70's/80's Monochrome Age and Years of Ektachrome film

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打保 (高山本線) 1998

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打保 (高山本線) 1996 では、散々世話になった打保駅前桜井商店の主を「年季の往った女将」などと書いたけれど、ここでは敬愛を込めて「桜井商店の婆様(ばさま)」と呼ばせていただく。
2000年頃と覚えているが、いつものように打保に降り、これもいつものように桜井商店を訪ねると、大きな店舗兼二階屋に一人暮らしの婆様がプリプリと怒っているのだった。曰く「JR東海と云う会社は人を人とも思わぬ不遜の会社だ」と穏やかではない。何事かと尋ねてみれば、打保駅舎の改築話しがもたらされ、新築駅に便所の附属しないことに腹を立てていたのである。
これは婆様の云う通り、東海旅客鉃道は高山本線に限らず老朽化した開通時以来の駅舎改築、と云っても大半は国有鉄道当時に要員の引揚げられて旅客フロントが不要となった従来駅舎を取り壊しての小振りな待合所の新設なのだが、下水道の整備されない地域に在っては糞尿の処理を嫌って、駅には必須のはずの便所を廃止してしまい、至近の利用者ならまだしも外来者など用便に困るのは、まさに「人を人とも思わぬ」所業と云え、列車と徒歩の鉄道屋としては実感するところでもあった。

道内に事例の多い仮乗降場を代表例に開設時より簡易な設備とした駅は存在するにせよ、鐵道院・鉄道省の時代より公共施設たる鉄道駅舎への便所の併設は基本であり、それは公衆便所の性格を併せ持つものであった。近年に至っての老朽化にともなう改築(建替)の要求に国有鉄道は便所も含めて応じ、1970年代半ばからの閑散線区老朽駅舎のカプセル化に際しても、駅機能として必要最小限の要素として待合室に次いでは便所・洗面所が上げられていた。ちなみに、その次位は公衆電話ボックスであった。
国鉄を承継した旅客鉄道各社も概ねそれを引継いだのだけれど、確かに悩ましい問題ではあったろう。併設はするものの、管理は全面的に地元自治体の負担としたり、用地を無償貸与の上で自治体の責にて設置するなどの方策も考案・実行された。貯留式でのバキュウム車での糞尿搬出を同条件の周辺集落との一括処理としたり、浄化槽式としての地域の排水路への放流などである。
けれど、東海旅客鉄道だけは発足より利用の寡少と判断した駅には不設置の方針と伺える。閑散線区での要員無配置となった老朽駅舎の改築には、ほぼ例外無く併設便所を廃止している。その責で設置を希望する自治体との協議も具体的申し入れの在ってから、ようやくに応じているように見える。設置を最初から顧みないのは経費と維持管理の回避だろうから、東海旅客鉃道とは、桜井商店の婆様の云う通り、新幹線旅客に要りもしないサーヴィスまで提供しておき乍ら、ルーラル鉄道の駅に降りる旅客には排便も排尿も我慢しろと云う、正に非道の会社に違いないのである。

打保に到着する833D。富山鉄道部のキハ120が高山まで乗入れていた頃で、この列車は富山まで直通していた。
ここで、1031Dと1036Dの離合を撮って高山へ戻ろうとすれば、下り普通列車を2本見送るまで時隔の開き、それのバルブは定例行事だった。幾度も幾度も撮った絵だけれど、やはり東海旅客鉃道により「非道」な金属柵の巡らされる以前に限る。

[Data] NikonF5+AiAFNikkor ED180mm/F2.8D  first exposer Bulb@f11 second exposer 1/8sec@f2.8 fuji compound filter 35M+5B Ektachrome Professional E100SW [ISO160/0.5EVpush] Edit by PhotoshopCC on Mac.

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堺田 (陸羽東線) 1971

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1917年11月1日の全通に先立って鐵道院新庄建設事務所が発表した「陸羽東線建設概要」は、その冒頭で「本線路は宮城山形両県界に於て陸羽両国の分水嶺を突破し西方遠く日本海の要港酒田町に至り東は小牛田町より私設仙北軽便鉄道線路を介して太平洋岸石巻港に達し以て両洋に連絡する奥羽地方に於ける重要なる本州縦貫山脈横断の鉄道なり」と書いている。
実際に、東北線に奥羽線と云う奥羽地域の縦貫線が青森まで達した当時、次にはその両線に連絡する横断線の建設が急務とされており、『鉄道敷設法』(1892年6月20日法律第4号)第二条に奥羽線として規定の「宮城縣下石ノ巻ヨリ小牛田ヲ經テ山形縣下舟形町ニ至ル鐵道」は、1910年3月に同法第七条に規定の第一期線に組み入れられ、同年5月2日付にて工事線名を新庄線として同酒田線と共に新庄建設事務所の所管となったものである。ちなみに、新庄建設事務所は、この両線の建設のために同日付で置かれた組織であり、陸羽東線全通後の1918年7月1日現在でも3名の技師以下83名の要員を数える規模であった。

奥羽地域の大分水嶺にあって標高340メートル程の鞍部を経路とした新庄線は、堺田を頂点に最急勾配を1/55(=18.2パーミル)とした縦断線形が可能なことからも、東北・奥羽の南北幹線と接続し、仙北軽便線(後に石巻軽便線)と酒田線(後に陸羽西線)を介して石巻港と酒田港の重要港湾とも連絡する貨物輸送の東西幹線と目されたのである。
各停車場のワム車換算にて30両程度となる270メートルの線路有効長に、中新田(後の西古川)、岩出山、池月、川渡、鳴子(後の鳴子温泉)、堺田、羽前向町(後の最上)に上下本線と別に用意された副本線なり側線は、それを意識した輸送設備であったろう。
サミットに位置した堺田は、レヴェル(実際には小牛田方から新庄方に向けて1パーミルの上り勾配)を得る必要から原状地盤を切取り、掘割としたような場内ながら、上下本線の2面2線の他に下り本線外側に副本線と上り本線側に貨物積卸線を持っていた。

同じようにサミットに位置した宗谷線の塩狩の中線に対して本線外側への設備は、上下列車への退避に備えたではなく、峠越えの区間で広く施行されていた輸送方式に対応したものと思われる。重量貨物列車を勾配の麓駅で定数におさまるよう二本列車に分割して運転し、その頂上駅にて再び併結の上で勾配を下る輸送方式は、蒸気動力の時代には、線区輸送力の確保にも機関車や乗務員の運用効率にも有利で各所の峠で行われていたのである。
事実、この当時にも名残の見られ、小牛田を早朝に出る川渡行き1791列車の財源は川渡で分割され、一方は765列車として午前中に堺田まで登り、そのままに留置された。機関車は単機で川渡へと戻り、小牛田を午前に出た川渡行き767列車と先に分割された1791列車のもう一方の財源を繋いだ新庄行き1793列車の前補機として再度峠に挑み、堺田で解放されれば再び川渡へと戻っていた。堺田に765列車で運ばれ、日中の永い時間を過ごした財源は、小牛田を午後の新庄行き1795列車にそこで連結されて峠を降りたのだった。
余談めくが、これに組成の貨車は小牛田から新庄までの94.1キロに15時間あまりを掛けて運ばれたことになり、徒歩並みとなる平均時速の6キロは、1970年代ともなればさすがに大時代的輸送と云わざるを得ず、おそらくは操配車主体で組成されていたことだろう。

標高338米、堺田停車場の副本線に進入した765列車。ここに貨車編成を置き去りにして機関車は川渡へと帰って往く。
この標高データは、おそらく駅舎位置の国土地理院によるものだろう。施工基面高なら337M10である。ちなみに県境もここを通るでなく、1キロほど小牛田方の第四大谷川橋梁直下にある。

[Data] NikomatFTN+P-AutoNikkor5cm/F2 1/500@f5.6 Y48 filter NeopanSSS Edit by PhotoshopCC on Mac.

木曽平沢 (中央本線) 1972

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この平沢にせよ、奈良井にせよ、中山道の最高所たる鳥居峠を直近に控えた木曾山中とは思えぬ開放感と覚えている。奈良井川の側刻により谷が拡げられ、そこに規模は知れているとは云え市街地の形成されていたからだろう。奈良井は木曾十一宿のひとつに数えられる宿場町以来であり、平沢は古くからの漆器の生産地としての集落であった。ともに中山道が主要交通路だった時代からの建造物を残した佇まいに、当時に電通が国鉄と組んで仕掛けた「Discover Japan」なる誘客キャンペーンにて女性層への意図的なプロモウションの行われ、シーズンには観光客に溢れていたものだった。
まだまだ青臭い年頃だったゆえ、この年の中央西線往きはそれをも目当ての、いい加減な覚悟だったとは以前の記事で白状した通りである。なにせ、アロハシャツにショートパンツ、足元はサンダル履きだったのだから。

奈良井、平沢に贄川を加えた奈良井川沿いの集落の所在した旧楢川村は地理的に特異な位置に在る。
鳥居峠は列島の脊梁山脈を越えており、つまりは大分水嶺の峠であった。奈良井川は松本盆地で犀川に合流して、やがてはフォッサマグナの谷を日本海へと注ぐに対して、峠の向こうは木曽川の谷であり伊勢湾へと流れ下る。けれど東側の山稜を越えて隣り合う谷を北流する横川は伊奈谷に至ると南へと流れを変え、そこへ西流して来た天竜川に合流するのである。したがって、楢川村の東山稜も大分水嶺であり、奈良井川はそれの狭間を流れて、水源の茶臼山で東西分水嶺が接する。列島を俯瞰すれば、ほぼ中央を貫く分水界を構成する稜線はこの位置のみ、楢川村村域を迂回して大きく太平洋側に突出しているのである。特異な地形として良かろう。
成因は近隣のフォッサマグナにかかわる激しい断層活動の結果とは想像に難く無いけれど、その分野には全くの門外漢である。

木曽平沢に降りて駅前の国道を奈良井方に歩けば、程なく第三奈良井川橋梁に達する。ここは、当時には母沢集落の川沿いからの遠景が定番と記憶するが、同じ画角を撮りたく無かったものか、そこに他の撮影者のいないのを良いことに、サンダル履きのままに大きな石の河原を橋梁下まで接近した。
これも良く覚えているのだが、天空高くからの太陽光が橋脚にくっきりしたマッスを描くのがとても気に入り、それの陰ってしまうと本命だったはずのD51重連貨物を捨てて引揚げてしまった。戻った駅でそれを見送れば後悔も頻りだったけれど、この頃から技術の拙いながらも対象の蒸機であっても、行為を「写真」と捉えていた意識の左証とも思えて、今になれば些かに誇らしい。
列車は、「本命」前にやって来た6802D<きそ3号>。季節臨とは云え、キハ58の2両だけとは思わなかった運転である。

[Data] NikonF PhotomicFTN+P-AutoNikkor5cm/F2 1/500sec@f8 Y52filter NeopanSSS Edit by LightroomCC on Mac.

焼石 (高山本線) 1996

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律令制に基づく東山道飛騨国の国府と云うから、奈良や平安の時代とあってはとても偲べるような古ではない。事実、それの正確な所在位置も確定出来ぬらしい。
とにかくに、それの置かれたことで中央(近江)とを連絡する官道が東山道の方県駅(現在の岐阜市長良)より分岐する支路として開かれ、駅路は方県駅-武義駅-加茂駅-菅田駅-下留駅-上留駅-石浦駅と経て国府に至ったと推定されている。基本的には木曽川から飛騨川の谷を遡る経路なのだが、それの山峡に激流を刻む区間は山中の峠を越えて迂回せざるを得ず、菅田駅(現在の下呂市金山町)から下留駅(現在の下呂市下呂)までも、今に中山七里と呼ばれる峡谷を避けて、火打峠・執幣(しっぺ)峠・久野川峠・竹原峠・初矢峠の五つの峠を越えていたのだった。
律令国家は、太宰府および五畿七道の全ての国府を連絡する交通路の整備に熱心であり、官道は最小でも6メートル程の幅員を規定していたらしく、切り立った峡谷斜面にそれを開くのは技術的工期的に困難であったのだろう。もっとも、初矢峠には鎌倉期には存在したとされる石畳が残るけれど、それの幅は2メートル程である。最小6メートルとは里道区間に限ってのことかも知れぬ。
この飛騨官道は謂わば支線区であったから、各国府とを往来する駅使の通行頻度から区分の大路、中路、小路では当然に後者であり、駅家(うまや)に繋がれた馬は五疋と推定されている。駅使は天皇より下賜の駅鈴に刻まれた刻印の数だけ、それと駅子(=駅家の掛員である)の徴用を許され、駅家から駅家へと旅したのだった。

金山町福来から比高300メートルばかりの火打峠を越えて下るのが門和佐川の谷である。東濃加子母村との境界を成す標高1000メートル程の稜線西斜面を水源に流れ下るこの河川は、山間を曲流して「和佐」の地名が生まれたのだろう。ワサはワザ、ワセとも云い、狭隘な谷の地形を指していた。
近年に開花期には照明のなされ、下呂温泉の旅館からは見学バスも走ると云う「苗代桜」は、この和佐集落の一角に所在する。Web上に開花状況が連日に速報されるほどで、それで気がついたのだけれど、この桜は高山線の第五飛騨川橋梁周辺のそれ →焼石-少ヶ野信号場 (高山本線) 1998 とほぼ同様の推移をする。線路の無いところへは往かない鉄道屋なので、門和佐川の谷を遡ったことはないし、和佐の暦櫻にも興味は無いのだけれど、同所での撮影スケジュール決定には毎年参考にさせてもらっていた。

門和佐川は、せいぜいに飛騨川へと注ぐ地点で透き通った水面を眺めた程度である。下原ダム貯水湖の湛水域がそこまで及んで、緩やかに流れる。
その位置には鉄道の門和佐川橋梁に並んで吊り橋の架けられていた。今は上流側の永久橋に替えて廃されたのだが、ついこの間の1980年代半ばまでは現役だった覚えがある。行者山の裾を回って線路へと続くだけの細道なのだけれど、かつてには焼石の集落を飛騨川対岸の益田街道に繋いでいたものと思う。
門和佐川橋梁を駆け抜けるのは1031D<ひだ11号>。

[Data] NikonF5+AiAFNikkor 50mm/F1.4D 1/250sec@f2.8+1/2 NONfilter EktachromeProfessional E100SW [ISO160/0.5EVpush] Edit by PhotoshopCC on Mac.

谷峨 (御殿場線) 1992

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蒸機機関車と云うものは確かに撮り歩いたのだけれど、殊更に思い入れを抱いていた訳では無い。小樽に、そして手稲に暮らした頃、それはあまりに身近な存在で、線路端に立てばD51にC57は必ずやって来たし、時間を選べばC62にも出会え、C56にC12、9600は入換に忙しかった。機関車列車は当たり前で、機関車と云えば蒸機しか居なかったのだから、鉄道趣味とすれば、それは機関車趣味なのだった。興味は、当時に続々と投入されつつあった内燃動車に向いていて、威厳を伴っての特急形は勿論だが、長編成を組んだ急行形が排気を天に吹き上げながら、轟音とともに発車して往く様などには心躍らせたものだった。それに乗れば乗ったで、速度を落として場内を通過の後、エンジンを噴かして猛然と加速するのは機関車列車では味わえない快感でもあった。なので、機関車趣味は蒸機から受け継いで、内燃、電気を問わないのだが(その流れでは当然に客車屋でもある)、自走旅客車なら圧倒的に気動車屋である。
おそらくは、そう云った趣味の形成期に身近ではなかったせいなのだろうが、対しての電車にはほとんど興味を持てなかった。それは写真屋としての行動にも如実に現れており、電化区間での撮影を電気運転設備の存在を事由に煩わしいと感ずるのも、それゆえと思える。内燃車両が本線列車の主役で在り続けた北海道へと、そこを去った後からも永年に通い続けた動機でもある。

1971年に内地へと転居すれば、そこは国鉄・大手私鉄とも電車の世界であり、しばらくは東京急行電鉄で、1987年からの四半世紀もの間は小田急電鉄で都心とを往来しているものの、頻繁に利用する通勤形の旅客電車には一向に興味の沸かない。せいぜい、2400形なら先頭車が混雑するとか、2600形や4000形は夏場には避けた方が賢明だとかの利用者知識に、9000形の斬新なデザインに感心した程度であり、近年でも1000形のVVVFのパルス音が無くなったのにも、3000形(2代)の1・2次車の前頭部太帯の細帯化にも暫く気がつかなかった程である。
小田急は多くの特急車も運用しており、原型の失われた後ながら3000形にも3100形にも接する機会の幾度も在ったし、新鋭の50000形のフォトジェニックなフォルムには魅力を感じてはいるのだが、どうにも撮りに往こうと云う気にはなれずにいる。

散り際の櫻を車窓に谷峨を抜けて往くのは5M<あさぎり5号>。
2両のダブルデッカー特別車に半個室のソファ席まで持っていた20000形は、バブル経済に踊った時代ゆえの車両だったろう。
これを撮りに出向いたで無く、山北へ櫻を眺めたついでに足を伸ばした際のスナップをお詫びする。とは云え、ライブラリに小田急車のカットはこの一枚しかない。

[Data] NikonF3+AiNikkor 85mm/F1.8  1/125sec@f2.8  NONfilter Kodak Ektar25 Professional Edit by LightroomCC on Mac.

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