津滝の原まで25パーミルを含む上り勾配が続いていた。
勾配の底にあたるここは、タンク式機関車の容量の少ない水を補う給水駅に指定され、上下の列車は必ずここに停車時分を持っていた。おそらくは線路開通時からの設備と思われ、良質な水の得られたのだろう。それは後には下り列車のみに限られたのだが、1971年8月に棒線化され営業要員の引上げられた後にも、しばらくの間運転関係要員が配置されていたのはそのためである。
そして狭まった大川の渓谷を隧道と橋梁で勾配を登る湯野上までの区間、第一から第三の大川橋梁がこの線の撮影の核心であり、中でも第二大川橋梁をそのハイエストとするに異論はないだろう。それを国道より遠望した光景は、多くの御同輩のフィルムに残るものと思う。
隧道へと続くこの橋梁上で下りの機関車は、運転取扱の規定どおりに一声を吹鳴して、渓谷に木霊する汽笛は今も記憶に鮮やかである。
この架橋位置は大川の「目覚めが淵」と呼ばれ、確かに旅行ガイドの類いにも景勝地としてその名は記されていたのだが、どれも一行程を費やすのみで大魚の棲みそうな深い淵の由来は知り得ない。

ただ、ここでの煙は期待出来なかった。下り列車は、勾配の緩んだ第四小沼崎トンネル内での絶気のままに通過し、直後の隧道内で再び力行に移る運転だったのである。第三大川橋梁付近のように白煙だけでも引いてくれぬものかと思ったものの、それに出会うことはなかった。
ならばと、汽笛吹鳴の一瞬に立ち上がる蒸気をと狙うも、ほんの僅かな白煙にタイミングはなかなかに合わないのだった。
この日は幸運なことに、キャブ屋根に延ばされたダイナモの排気に加え、コンプレッサを駆動させ乍ら走行してくれたものだから、煙突後部からのそれの排気を白煙に捉えることが出来た。渓谷の秋の静寂感を画角に表現するに、白い蒸気は欠かせない演出なのだった。
第二大川橋梁上の列車は1393列車。

[Data] NikonF photpmicFTn+P-Auto Nikkor105mm/F2.5 1/500sec@f8 Y48filter Tri-X(ISO400) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

楢原 (会津線) 1972

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会津線は、その核心区間とも云える桑原から湯野上の先までの大川(阿賀川)の峡谷区間を抜けると、田島盆地へと続く広い谷に出る。大川はそこにも渓谷を刻んで流れているから、平地は河岸段丘面である。
弥五島から楢原へも、その段丘面上を通過するものの、途中にて大川の攻撃斜面側の断崖を橋梁に橋坂トンネルを穿っての線形となっていた。大川屈曲部への二度の架橋よりも隧道が有利との選択なのだろう。比戸岩と呼ばれる断崖は、会津滝ノ原までの前途に、加藤谷川橋梁に山王川のコンクリートアーチ橋程度しか見るべき構造物の無い中では、それなりのポイントになっていた。当時には、河岸の木々の樹高も低くて国道から畦道を辿れば対岸を容易に見通せたのだった。

この当時に、既に会津滝ノ原での貨物扱いは廃止されて、貨物列車は会津田島までの2往復が設定されていた。全線での牽引定数18(180t)に対して、桑原-湯野上間に存在した20‰勾配に上り列車での後補機運用も組まれていたのだが、輸送量が低下していた時代ゆえ施行を実見したことはない。
朝の下りの1391と、それが夜間に上る1392はトキやトムの無蓋車中心の組成にて、田島への貨車には違いないが、夜間にかかる1392を見ていないものだから上下のどちらが積車か、果たして積荷は何であったかは分からぬままである。下りのそれはシートが掛けられていたから、これが積車かも知れないけれど、そうとすれば積荷の嵩高は無蓋車の車高を超えぬものである。
1393と1390は昼間に湯野上で交換するダイヤとされ、これらは無蓋車を改造した木材チップ専用車中心の組成にて、これは勿論上りが積車であった。

写真は、第一橋坂橋梁(39M)上の1391列車。
機関車次位に緩急車を置いて、一般貨車組成の後位側に無蓋車が組成されていたこの列車では、車高の低いそれが続くのが写真的には気に入らず、ロングショットでなければ意図的に画角から外していた。
橋梁下の廃道は国道121号線の旧道である。

[Data] NikonF PhotomicFTN+P-AutoNikkor135mm/F2.8 1/500sec@f4 Y48filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

湯野上 (会津線) 1972

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会津線撮影の核心は、桑原-湯野上間に存在した第一/第二/第三の大川橋梁に違いなかった。ともに大川対岸の斜面中腹を通過していた国道121号線から手軽に俯瞰が楽しめ、桑原に降りて第一橋梁に平行する吊り橋を渡り、山道を延々と国道まで登ったものだった。けれど、広い谷をガーダ桁11連で渡り俯瞰すれば凡庸になりがちだったのが第一橋梁であり、第二橋梁は切り立った峡谷を跨いで国道からの画角に限られてもいて、結局のところ湯野上にも近い第三橋梁を最も多く被写体にしていたと思う。ここは国道側からの遠景と近景に加え、その対岸からの画角も取れたからである。

この内、第一第二大川橋梁は、1971年に下郷町小沼崎地内にて着工された建設省直轄の大川ダムの堪水線内となり1980年11月29日を以て失われた。今、芦ノ牧温泉南駅近く、ダム湖を越える県道大川湖面橋直下に第一橋梁が沈み、トラスの撤去された第二橋梁の遺構を国道から眺められる。
第三橋梁は健在なのだが、ダム堪水時の洪水水位を考慮した施工基面の嵩上げを要して、既存橋脚を改修の上でガーダ桁、トラス桁とも架け替えられている。1991年にここを再訪した際には、同位置で同形態桁への取替にて気がつかなかったのだが、後に写真を比較してこれを知った。

写真は、雨の第三大川橋梁を往く臨8393列車。臨貨なのだが、ほぼ連日運転されていたと記憶する。
この位置からだと、直下にあった東北電力の発電用取水施設が良い前景になってくれた。この施設も大川ダムの堪水域に入って機能の果たせなくなり、小さなダム堰堤ともども完全に撤去されている。
ここに限らぬず、峡谷の景観は雨天に趣があった。

[Data] NikonF+P-AutoNikkor50mm/F2  1/500sec@f2.8 Y48filter  NeopanSSS  Edit by CaptureOne5 on Mac.

会津田島 (会津線) 1971

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福島県の会津地域には31軒の造り酒屋を数える。(福島県酒造協同組合加盟蔵/休醸場を含む)
酒蔵の淘汰の進む現代としては珍しい密集域なのである。この内の4軒の蔵元は南会津と呼ばれる人口希薄な山間地に所在している。「金紋会津」の会津酒造、「國権」の国権酒造、そして「開當男山」の開當男山酒造の3軒が、大川(阿賀川)の谷間に僅かばかり開けた田島盆地に、そして、そこから国道269号線を辿り駒止峠を越えて只見側水系の谷に抜けた旧南郷村に「瑞祥花泉」の花泉酒造がある。
この花泉酒造は、1920年と云う比較的近年に「雪深い季節に思うように酒が届かない」ことを事由に設立されたものである。その時点では地元素封家の起業であったかもしれぬのだが、戦前の不況下で一度倒産し、その際に「自分たちの酒は自分達で造ろう」と資金の零細ながら篤農家により再興された蔵でもある。戦後には、杜氏を招聘することなく、地元の手で、地元の米と水での醸造は酒蔵の本来の姿でもあり理想でもある。その酒は、濃醇で辛口、後味の良く呑み飽きしない。所謂捌けの良い酒である。

この南会津のどの蔵も年間一千石程の石高(生産量)と思われ、かつてはほんの少量が都内に流通するのみで、蔵元に特約店や問屋ルートを尋ねて出向いても入手出来るとは限らなかったのだが、地元での消費が頭打ちとなる中で、各蔵とも地酒の認知が進む大消費地である首都圏流通の整備を進めて、今では丹念にデパート関係を回れば巡り合える確率は高くなった。(「酒は出会い」と思っているので、ネット上での通販などは一度訪問した蔵を除けば、敢えて使っていないのである)

会津線の終点、会津滝ノ原を日光線の今市に結ぶ野岩線は、鉄道建設公団によるAB線(地方交通線)として1965年には山王トンネルの掘削に着手していたのだが、この71年当時に山峡の奥まったそこに降り立って線路の終端や、使われなくなった手動の転車台を眺めれば、まだまだ現実感のないものであった。紆余曲折の末、それは電気運転を採用した野岩鉄道会津・鬼怒川線として86年10月に開通し、4年後に電化は会津田島に及んでここは東武鉄道を介して首都圏に直結する駅となっている。一度このルートで会津若松へと抜けたことはあるけれど、電車に揺られる旅はそれがかつてC11が走った同じ線路とは俄には信じられないのだった。

この1971年当時、上り1392列車に対して会津田島-上三寄間に設定されていた補機運用は、ほとんど施行されなかったのだが、この日は、午後の1393列車がそれの送込回送である単363のスジにて運転された関係にて、会津田島の機関車駐泊所では2両のC11が煙を上げていた。
今、会津鉄道の車両基地検修庫のある位置である。

[Data] NikonF+P-AutoNikkor50mm/F2 1/125sec@f5.6 Y48 filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR3 on Mac.
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