70's/80's Monochrome Age and Years of Ektachrome film

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大学病院前 (仙台市交通局・循環線) 1971

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前に、道内版の記事 新冠 (日高本線) 1969 に書いたとおりに1967年以来の音楽好きである。
その未だに向こう岸の見えぬ大海に乗り出したにしては、羅針盤も持たない当時の情報源と云えば、新興音楽出版社(後のシンコーミュージック)が定期刊行していた雑誌「MusicLife」に、後はラジオしかなかった。中村とうよう氏が発行した「NewMusicMagazine」を知るのはもう少し後のことである。
ラジオは深夜放送の時代に入っていて、HBCが「北海道26時」を放送開始しており、それは「オールナイトほっかいどう」へと進化して往くのだが、そのDJトークは然程の情報源とはなり得ずに、ダイヤルを1242KC(キロサイクル、当時MHzとは云わなかった)にチューニング、ノイズだらけに微かに聞こえるニッポン放送の「オールナイトニッポン」へ必死に合わせていた。聞いていたのは勿論火曜日担当、糸井吾郎氏であった。
ずっと時代の下った後年のこと、実際にお会いした際、当時の拙いリクエストハガキを覚えていてくださった氏のことは、いずれ書こうと思うが、ここでは東北放送の安田立和氏である。
月曜深夜のニッポン放送に続く洋楽情報を探してチューニングしていて偶然にも聞こえたのが、仙台に所在の1260KC-東北放送、日曜深夜の「AMO東北ヒットパレイド」だった。後に聞けば同局が送信出力を50KWに増強した直後だったらしく、同時間帯の他の地方局の沈黙には札幌まで電波の到達したのだろう。当時に入局間もなかった安田立和アナと高原葵アナの二人による、基本的には邦楽洋楽別のランキング番組なのだが、洋楽好きの安田アナには新曲に名曲を含めてかなり渋い楽曲も紹介されていたのだった。
1972年か翌年と記憶するが、仙台に下車した折に同番組を降板後の安田アナを公開番組「スタジオ緑屋セヴン」を生放送していた仙台駅前のサテライトスタジオに訪ね、「札幌の○○です」と挨拶すれば、彼もリクエスト曲(R&Bばかりだった)と共に記憶していてくれたのには感激した覚えが在る。ずっと下っての80年代、仙台でのコンサート取材などの機会には会場でも何度かお会いし、打ち上げの宴席に同席させて頂いたこともある。
特定のジャンルと云うより、Billboard Top100に精通して、特にロック以前のポップスからニューロックと呼ばれた時代の音楽知識には傾聴させられるのところの多々在った。ご本人に意識は無いのは当たり前だが、音楽世界に漕ぎ出した最初の師には違いなく、役員まで務められて東北放送を退社の後、2009年にフリーとして「Radio倶楽部」で現場に復帰、現在も続くこのワンマンDJに生放送と云う基本的スタイルの番組は、一度 Radiko.jpで懐かしく聴かせてもらった。

大学病院前の分岐線を旋回して往くモハ100型は、おそらく9系統の原町循環だろう。
北二番丁、土橋通、北鍛冶町の三方向にデルタ線を形成していたここは、各方向共に頻繁な運行のあり、1968年にトロリーコンタクタ方式にて自動化されたのだが、病院側の歩道上にそれまでの信号扱い所、鳩の巣とか呼ばれた塔屋が残されており、これはそこの階段を上っての撮影である。今に思えば、それの写真を撮っていないのが惜しい。
背景の荒物屋に義手製作所は、当時無かったここへの歩道設置にて取り壊されてしまっている。

[Data] NikonF PhotomicFTN+P-AutoNikkor50mm/F2 1/500sec@f4 Y48 filter NeopanSSS Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

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鉄道管理局前 (仙台市交通局・長町線) 1972

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仙台駅より少し離れた東五番丁交差点近くに不思議な商業施設があった。地元ではエンドーチェーンと呼ばれ、つとに高名であったらしい。
愛宕通り(電車通り)に面した6階建て程の店舗ビルの後側に8階建を増築した、かなりの床面積を持った広い店内と記憶する。正面入口を入るとそこは吹き抜けになっていて中央にはイヴェントステージと地元ラジオ局、東北放送のサテライトスタジオも併設されていた。目にしたスケジュール表には歌手の名が並んで、彼らをゲストとした番組の放送が行われていたようだった。
吹き抜けの造りとはお洒落なイメージもあるけれど、食料品に雑貨から衣料品、家具、家電に食堂、果てはボウリング場までの規模の店内を歩いてみれば、どうにもイナタイのである。規模はデパートなのに、どこの売り場もそれの高級感とはまるで正反対の安売りPOPの吊り下がっていたように覚えている。
この少し後になれば、関西拠点のダイエーが全国に大型店舗にて進出し、所謂大型総合スーパーと言う店舗形態も理解出来ただろうが、当時の札幌にも知る限りの都内にも見かけなかったスタイルなのだった。なんと表現して良いか分からないが、強いて言えば、近所だった三軒茶屋茶沢通り商店街のそれぞれの店が一箇所に集合した感覚だろうか。
その数年後に写真学校で知り合った仙台出身者に問うと、もともとのスーパーマーケットがその旗艦店として仙台駅前に進出したものと知った。そこは子供にはパラダイスだったと云う。市内や宮城県下に多くの店舗を展開して、意味不明の店名は確かにエンドー「チェーン」だったのである。

その駅前エンドーチェーンの北東角に取付けられていた看板が写り込んでいる写真は、おそらくは東五番丁交差点を越えた緑屋の屋上からではないかと思うが、記憶は曖昧で定かでない。北目町通りとの交差点に位置した鉄道管理局前停留所に差し掛かるモハ400型は、1系統-八幡神社前から県庁を経由しての長町駅前行きである。背景には長町方から仙台駅進入の曲線が見えていて本線列車との組合せを目論んだものだろうが、粘ってもタイミングの合わなかったのか、そのカットは見当たらない。
今となっては、新幹線の高架が通過して様相の一変してしまった背景の方が気になる写真ではある。画角の線路4線の中2線が上下本線で、右が下り入換線、左側が上り南入換線、そのさらに左側に廃された仙台市専用線の名残があるはずだが確認出来ない。コンクリート建築は仙台電力区と通信区の詰所だった建物で、今は取り壊されて民間の葬祭場が建つ。手前側に見えるのは本線構内進路構成の南部信号扱所、その隣の画角外れは南部梃子扱所で貨物積卸線の進路構成をしていた。
この年の12月に仙台駅は仮駅舎に切替えられ、新幹線の建設工事が本格化した。

この仙台駅前のエンドーチェーンは、90年代に至ると郊外型大規模ショッピングモールとの競合に破れ、小売り戦線から脱落して往くのだが、それに匹敵する時代の先取りだったようにも思える。これを書くに調べていて、その建物自体の健在を知った。旧電車通りに面した1963年建築の旧館は先の震災にて4階より上を失うも、1972年増築の新館の写真には確かに見覚えがある。

[Data] NikonF PhotomicFTN+AutoNikkor200mm/F4 1/250sec@f5.6 Y48filter  NeopanSSS  Edit by PhotoshopLR5 on Mac.

北二番丁車庫 (仙台市交通局) 1972

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仙台の市内電車には、循環線の北二番丁と長町線の長町駅前から分岐する回送線の先との二つの車庫が所在した。
北二番丁の車庫へは、好きな区間だった片平丁から大町西公園・公会堂前方向へと歩けば、ほどなく到達するので何度か立ち寄っていた。交通局前停留所手前から引込まれる通路線左側の事務所に許可を請えば、黄色い腕章を手渡され構内を自由に歩けたのだった。
さして広くも無い敷地には検修庫と事務所棟がぎっしりと建てられ、検修庫の南北に1線ずつの庫外線と、庫内の4線は手前側が留置線兼ピット線、奥側が修繕職場となっており、いつもジャッキアップされて台車の抜かれた車体が置かれていた。北側の1線のみは検修庫を抜けて敷地奥まで通じて、これは留置に専用されていたようであった。検修庫北側の庫外線は、ブロック塀、途中から板塀となる隣地との境の狭い空間を、これも奥まで伸びて庫内を抜けた留置線と並んでいた。
ここには予備的車両の留置されているのが常で、当時であればワンマン運転設備搭載工事の対象から外されていた100型の101-105の内1ないし2両が置かれていた。朝時間帯に交通局前と長町線の広瀬橋ないし舟丁を往復する系統に専用されていたから、昼間に夜間はここで寝ていたのである。残りは長町の車庫に居て、定期的に運用車の差替えがなされていたものと思う。

この101-105の5両は、1948年に戦前からの単車ばかりだった仙台市電に始めて登場したボギー車で、戦後の物資不足の時代ゆえモケットを省略した腰掛けなど粗末な内装ながら、その収容力から画期的輸送改善をもたらしたと云う。100型は翌1949年から1952年までに計24両が増備されたものの、この最初の5両は主電動機など電装品が異なり、将来に廃車予定としてワンマン車化工事の回避されたのであった。
但し、車体の整備のみは施工されたと見えて各車とも原型に近い美しい姿を見せていた。
この日、敷地隅の雑然とした中に留置されていたのは写真の103、そしてその後方には102が居た。
ちなみに、この留置線の先端に車止めらしきものは見当たらない。

[Data] NikonF PhotomicFTN+P-AutoNikkor50mm/F2 1/250sec@f5.6 Y48filter  NeopanSSS  Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

裁判所前 (仙台市交通局・循環線) 1973

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1960年代、札幌から祖父祖母の地である水戸への帰省旅行には、東北/常磐線の急行で直行するばかりでなく、旅好きだった父親の発案で色々な経路に乗っていた。日本海縦貫から上越線で高崎に出て両毛線・水戸線に乗る大回りもあれば、水郡線で郡山を経て福島から奥羽線を辿る旅もあった。いずれも途中で一泊して周辺の観光地を巡るのである。
直行経路上の仙台にも降りて、一日を松島遊覧、もう一日は仙台市内観光と云うことも在り、仙石線の気動車塗色をした国電やC59からC62まで各形式揃った大型蒸機ばかりの仙台機関区など札幌では体験出来ない鉄道風景に興奮した覚えが在る。市内観光に乗った仙台市電は1型/30型の単車から最新の400型まで自局導入の歴代各形式が揃っていた時代で、1型を2両連接に改造した300型など、子供の眼にも異様さを感じ取り思わず見入ってしまう車両も居た。間違いなくゲテモノの類いである。
高床で市内電車とは異質に思えた180型は、やはり郊外線の琴平参宮電鉄からと後に知る。嬉しかったのは、水戸市内を走っていた電車への再開で、1965年に茨城交通水浜線の100型の10両が130型として転入していた。これらは単車の廃車代替に購入されたものであった。

内地に転居した1970年代には、北海道均一周遊乗車券を手にした旅行者として道内とを往復し、途上仙台にも幾度か降りて仙台市電を撮ることになった。1969年に失われた北仙台線に続いての全線廃止も噂になり始めていた頃である。けれど、1968年には呉市交通局からの2000型に3000型も加わって、車両形式はこの当時が最も多様であったろう。
中でも気に入っていたのは11両が在籍していた200型であった。導入当時に流行した後退角の付いた正面2枚窓も良かったが、100型には違和感のワンマン運転転用に際しての非対称の大窓も、この車にはまるで新製時からのように似合っていた。1955年度製の206-208の3両だけのパンタグラフも異彩で、ポイントを稼いでいた。

この日は、南町通りから右転して進入する裁判所前の跨線橋(歩道橋)付停留所を正面から捉えるべく、中央分離帯の芝生に立って交換風景を狙った。そのタイミングに加えて自動車交通に邪魔されることも覚悟していたのだけれど、小一時間程でチャンスが巡って来た。しかも交換双方が200型の幸運に恵まれた。「小松ハウス」の自動車だけが惜しい。

[Data] NikonF photpmicFTn+P-Auto Nikkor105mm/F2.5 1/250sec@f8 Y48filter Tri-X(ISO400) Edit by PhotoshopLR4 on Mac.

八幡神社前 (仙台市交通局軌道線・八幡町線) 1974

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仙台の旧市街地は、ここで青葉山丘陵を流れ出た広瀬川が形成した河岸段丘上に発達し、やがて沖積平野部にあたる奥州街道の宿場町であった長町、石巻街道上の原町と一体化した。
そこに営業した仙台の市内電車の路線はその地形に従い、上町段丘から中町段丘を環状に繋いだ循環線の緩い起伏や、中町段丘から下町段丘へ下る長町線の舟丁あたりの急坂、丘陵地手前まで登った八幡町線の坂道が記憶に残る。長町駅前停留所付近と八幡神社前停留所付近の標高差は50メートル程在った。
60年代後半に身近だったはずの札幌の路面電車にさほどの魅力を覚えなかったのも、70年以降の内地からの道内通いの途上に幾度か仙台に降りたのも、その縦断線形による趣だったと思える。

1920年代からの仙台市当局による市内軌道線の建設は、各所で市街地の整備を目的に道路新設・拡幅と一体で行われたのに特徴を見いだせる。この八幡町線も1940年12月28日の八幡町一丁目停留所(廃止時八幡一丁目)までの開業時には、それの通過する北4番丁通りを北3番丁から通じていた作並街道(現国道48号線)まで延伸しての敷設と聞く。八幡小学校下のカーブがその名残である。
循環線の大学病院前で分岐して八幡神社前まで僅か1.5キロの路線なのだが、市街地北東の丘陵斜面中腹を横切り、起伏を繰返しながら約10メートルを登る路線であった。
沿線には広瀬川へと続く傾斜が続いていて、その坂道を上れば発電所の在った三居沢の方角も眺望出来たのだが、それを電車と捉えるには周囲の住宅が邪魔をした。
この斜面には良水が湧いて、惜しくも廃業してしまったけれど、風雅な木戸をくぐる「天賞」の蔵はこの沿線に在った。市内電車の廃止されてから大分経ってからそこを訪ねて、電車を撮った場所と気がついた。

この坂を登り切れば龍寳寺の釈迦堂に往き着く。
探してみたけれど、市内電車を見下ろせるのはこの位置だけだった。日射の低い、冬の午後である。

[Data] NikonF2A+AutoNikkor180mm/F2.8 1/500sec@f5.6 Y48filter Tri-X(ISO400) Edit by CaptureOne5 on Mac.
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